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アルベルト・ロッシェ・ツァイ・レックス子爵閣下は、久しぶりに戻ってきた末の弟の意気消沈した姿を、珍しげに見下ろした。
幼い頃から、なんでも卒無くこなす彼は、どちらかというと冷めた性格で、物事にも動じることは少なかった。相手や場所によっていかようにも振舞うことができる社交術を持ってはいるが、親しいものには毒舌な、だが気遣いのできる性格であった。
そんな彼が、家族の前とはいえ、人目も憚らず落ち込んでいるのは、兄にとってみれば何年ぶりだろうと考えずにはいられぬほど珍しい姿なのである。
ことん、という音と共に自分の目の前に置かれた琥珀色の液体を見て、ランスーリンは顔を上げる。正面のソファに兄が同じ酒の入ったグラスを持って座るのが目に入った。
「無理にとは言わないが、よかったら話してみないか?気が楽になるかも知れない」
若くして宰相補佐の身分となった青年は、弟に穏やかな笑みを見せる。琥珀の液体を口に含み、彼は大きく息を吐いた。
「女性に関わらないで欲しいと言われました」
滅多なことでは表情を崩すことの無いアルベルトであったが、流石に驚きを隠せなかった。
親の遺伝子を相応に受け継いだ子供達は、宮中でも評判の美丈夫揃いだ。なかでも、ランスは「みなの良いところ取り」と、生前祖父が笑ったほど整った容貌をしている。彼が知る限り言い寄られることは山ほどあるが、自ら動くことは無かったはずだ。
「厭ってはいない、と。偶然に会えば既知の者として挨拶位ならしてくれます。しかし、俺に対する対応は…礼儀正しいと言うより慇懃な…距離を置く態度しか取ってくれません」
「お前の気を惹く為ではないのか?」
「気配が既に拒絶しています。…ああ、こうも言われました。自分を求めるのなら、海水と浜辺の間に土地を探し、耕せぬ道具でそこを耕し、一粒の種で土地を満たし、結べぬ紐で満たした作物を結んで来い、と」
眉を寄せて怒りを滲ませた長兄に、彼は首を振って苦笑を見せる。
「勿論、ただの揶揄です。例えそれを叶えたところで自分は貴方の物にはならない、と。笑顔の下の笑わぬ瞳がそう言っていました」
「何者かは知らぬが身の程知らずが。レックスの家のものにそのような暴言を吐くなどと」
「お止めください、兄上。違うのです。彼女は最初に会ったときから一定の距離を持って俺に接していた。それを無理に縮め自分の腕の中に囲おうとしたのは俺です」
大きく息を吐いて、彼はグラスの中身を再び口にする。そのとき初めて、それがアルベルトが特別な時にしか呑まぬ酒だということに気がついた。兄の気遣いに青年は静かに微笑んだ。
「今まで自分の周囲にはいなかった女です。俺は彼女が欲しい。…地位や名誉など彼女に比べれば塵にも等しい」
「そんな相手ならば、奇麗事を言うよりも動け。家を使っても構わない。それとも身分が届かぬほど高いお方か?」
「いえ、市井の歌姫です」
別の意味でアルベルトの眉間に皺がよったが、一瞬にして消してしまったので、下を向いていた弟が気付くことは無かった。
「会ってみたいものだな。その歌姫とやらに」
顔を上げるとランスーリンは困ったように微笑んだ。
「ここには観光に来ているので、歌を聞かせることは無いと言っていました。残念です、兄上にもせひ聴いていただきたい。不思議な韻律の歌を歌うのです」
「そうか…」
静かにグラスを傾ける兄に習い、ランスーリンもグラスに口を近づけた。芳醇な味わいをゆっくり口の中で転がす。
胸の丈を言ってしまったからか、気が楽になり、もう一度リーリアと話してみようと思い直す。ただの友人としての節度ある距離なら、彼女も受け入れてくれるかもしれない。…事実、そのような事を言ってもいた。
自分の物思いに入り込んだ彼は、軽く目を伏せグラスを傾ける兄の、その瞳の奥に揺らめく暗い炎に気付くことができずにいた。
取り合えず、後に知った他所様のお家事情はこっちにおいて置いて。
さぁ、観光だ!
でも、やっぱり足が向くのは市場。しかも食料品関係を扱っている所。我ながら笑っちゃうけど、道の駅なんか行っても一番に覗くのは地元で取れる野菜の直販所だったもんね。習慣って根強い。
うわー安い。うわー新鮮ー。
物価基準が低いから、安いのは当然なんだけど、新鮮さも悪くは無い。流石王都って感じだね。流通がとてもスムーズ。
内陸だから、魚はどうかな?って思ったら、魔法で凍らせて運ぶんだって。水と風の魔法の応用だとシュルツが教えてくれた。じゃあ、赤蜜柑は?と尋ねたら、かの果実は管理温度がとても難しいのだそうだ。だから凍らせて運ぶことができないらしい。適温でこちらに運ぼうとすると、相当数のA以上のランクを持った魔法使いが数人要るらしい。そんな事をすればコストがかかりすぎて、今以上にとんでもない価格になるとのこと。高価なのに、そこそこの量が供給されるなんて、買い手がつかない。むしろ希少性を謳って高価な方が需要はそれなりにある、という事なのだろう。
ちなみに、魚を凍らせて運ぶ程度の魔法なら、B級前後の魔法使い一人で大丈夫なのだそうだ。しかも、一日1~2回程度魔法を強化すればOKなんだって。
農業にも力を入れている国だから、農作物も豊富だけど…姿かたちが微妙に向こうと違うのが笑える。
そんな風にあっちきょろ、こっちうろしていたから隙が生まれた。どん、とぶつかられる衝撃とざっくりと何かが切られる音。
よろめく体を誰かが支えてくれた。それと同時にブランとシュルツが逃げた相手に向かって、同時に走り出す。
「いい!大丈夫だからっ」
周囲にいた人たちが一斉に振り返るが、私は二人の方に気を取られてそれ所じゃない。
「いいから、戻って!」
私の声に振り返って、不承不承戻ってくる二人に安心して、ほぅっと息を吐く。
「大丈夫か?」
なんです?この腰に響く重低音。あ、いやいやいや。
ここで漸く我に返り、転びかけた体を支えてくれた相手に気づくと、顔を挙げお礼を言おうとして…固まった。
ねーさぁぁぁん、ねーさぁん。グ○ンがいますっ。リアルグイ○がここにいますぅ。
顔を上げた先にいたのは豹の顔を持った男の人だった。