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流血表現があります。ご注意ください。
最初に気がついたのはウォルフさんだった。軽く眉を寄せた後、豹頭へと姿を変える。レーエンさんが剣を取り、エルグさんが立ち上がる動作の流れで大地に手を着く。
ウォルフさんが耳を動かす。どうやら、人型よりもこちらのほうが耳が良いらしい…不思議だ。
旅を始めて二週間余り。幸い天気にも恵まれたし、野宿にも慣れた。そんなある夜のこと。
「結界石が壊された」
静かな声でエルグさんが言うと、ウォルフさんが頷く。その視線は、ある一点から動かない。
相変わらず無詠唱で結界を張ると、私を馬の背に乗せる。
旅に出るにあたって、私は彼らにひとつの条件を出した。それは、有事の際優先すべきは、それぞれ自分の命だと言う事。渋る、というより拒否する彼らに私は首を振った。
最終的に足手纏いになるのは私だ。お互い助かれば良いが、自分を助けるために相手が犠牲になるなんて真っ平ごめんだ。
自分が犠牲になるつもりもないけれど。
「後先構っていられない状態っていうのは、本当にぎりぎりの局面だと思うんです。だから、自分の命を最優先してください、ってだけのことです」
それでも、となお食い下がるレーエンさんに「じゃあ、馬にでも乗せておいて、万一の場合はお尻たたいて逃がしてください」…なんて言ったのがまずかったんだろうなぁ。この状況。
言っておくが、私は馬なんか乗ったことが無い。…いや、全く無いわけではないけど、インストラクターが最初から最後まで付いていてくれた体験教室での話だから、初心者といっても問題は無いと思う。
けれど。
何かを察知した馬を落ち着かせる為に、軽く鬣を撫でながら、考える。
そんな事態になったのならば、自分も生きては居まい、と。
次の瞬間、すごい勢いで結界が破られ、皆の視線の先にあらわれたのは、妖艶な美女だった。
「やはり妖魔か」
もう一度、今度は私の周囲を重点的にエルグさんが結界を張る。
妖魔。
設定はしたものの、その姿を見るのは初めてだ。外見は魔族特有の美しさをもっているが、その瞳はどろりと白く濁っている。
それが妖魔や陰魔の特徴だと教えてくれたのはブランだった。
にやり、とその紅い唇を歪めて妖魔が嗤う。
レーエンさんが剣を構え動く、ざしゅり、と嫌な音を立てて妖魔の体に赤い線が走り、そこから血があふれ出すが、全く気にした様子も泣く、ゆらゆらとした動きで近づいてくる。
イタイ。
「くっ」
エルグさんが、手を広げると風が唸りを上げ渦を巻く。そこから真空の、いわゆる鎌鼬が発生して妖魔の服を切り裂くが、それを瞬きひとつの動作で沈めてしまう。
「やはり、魔法攻撃は効かないか」
間合いをつめウォルフさんが剣を振るうが、今度はあっさりと魔法防御ではじかれてしまう。その隙を狙って、レーエンさんが飛び掛るが、風が邪魔をして近づくことができない。
イタイノハイヤ。
強い。魔族一人をどうにかしようと思ったら、一個師団が必要となる、というのは決して誇張された言葉じゃないことがわかる。
意を決したように、ウォルフさんが剣を右から左に持ち替えた。それと同時に、レーエンさんとエルグさんが動いた。
何が起こったのかよくわからなかった。袈裟懸けに切られた妖魔がどう、っという音を立てて地面に倒れこんだのが目に映り次いで、止めを刺すべくウォルフさんが剣を垂直に構えたのが目に入った。
ヒトガイタイノハ、モットイヤ。
後になって何度思い返しても、自分自身何が起こったのか、どうしてあんなふうに動けたのか解らない。
気が付いたら、私は体ごと妖魔を抱き抱えていたのだ。
「リーリア!」
寸前で剣をとめたウォルフさんが驚きに目を見開いて私に叫ぶ。
「どけ!まだ『ソレ』は生きて…リーリア!」
魔法を発動しようとしたエルグさんの体が、金縛りにあったように止まり、レーエンさんも驚愕の表情を浮かべている。
ちり、とした痛みは首筋にあるものの、その牙は私の喉に食い込んではいなかった。
『……ま?』
微かに震える「声」。魔族と私をつなぐホットラインのような表層意識の疎通。
剣の位置を動かさず、ウォルフさんの動きも止まる。
彼女の瞳が、どんよりとした白い色から本来の色に戻っている。
(綺麗なブルー。空の瞳の色なんだね)
膝に頭を乗せて、彼女の髪を梳く。ばさばさになってしまっているが、元は綺麗な赤い髪だったのだろう。
『一緒にいたかったの。彼と一緒に痛かったの』
容姿に似合わぬたどたどしい口調で彼女は言う。
『だから、私の中に彼を入れたの。彼の全てを私の中に閉じ込めたの』
遠い昔に読んだ話の一説を思い出した。鬼にとって究極の愛情表現は「喰らう」ことだと。生きる時間が違うゆえに、愛した者を自分の一部とするために喰らうのだと。
『解っていたの。ちゃんと解っていたから、遠い山の中で、一人、時間が私に追いつくのを待っていたの…なのにっ!』
ふいに脳裏に浮かぶ映像。魔力を奪う拘束具を持った数人の男たち。真っ黒な袋に入れられ、どこかに連れて来られ、無理矢理何かの肉らしきものを食べさせられ…。
『逃げたの。自分が自分じゃなくなる前に。でも、そのうち意識がなくなって…気が付いたら、血溜まりの中に居て…わたしっ』
そっと頭を撫でてやる。彼女の瞳の色が戻ったことで、とりあえずレーエンさんは剣を収めたけど、ウォルフさんは構えたままだ。
周囲から見れば、瀕死の妖魔を膝に抱いて最後を看取ろうという姿にしか見えないだろう。こうして触れ合っていれば、表層意識の疎通は、基本他者には気づかれない。魔族の上位者ならば、会話を漏れ聞くことくらいできるかも知れないが。
『ごめんなさい、おかあさま』
涙をためていう彼女に、私は首を振る。
『…お願い、聞いてくれる?』
震える腕で、彼女が動く。ぴくり、と背後のウォルフさんが反応した。そんな彼に視線を移し、再び私へと向き直る。腕を伸ばし、私の顔を引き寄せた。
「…お、ねが…い。彼、の 元 へ」
「マーサッ」
彼女の名前を読んだ私に、彼らの視線が集まる。「知り合いだったのか?」と、レーエンさんの呟く様な声が耳に入った。
『お願い、おかあさま』
唇をかみ締める。此の侭生き延びたところで、彼女の未来は閉ざされている。
「…ウォルフさん」
顔を上げ、琥珀色の瞳を見つめる。それだけで、全てを察した彼は、首をひとつ縦に動かすと垂直に構えた剣を上に上げた。
『おかあさま』
(なあに?)
無理矢理笑顔を作る。できれば笑って送ってあげたい。
「だぁいすき」
それは、子供が母親に向ける純粋な思慕の声。
「私もよ、マーサ」
どしゅり。
花が綻ぶような笑顔のまま彼女は愛しい男の元へと旅立った。