11、性善論者のためのセレナーデ
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S県月重市から車を走らせることおよそ一時間、隣県との境に鷹木原という地がある。詳しい説明は割愛するが、そこの山の麓に広がる樹海が、女性ふたりの監禁場所である。
自殺の名所として知られるこの樹海に、それも昼ならまだしも夜に近付くというのは、そこそこの勇気を必要とした。
とにかく井島と木崎は周辺の民家を尋ね回り、警察官としての権威をフル活用して廃墟の情報を集めた。職権濫用もはなはだしい。逆になにやら警戒されたところもあったが、疚しいことでもあったのだろうか。
しかし世の中には親切な町民がいたもので、ふたりは案内されて一件の廃屋に向かった。
その前に辿りつくと、井島は少しどきりとした。あの、鬼のいる廃屋と、よく似ている気がしたからだ。
……いや、廃墟なんてどこもこんなものだろう。
気を取り直し、町民を外に残して中に入る。当然電気などないので懐中電灯で照らしながら進むが、足場が悪く、そのうえ中はひどくごちゃごちゃしていた。
木崎が埃にむせながら近くにあった扉を開く。中からはむっと黴の匂いがしたが、人間はいなかった。
「声を出せる状況だと思います?」
「まあ、この場所なら口を塞ぐ必要はなかったんじゃないかな」
「それもそうですね。……おーい、幸和!」
廃屋に響き渡る、木崎の大声。反響しそうな壁といえば崩壊しているのだが、そういうことには構わずに、木崎はどんどん声を出しながら、物を押し退けて進んでいく。
彼のそういうところが少し羨ましい。若いな、と思う。
いや井島だってまだそう歳ではないつもりだし、もともとこういう性格なのだからどうしようもないのだが。それでもたまには、情熱のまま、向こう見ずに動いてみたいと思うこともある。
でもその一方で、そういうのは自分らしくない、と牽制している心もある。昨夜もそうだった。自分が自分でなくなってしまいそうな気がして、自分を抑えていた。
「馬鹿言うなよ」
自分を叱責するのは、何年ぶりだろう。
歩き出した。思ったより身体が軽いのは、ずっと付きまとっていた亡霊がいなくなったからだ。後輩はもう成仏した。
今日くらい抑え込むのをやめたって、罰は当たらない。
「七枝さん、いますか!」
声を出す。気持ちを放り出すように。
気恥ずかしいが、思ったより心地よいものだった。
「……幸和ちゃん!」
そのとき、奥の扉を開いていた木崎の声の調子が変わった。井島もすぐにそこへ向かう。
扉の中からは、濃い黴の臭いと一緒に何か食べもののような匂いも混ざって漂ってきた。それは生きた人間のいる気配だった。木崎と井島とは、同時にその部屋に飛び込んだ。
「明彦さん……!」
そこには後ろ手に縛られた幸和子がいた。井島が会うのは少し久しぶりのことになる。相変わらずの黒髪に、整った和顔に浮かべた安堵の表情が美しい。
若いふたりが再会を喜ぶのを尻目に、井島は幸和子の隣にいるもうひとりの傍へ向かう。
疲れた表情の七枝は、井島を見て、溜息をついてみせた。
「遅いよ、幹樹くん」
「七枝さん、ほかに言うことはないの」
「んー、内ポケットに鍵が入ってるから、この手錠外して」
井島は苦笑して、七枝の上着のボタンを外す。
その状態でちょっと目線を上に向けると、妙に恥ずかしそうな七枝と眼が合った。なに、と尋ねる井島に、なんか脱がされてるみたい、とのこと。実際そうじゃないか。何を照れてるんだ。
「……助けにきてくれたんだ」
手錠を外していると、七枝が呟く。
「来ないと思った?」
「半々くらいかなーと思ってた。嫌われてる自信もあったし」
がちゃり、と鍵の外れる音。七枝の右手が解放される。
もうひとつ開けて、今度は左手。
「さすがに、この歳でプロポーズしてくれた相手を嫌うっていうのは、難しいよ」
「うん」
「それに僕はまだ返事をしてない」
「する気あったの」
「あったよ」
井島は手錠を回収して鍵と一緒に七枝に渡した。上着を着直している彼女を、なんとなしに眺める。
一日無理な体勢をしていたのだろう。肩が凝ったのか、七枝は首をぐるぐると回したり、身体を伸ばしたりしている。ぐっと伸びをする姿は猫に似ていた。
それから、いつも後頭部でまとめていた髪も、今は髪留めが外れたままになっている。それではじめて、彼女が少し癖毛だということを知る。
女王様というより、どこにでもいるごく普通の女の人。
「……しよう」
気がついたら井島は呟いていた。
七枝が振り向く。年頃の女の子みたいな顔で、眼をぱちくりさせている。
それから、思いきり井島に抱きついてきた。
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