やられたらやり返す
湖上都ミルフェリアの朝は、いつも穏やかだった。
鏡のような湖面が陽光を返し、街の白い石壁を淡く染める。
だが、その日ばかりは、どこか張り詰めた空気が流れていた。
「――ステラがいたってことは、確定か」
僕が言うと、ギデオンが頷いた。
現在、僕たちはギデオンとフレイアの報告を聞くために、青環会の神殿奥にある会議室に集まっている。
ギデオンは、重々しい声で言った。
「ああ。あれは……まぎれもなく、自分の妹――いや、今は『ステラ』だった」
「その、汚染物質……『雷過触媒』でしたか。それを持っていったのも、彼女なんですね」
と、リアが眉を寄せる。
ギデオンは静かにうなずいた。
「そうだ。『濁環』の残党が守っていたものを、まるで待っていたかのように奪っていった。油断していたわけではないが……やられたよ」
部屋の空気が重くなる。
僕たち全員が、名前を出すだけで背筋が冷えるあの男の存在を思い出していた。
雷過導師ディス=ヴォルテクス。
史上最悪の組織『虚環教団』に所属する『道越者』であり、八導師の一人にして、守護の国で非道な実験を行った張本人。
そして、その狂気の研究で数多の命を奪った『知恵』の研究者。
「……『虚環教団』ですか。それに『道越者』が敵となると……今いる戦力だけでは、心もとないですね」
フィオナが小さくつぶやく。
彼女の淡い水色の瞳が、静かに揺れていた。
「汚染の進行はどうなってます?」
僕が尋ねると、フィオナは手元の報告書を見つめて首を振った。
「少しずつ、悪化しています。水の精霊力である程度の侵攻を遅らせることができますが、完全に止めることは不可能です。圧倒的に、水の霊触者が足りません」
「やっばいじゃん。どうすんの?」
リアが椅子に寄りかかって言うと、フィオナは頷く。
「――これ以上放置すれば、ミルフェリア全土の水は汚染され、危険に晒される」
そう言って、フィオナは立ち上がった。
青い儀礼衣の裾が静かに揺れ、会議の場に澄んだ声が響く。
「私は女王陛下に名のもとに、『調査騎士団』を派遣します。『濁環』の残党、そして『雷過導師ディス=ヴォルテクス』の動向を追う。青環会も、汚染を食い止めることより、汚染の原因となる『濁環』の排除、導師の捜索を優先させます」
その声には、聖女と呼ばれる所以――揺るがぬ意志があった。
だが、フィオナは追い詰められているような、そんな危うさも少し感じられた。
まだ十八歳……僕も地球では二十三歳だったけど、ここまでの重責を背負ったことはない。
「……ディスの居場所がわかれば、僕が戦えるかもしれない」
僕が言うと、ギデオンが静かに首を振る。
「駄目だユウト。彼の目的は『素体の確保』……つまり、守護の国で、自分の部下たちにした実験をするために、『協調』を歩む霊触者を必要としているのだろう。ユウト、恐らくお前は、雷過導師の求める最も重要な『素体』と言っても過言ではない」
「わかってる。でも、逃げるつもりはないよ」
リアがすっと僕の隣に立ち、真剣な目を向けてくる。
「ユウト。あなたが一人で戦えば強いことは知っています。ですが……それが『孤独の道』の本領だとしても、一人で無茶はしないでください。私たちも一緒に戦うことはできます……それに、あんな実験を繰り返させないために、覚悟はできています」
「アタシも賛成。てか、やられっぱなしだし、今度はブチのめしたい!!」
と、フレイアは拳をパシッと打ち付ける。
ギデオンは苦笑しながらも、その言葉に頷いた。
「決まりだな。フィオナ殿……その『調査騎士団』に協力させてくれ」
「……感謝しかありません。皆様、ありがとうございます」
「よっしゃ!! じゃあどこを調べる? アタシ、下水とか臭いしあんま調べたくないな……」
「……それなんだけど」
僕はテーブルに広げられた地図を指でなぞった。
青環会の地図は、湖上国全域の水流と配水施設が記されている。
湖に流れ込む五つの支流と、それらを制御する幾つもの水門。
そのうちの一か所に、僕の目が止まった。
「ここ。『中央濾過塔』っていう施設。湖の水がすべて集まる場所らしい。もし汚染を一気に広げようとするなら……ここを狙うのが一番効率的じゃない?」
僕の言葉に、フィオナははっと目を見開く。
「……確かに。そこは青環会直属の管理区。誰もが出入りできる場所じゃありませんが……もし、内部に『濁環』の協力者がいるなら」
「汚染経路を隠したまま、実験を進めることもできるってことですね」
リアが鋭く続けた。
「それに……」
と、僕は地図を指でなぞりながら言う。
「この施設、以前は青環会本部の一部だったらしい。たぶん、水の精霊力が濃い水のはず……ディスが求める場所としても、最適だと思う」
「なるほど……理にかなっているな」
とギデオンが腕を組む。
フレイアは口笛を吹いた。
「決まりじゃん。そこ、行こ。アタシ、地下探索とか燃えるんだよね~」
「いや、遊びじゃないぞ?」
「わかってるってば。真面目に行くよ、真面目に!!」
僕がリアに言うと、いーっと舌を出した。
フィオナが少しだけ微笑んだ。その表情には、わずかな安堵の色がある。
「では、調査騎士団が動くまでの間、あなたたちにはその施設の周辺調査をお願いします」
「わかりました。僕たちは『先行組』として、動いてみます」
「それとユウト様……その調査、私も同行します」
「え? フィオナさんが、ですか?」
「ええ。どうも気になることがありまして……よろしいでしょうか」
「問題ないですけど……みんなもいいよね?」
リア、フレイア、ギデオンは頷いた。誰も文句はないようだ。
会議はそこで終わった。それぞれが立ち上がり、準備に取りかかる。
フィオナは、部下に指示を出し、女王直属の騎士を調査隊として各地に送り出し、『濁環』やそれに関わる敵がいたら排除するように命令していた。
リア、フレイアも気合いを入れている。
ギデオンは、誰にも聞こえないほどの声でつぶやいた。
「……シスカ。お前はいったい、何を見ている……?」
その横顔を見たとき、僕は胸の奥がざわついた。
彼の瞳に宿るのは、怒りでも憎しみでもなく、ただ『失ったものを取り戻したい』という切実な祈りだった。
◇◇◇◇◇◇
それぞれが行動を開始した。
女王直属の、この国で一番強い霊触者が部隊を組み、国を脅かす者を排除するため動き出した。
恐らく、『濁環』の残党はこれで一掃される。
そして僕たちは、『中央濾過塔』の調査だ。恐らくだけど……そこに、雷過導師ディス=ヴォルテクス、そしてステラがいるような気がした。
「……よし!!」
現在、僕は青環会本部に与えられた部屋で、調査の準備を終えた。
部屋を出ると、リアとフレイアが待っていた。
「準備完了。いつでも戦えます」
「同じく!! よーっし、ブチかますぞー!!」
二人はやる気満々だ。
そして、三人で合流地点である青環会の神殿入口へ向かうと……前を歩いていたリアが急停止。
僕がぶつかり、フレイアが僕の背中にぶつかった。
「り、リア、いきなり止ま」
「シッ」
と、リアが僕の口を指で押さえた。
そして、曲がり角からそっと顔を出す。
僕とフレイアは顔を見合わせて首を傾げ、リアと同じように曲がり角からそっと顔を出した。
そこにいたのは、ギデオンとフィオナだった。
◇◇◇◇◇◇
ギデオン、フィオナ
◇◇◇◇◇◇
「フィオナ殿、一つ聞いていいだろうか」
「……何でしょうか、ギデオン様」
「あなたは、何に怯えている……? どうもあなたの強い言動の裏に、怯えのようなものが感じられる。これから不測の事態も想定しなければならない……あなたが何を抱えているか、聞いてもいいだろうか」
フィオナは窓際に立ち、湖面を見下ろしている。
その視線の先では、澄みきった水が静かに波紋を描いていた。
だがその美しさの下に、確かに何かが潜んでいる――そんな気配だった。
「……あの湖を見ていると、胸が締め付けられるんです」
フィオナがぽつりとつぶやいた。
「澄んでいて、どこまでも美しいのに……その底には、汚れが確かにある。まるで、私の記憶のように」
ギデオンは黙って隣に立った。
湖面に映る二人の影が、淡い光の中で重なり、揺れる。
「……ディス=ヴォルテクスの名を聞いた時、あなたは少し震えていた」
「気づかれていましたか」
「ああ。自分も……あの男には、妹を奪われた。だが、あの震え方は恐怖に近かった。あなたとディスの間に、何かあったのか?}
フィオナは小さく首を振った。
淡い金の髪が揺れ、湖の光を反射してきらめく。
「……何も、思い出せないんです。ただ……とても冷たい部屋で、何度も名前を呼ばれていた気がします。ディス=ヴォルテクス……その名前は、私の記憶の中にある言葉の一つ」
「……そうか」
ギデオンは目を閉じ、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言葉を続ける。
「その痛みを、無理に思い出す必要はない。だが……もしまたあの男が現れたら、自分は倒す」
その言葉に、フィオナの瞳が揺れた。
凍りついた心の奥に、小さな灯がともるような――そんな表情だった。
「……あなたは、本当に優しい方ですね」
「優しい? 自分はただ、怒りに突き動かされているだけだ」
「いいえ。怒りだけで誰かを守ろうとすることはできません」
フィオナは、静かに微笑んだ。
聖女と呼ばれる彼女の笑みは、どこか儚く、それでも強かった。
「……ギデオン様。あなたが傍にいると、不思議と怖くないんです。あの男の声も、記憶の影も、少しだけ遠ざかる気がします」
ギデオンは驚いたように彼女を見たが、すぐに視線をそらした。
湖面を見つめ、低くつぶやく。
「……それは、自分にとっても同じだ。あなたの祈りを見ていると、何故か妹の笑顔を思い出す。あの時、救えなかった命の代わりに……今度こそ、守りたいと思ってしまう」
ふと、沈黙が落ちた。
風が二人の間を通り抜け、水面にさざ波を立てる。
遠くで教会の鐘が鳴った。朝の祈りを告げるように、柔らかく、静かに。
「ギデオン様」
「……なんだ」
「あなたは『守護』の騎士様でしたね。どうか……私たちを、お守りくださいね」
フィオナは少しだけ頬を染め、目を伏せる。
ギデオンはその言葉を聞き、しばし言葉を失った。
だが、やがて短く息を吐くと、静かに答えた。
「……約束しよう」
二人の視線が交わり、淡い光がその間を照らす。
それは戦いの誓いであり、同時に、言葉にはできぬ約束の証だった。
◇◇◇◇◇◇
ユウト、リア、フレイア
◇◇◇◇◇◇
曲がり角の陰から、僕とリアとフレイアは、息をひそめてその様子を見ていた。
「ねぇ……なんか、今いい雰囲気じゃなかった?」
「しっ、フレイア!!」
リアが小声でたしなめる。
僕は苦笑して、そっと二人を手で制した。
「回り道して合流場所に行こうか……うん」
戦いの前に、少しくらいの安らぎがあってもいい。
そう思いながら、僕たちは音も立てず、その場を離れた。




