汚染された水
フィオナの案内で、湖上国ミルフェリアの郊外にやってきた。
どうやらフィオナは、水の精霊力を通じて湖の異変を察知できるらしい。迷うことなく進み、ここまでやってきた。
そして、湖の傍で静かにしゃがみ、そっと水に手を触れる。
「…………これは」
フィオナは何かに気付いた。
僕も傍にしゃがみ、そっと水の様子を観察する……水面を渡る風はひんやりとしていて、陽の光を受けた水がまぶしく輝いて見えた。
だが、澄んでいるはずの水が、不自然に濁っていた。
「一部の個所だけ、水が濁っているな」
ギデオンが湖畔にしゃがみ込み、濁った水に触れる。
その指先には、うっすらと黒い膜のようなものがまとわりついていた。
ほんのわずかに粘り気を帯びたそれは、精霊力に反応してか、指先でジリジリと音を立てて焦げる。
「間違いなく、何かに干渉されたことで起きた事象だな」
「……私も、そう考えます」
フィオナも、ギデオンさんを見て頷いた。
僕は小さく息を呑んだ。
昨晩、リアから聞いた……ミルフェリアの水は、あらゆる国の中で最も澄んでいると評される。
精霊力によって常に浄化されている水を汚すことは不可能だとも聞いた。
「どうして……こんなことが」
僕の疑問に、誰も答えることができない。
フィオナが湖面に近づき、改めて湖面を見る。
透き通るような水色の瞳が、濁りの中心を見つめていた。
彼女の周囲の空気が柔らかく震える。青い光が指先に集まり、まるで小さな波紋のように広がっていく。
「水の精霊力よ……どうか、応えてください」
彼女の祈りのような声が響いた瞬間、湖面が淡い光を帯びた。
だが次の瞬間――紫がかった火花が水面を走り、光が弾けた。
フィオナの身体がふらつき、ギデオンはとっさに支える。
「フィオナ殿、大丈夫か!?」
「……ええ、問題ありません。けれど、これは――ただの汚染じゃない」
湖面は、わずかに黒い渦を巻きながら、光を吸い込むように沈黙していた。
精霊の加護すら拒むような、禍々しい気配。
まるで、湖そのものが反発しているようだった。
「こんなの、初めてです。精霊が……怯えているみたい」
フィオナはそう呟き、苦い表情で膝をついた。
僕は湖を覗き込みながら、背筋を撫でる寒気を感じていた。
清らかなはずの水が、どこか生きているような――不気味な鼓動をしていたのだ。
「決定的だな。この人為的な汚染……『協調』に反する何かが起こした人災に違いない。だが、まだ汚染は小規模だ」
ギデオンの声が冷たく響く……怒りだろう。
フィオナは、ギデオンに支えられながら言う。
「同感です。恐らくこれは実験……そして、こんなことをするのは、一つしかありません」
「心当たりがあるんだな?」
ギデオンの目は真剣だった。
そしてその横で、フィオナが唇を噛む。
「『濁環』……ですね」
「だっかん?」と僕が聞き返すと、彼女は静かにうなずいた。
「『協調』を乱すために、湖を濁らせようとしていた地下組織。数年前に、私を筆頭とした殲滅部隊との戦いでほとんど壊滅したはずなのに……生き残りがいたということでしょう」
「なるほどな……その組織、『混沌』に属する組織ということか」
「はい……」
フィオナの言葉に、ギデオンも眉をひそめる。
そのとき――。
「――ユウト! やっぱりここにいた!」
後方から聞き慣れた声。振り返ると、リアとフレイアが駆けてきた。
フレイアの顔は険しく、リアは息を切らせながらも真剣な表情をしている。
僕はフレイアに聞く。
「どうしたんだ?」
「怪しいやつを見たの。黒いローブに、変な仮面つけてた。こっちのほうに来たと思ったんだけど……」
フレイアの言葉に、フィオナの瞳が鋭く光る。
彼女の中で何かが結びついたのだろう。
ギデオンは言う。
「二人が見た怪しい人は、その『濁環』に違いないか?」
「ええ。彼らは精霊力の流れを断ち、湖を濁らせようとしていた……けれど、失敗し続けていたはず。それが今になって、これほどの規模で成功するなんて……」
「――『技術力』が上がったってことか」
僕の口から自然と出た言葉に、三人の視線が集まる。
僕は静かに頷いた。
「思い当たる人物がいる……雷過導師ディス=ヴォルテクス。守護の国での実験を終え、行方をくらませたあいつなら、やりかねない」
「そういえば、『協調の国』に行くと言ってましたね」
リアが言う。
その名を聞いた瞬間、ギデオンの拳が震えた。そして、フィオナは小さく目を見開いた。
「雷……確かに、先ほどの浄化反応には、雷の精霊力を感じました。。普通の呪詛や毒ではあり得ません……もしそれが、その方の仕業だとしたら――」
彼女の言葉が途切れる。風が吹き抜け、水面が不気味に波打つ。
黒い濁りが、まるで生き物のように広がった。
フレイアは顔をしかめ、湖面を眺めて言う。
「ねえ……動いてない、あれ?」
確かに、湖面の黒い膜が、ジワジワと広がり始めていた。
リアは眼鏡をクイッと上げ、じっくり観察しながら言う。
「確実に広がってます。水と油のようにも見えますね。どこからか油を継ぎ足して、汚染を広げているような……でも、水と混じりあっていないようにも見えます」
「……あれは、生きています。生物に近い汚染です」
「生物、だと」
ギデオンが眉をひそめ、精霊導器である盾を構える。
僕も弓を手にし、黒い膜に向かって狙いを定める。
「とりあえず、攻撃してみる。生物なら反応がある……と、思う」
反対意見は出なかった。
リアも弓を、フレイアは斧槌を手にする。
フィオナは、濃い青色の長い錫杖を手にした。
「じゃあ……まずは一発!!」
風の矢を放つと、黒い膜に命中。風が巻き上がり、黒い膜も散った。
だが、それだけだった。再び水は黒くなる。
濁りは襲いかかってくるわけでもなく、ただ湖底へ沈んでいった。
ギデオンは首を傾げる。
「何なのだ、これは」
「……わかりません。生物であり、精霊力の塊のようにも見える。意思のようなものを感じますが……私たちが理解するには、情報が足りません」
「…………ふむ」
僕は、飛び散って地面に撒かれた黒い膜に触れた。
ヌメヌメしており、ゼラチン質のような、だがアメーバのようにも見える。
「原生生物に近いのか? 寒天というか、アメーバというか……精霊力に浸したアメーバ、っていうのが近い表現かな」
思わず独り言。全員が僕の言葉を聞いていた。
汚れはすぐに浄化される。でも、生物なら?
解決策は相変わらず見えないが、こんなものを湖面に流していいはずはない。
「放っておけないな……」
「お? ユウト、濁環だっけ。潰したいって顔してる」
リアが僕を見た。
「そうだね。僕、この国に来たばかりだけど……この国の水、すごく気に入ってる。汚染されるのを、黙って見ているのもね」
僕の声は自然と強くなっていた。
守護の国で、あの狂気の導師が何をしたのか、僕は忘れていない。
妹を怪物に変えた男――ギデオンの瞳にも、静かな炎が宿っていた。
「同感だ。この汚染の先……『濁環』の先に、ディスがいる可能性もある」
「アタシは最初からやる気だけどね!!」
「私もです。『知恵』を歩む者が、こんなことをしていい理由にはなりません」
僕らが決意を固めると、フィオナはペコリと頭を下げる。
「……ありがとう。この国のために、力を貸してくれるのですね。『漂魂者』と、その従者たち」
「じゅ、従者って……みんなはそんなのじゃないですよ」
「違うのですか? 過去の『漂魂者』たちにも、異なる『魂の道』を歩む従者たちが揃っていたと聞いたことがありますが」
初耳だった……まあ、みんな属性も、『魂の道』も違うけど。
とりあえず、従者云々は否定。これからどうするかを話す。
「まずは……この汚染がどこから来たのかわかれば」
フィオナは再び湖に手をかざす。
水面が小さく揺れ、青い光がその手を包んだ。
しかし、すぐに黒い膜がそれを飲み込む。
「……やっぱり、駄目ですね。手掛かりがあればと思いましたが」
「無理はするな。今は触れても問題ないが、毒などの可能性も否定できない。
「平気です。でも……この水、完全に汚染されてるわけじゃない。まるで――抵抗しているみたい」
抵抗。その言葉に、僕は目を細めた。
「つまり、この湖も……戦ってるのか」
そう呟くと、フィオナがうなずいた。
静かな決意の光が、その瞳に宿っていた。
「ええ。だから私たちも、応えなくてはいけない。水の精霊たちは、まだこの国を守ろうとしている……それを、裏切るわけにはいかない」
フィオナの手がそっと水に触れた。
その指先に、小さな青い光が宿る。
それはまるで、湖が彼女に助けを求めているようだった。
ディス。
あの男が再び何かを始めたのなら、絶対に止めなければならない。
彼が魂を弄ぶ限り、どんな国も安全ではない。
「……行こう、みんな。ここに留まっても何も掴めない。濁環の拠点を突き止める」
「ええ、そうですね。ユウト」
「ふふっ、また暴れられそうね!!」
フレイアが笑い、リアが苦笑いする。
ギデオンは無言で、フィオナは静かに立ち上がった。
背後で、湖面が再びわずかに波打った。まるで、僕らを見送るように――あるいは、警告するように。
「まずは情報が欲しい。フィオナさん、過去の『濁環』を潰したこと、詳しく教えてください」
「わかりました。では、神殿へ戻りましょう」
そして、僕らは歩き出した。
青と黒が入り混じる湖を背にして、これから訪れる『混沌』の気配を感じながら。




