10、ラプソディ・イン・ブルー
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井島はどうにか湖に落ちないで済んだらしい。代わりに死にそうになっている木崎(井島を引き留めるのに全力を使った)には、厚くお礼を言いたいものである。
井島の手にはもう本はない。
「俺の眼には湖に落っことしたように見えましたけどね」
「ああ……大丈夫だと思うよ」
「信じてますよ、まったく……さてと、古田一十に連絡するにはどうしたらいいんですか」
木崎に言われて、井島は手帳を取り出した。交通事故のときに連絡先を聞いたはずだ。メモを探すと、カプセルホテルの部屋番号が書いてあった。
とりあえずホテルに掛けて、部屋を借りている人間を出してくれるように頼んだ。
だがもう一十はそこにはいないかもしれない。そう思いもしたが、意外にもちゃんと応答があった。井島はそれが一十本人だということを確認してから、隠し場所を教えるから月重湖に来るように、と告げる。
何か企んでるの?と、一十は訝しげに言う。
「電話っていうのは意外に聞かれていることがあるものだよ。それより直接話したほうが、より正確に伝わるし」
『仕方がないなあ、じゃあ五分くらい待っててよ』
どう考えてもカプセルホテルのあるあたりからここまでは五分では来られない距離だったが、今さら驚く気にはなれなかった。昨夜だって車で移動していた井島たちを尾行して、七枝を連れ去ることができた一十なのだ。
相手は人間ではない。
だから上手くいくかどうかはわからない。だが、井島は木崎にすべてを話した。計画していることを、その手段を。
それからほんとうに五分かそこらで、ラフな恰好をした古田一十が姿を現した。
「まさかここに沈めたなんて言わないよね」
「はは、まさか」
ずばり確信をついた一十の言葉に、木崎の苦笑いがちょっと胡散臭い。嘘をつくのが苦手な男なのだ。
井島はそれを無視して、一十に切り出した。
人質の居場所と本の在り処、どちらを先に言うべきか。
もちろん一十は本が先だと言った。自分の欲望にとても正直なこの青年は、たかだか二冊の本のためにとんでもない悪事を働いてくれるほどなのだ。
何が彼をそうさせるのかは、井島にはわからない。
だが、井島の計画のためには、ここで折れてはいけないのだ。
「本の在り処を知っているのは僕しかいない。そして、そこへの行きかたは木崎くんに頼らないといけない」
「……どういう意味だ、それは」
「そのままの意味だ。そして僕は思うんだけどね、一十くん」
井島は表情を変えないで続ける。
「僕らが本の在り処を提示しようとしたら、その時点で彼女に殺されるんじゃないかな。それは、平和主義者だと言ったきみの望むことではないだろ?」
「居場所が先ってことか、ずるい大人だな」
「ふつうの大人だよ、これくらい。……僕らのうちどちらが死んでも、きみは本の在り処を知ることができなくなる。僕らときみが無関係になったことを証明するには何が必要か……それは僕らがここを立ち去ることだ。だから先に居場所を知っておく必要がある。大丈夫、どちらもすぐに共有すればいいだけの話さ」
ね、と井島はできるだけ人の好い微笑で言った。
少女の言葉が蘇る。わたしはあなたそのもの、と彼女は言った。
つまり、井島もまた、鬼と同義である、ということだ。
彼女は誰の前にでも現れる。どんな人間でも状況によっては鬼になることができる。
この湖で恋人を殺された女がそうだったように。
今度は井島が鬼になる番だ。
「うーん、まあ、そういうことにしてあげようか」
一十は少し悩みながらも、井島の提案を受け入れた。
「どのみち、ふたりとも僕や彼女からは逃げられないからね」
不気味な言葉だが、井島も今はそれも平然として受け止められる。木崎はちょっと動揺したようだったが。
井島は木崎に指示を出して、もう一度鏡を開かせた。
ああそれ前にも見たね、とは一十の言葉だ。井島はこれは初耳だったが、木崎が目配せしてきたのを見て、計画の失敗にはならないことを理解した。大丈夫だ。
まず、一十から、人質の居場所を。
「木崎さんの奥さんと七枝さんは、鷹木原の樹海の近くにある廃墟にいるよ。地元民に訊けばすぐわかる」
よりによって監禁場所はS県屈指の自殺の名所だった。これから探しにいくのかと思うと憂鬱だが、まあ仕方がない。
……さあ、今度はこちらの番だ。
ひとつ息を吐く。そして、口を開く。
「申し訳ないが、僕はひとつ嘘をついた」
そう言った瞬間、一十は驚いた顔でこちらを見る。だが、それは井島の言葉のせいではない。
井島の合図と同時に、木崎が水鏡のなかで、何かをぐっと握りしめるような動作をしたからだ。
「……じつは、木崎くんさえいればそこには行けるんだよ」
行ってらっしゃい。
木崎が顔を上げた。井島もそちらを見た。
古田一十が湖に飛び込むのを、見た。
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