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ウォルフ、その2です。
獣人の戦士が跪き、頭を下げる。
その意味を彼女は知らない。
俺も語るつもりは無い。
月明かりだけが知っている、俺自身の誓い。
「部屋を代わる?」
此処暫く、彼方此方と連絡を取るために、ばたばたしていたが、漸くそれも落ち着いたので、久しぶりに部屋でくつろいでいた俺に、お茶を淹れてくれたリーリアはにっこりと笑うと頷いた。
「勿体無いじゃないですか。私一人泊まるのに、こんな広い部屋もベッドも必要ありませんし、それにここ、ウォルフさんが自費で差額分払っていらっしゃるんでしょ?なら、経費内で落ちる、普通の部屋にしたほうがいいんじゃないかな、と」
時々、彼女の経済観念が良く分からなくなる。
今淹れてくれたお茶は、グランド特産の「リョクチャ」だ。普通のお茶と異なる淹れ方をする「ソレ」を、彼女は事も無げに慣れた手つきで淹れてくれる。その味は、グランドの貴族であるステアの家の侍女ですら、足元にも及ばない。
だが、リョクチャは希少性が高く、普通の家庭ではまず見ることができない物でもあった。下手をすれば、一生存在すら知らないものもいるほどだ。
旅芸人の一座で育ったリーリアも身近にリョクチャがあったとは思えない、しかし彼女の手際は、昨日今日でできるモノでは到底無い。
「別に構わないと思うが?こうして俺は寛いでいるわけだし?」
「でも、ウォルフさんお休みになられないでしょう?」
「ちゃんと別の場所にいるぜ」
リーリアも俺が夜、何処に行っているか位解っているはずだ。それを匂わせると、彼女は大きくため息をついた。
「休んでいらっしゃらないでしょう?」
言い返そうとして、俺は彼女の言葉の中にある意味合いに気が付き絶句した。
「何らかの事情でこの部屋を取っていらっしゃるのなら、私は自費で部屋を取りますから」
飛び込みの、しかも時間をわきまえずに着いた俺たちに、顔見知りの宿の主人は呆れながらも部屋を用意してくれた。
…有無を言わせず高い部屋をあてがわれた、なんて文句は言わない。
「…ウォルフさんさえよければ、同じベットでも構いませんよ」
俺は再び言葉を失った。自分が俺に何をされたかわかっていないはずが無いというのに。
「だって、ウォルフさんにとって、私って『そういう』対象じゃないでしょう?あの時は緊急時だったから…違いますか?」
「リーリア」
思わず、目の前に座る相手をまじまじと見てしまう。
「男と女の関係や…ましてや、恋愛対象になりえない。でしょう?」
穏やかに笑う彼女から憤りは感じられなかった。ただ穏やかにあるがままを語っている。
「そんな崇高な男じゃねぇよ」
くすり、とリーリアは笑い、それ以上は何も言わなかった。
「…けど、そうだな」
立ち上がり、向かいに座る彼女を掬うように抱き上げると、そのままベットに倒れこんだ。
「ここんとこ、忙しくて、ゆっくり寝ちゃいなかったから、少し寝るか」
「いや、別に私はゆっくり休ませて貰っているので必要ないんですが」
彼女自身の言葉通り、慌てる気配も警戒心の欠片もない声が頭の上から聞こえる。
「別にいいじゃないか。今日は完全休養日だ。ごろごろしてようぜ」
ゆっくりとやってくる心地よいまどろみに、俺はその身を任せた。「仕方ないなぁ」と小さく呟く声と、衣擦れの音とともに体の上に掛け布が掛けられる気配がした。
これほどまでに穏やかな気持ちで眠りに付くことができるのは、何時振りだろう。
戦士にとって、背中に庇う相手、というのはとても難しい存在だ。
背中を預けるに足りる相手は、少なくはあるが俺にもいる。ステアしかり、エルグやレーエン然り。
しかし、単純に護るためだけに背中を見せるというのは、一つ間違えれば自分の命を預けるようなものだ。無防備になった背中を見せ、しかも敵と戦う。
そんな存在には一生巡りあう事などないと思っていた。
29年生きていれば、それなりに恋愛経験だってある。しかし、そのどれもが自分にとって共に戦う相手でありはしたが背中を預ける事はなかった。ましてや、護るためだけに背中を見せるなどという愚考は、俺にとって考えもつかない事だった。
半分ふざけながらも、彼女に跪いた事を驚いていたのは俺自身だったが、あの時すでに無意識に思っていたのだろう。
彼女こそ、俺が命を預けるに値する相手なのだと。
愛とか、恋とかいうものではない、もっと深い信頼と信用を与えるべき相手。
誰よりも近くて、そして誰よりも遠い場所で俺は彼女を見守ろう。