湖上の暗雲
湖上国ミルフェリアの外縁、夜の霧に包まれた水上の研究塔があった。
その周囲にある白い湖面に、ゆらゆらと青い光が漂っている。それは水属性の精霊力の残滓――そこに、黒い雷が走った。
「――いやあ、美しい夜だ。水面に輝く、天井の星……ロマンティック」
塔の最上部に立つのは一人の男。長い紫の髪を後ろで束ね、白衣を纏っていた。
その瞳には、雷光のような縦の紋が走っていた。
『雷過導師』――ディス=ヴォルテクス。
そしてその背後で、同じ白衣の少女が無機質な声で言う。
「……先生、電圧安定。精霊力濃度、通常値を超過しています」
「構わないよステラちゃん。むしろ丁度いい――この国の水が、どれほどの抵抗を見せるか試してやろう」
男は手をかざした。
瞬間、掌から紫電が弾け、湖面を撃ち抜く。
しかし――何の変化も起きなかった。
雷光が走ったはずの水面は、波ひとつ立たず、静かに光っている。
その様子を見て、ディスは愉快そうに笑った。
「なるほど、『協調』とはよく言ったものだ。外からの刺激を、まるで呼吸するように吸収している……まるで生き物だな」
「この国の水は、精霊と共鳴しています。人為的な汚染は拒まれる構造です」
「だからこそ面白い。――壊せないなら、利用すればいい」
彼の言葉に、少女ステラの瞳がかすかに光った。
それは命令を受け入れる光。感情の欠片はない。
◇◇◇◇◇◇
塔の地下、湿った空気が充満する空間。
そこでは黒いローブを纏った数人の人間が、呪紋を刻んでいた。
『混沌』の組織のひとつ、『濁環』。
協調の国の秩序を壊すため、数年前から密かに活動している。
彼らの目的は、この湖を濁らせること。精霊たちの均衡を乱し、国そのものを崩壊させることだった。
だが、何を試みても失敗してきた。
毒を流しても、呪符を投げ込んでも、翌朝には水が澄みきっている。
――そこに現れたのが、ディスだった。
「導師……あなたは、本当に水を汚せるというのですか?」
幹部格と思しき男が恐る恐る問う。
ディスは微笑しながら、白手袋を外し、手の甲を見せた。
そこには、複雑な雷の紋章が刻まれていた。
「汚す? 違うよ。私は『変換』するだけだ。この湖の清浄は、精霊の共鳴によって保たれている。ならば、私は『共鳴そのもの』を導電させる。――電流によって、魂の回路を反転させるのさ」
「……魂の、回路を?」
幹部の男は、それなりに優秀ではあるが、ディスが何を言っているのか理解できない。
だが、ディスはニコニコしながらウンウン頷く。
「そう。この水は協調している……『協調』とは内側で循環する理。外圧ではなく、内部から崩すしかない、ということだ。まあ、理解しなくてよろしい」
ディスの口調は穏やかで、どこか優しささえあった。
だが、その瞳の奥にあるのは、冷たい実験者の光。人を人として見ていない目だった。
「では先生、はじめます」
「うむ、ステラちゃん。よろしくね~」
ステラが無音で進み出て、小瓶を差し出した。
中には、淡く紫がかった液体が揺れている。
「……先生特製、『雷過触媒』です。水中に投与すれば、精霊力の伝導が逆転します」
「いいね。さあ――始めようか」
ディスは黒衣たちに指示を出す。
地下室にある湖へ続くパイプ、そのバルブが開かれ、触媒がゆっくりと流れ込む。
ほどなくして、水面が微かに波立った。
「……おお!!」
誰かが息を呑む。
青い水面の中に、黒い脈のような模様が走っていった。
それはまるで血管のように広がり、やがて湖全体へと波紋を描いた。
『協調』の国の水が、初めて揺らいだ瞬間だった。
「成功。だが、これはほんの序章にすぎない。私の目的は、汚染ではない……集約だ」
「集約……?」
「そうだ。精霊との共鳴度が高い者たちは、この変化を敏感に察知する。つまり――彼らは自ら近づいてくる。私の実験に必要な『素体』として、ね」
ディスの笑みは、稲妻のように冷たく光った。
『濁環』の者たちはその意味を理解しきれず、ただ震えていた。
◇◇◇◇◇◇
その頃――塔の外。
湖を渡る夜風が吹き、赤い光が遠くに見えた。
実験を終えたディス、ステラの二人は塔の上にいた。夜風を浴びに来たのである。
すると、ステラが気付く。
「……あれ? 先生、もう日は堕ちた、はず……ですよね?」
「うん、そうだね」
最初は、夕陽の残光かと思われた。だが、それは明らかに『燃えて』いた。
空が赤くなった。そして、灼熱の竜巻が十二個、塔を囲うように暴れ狂い出した。
その『炎』の凄まじさに、ステラが震える……だが、ディスはニコニコしたままだった。
「せ、先生!!」
「ああ、大丈夫大丈夫」
次の瞬間、塔の防護結界が音を立てて砕け散る。炎の中から、ひとりの女が歩いてきた。
腰まである深紅の髪、露出の多いドレスに、ボロボロの深紅鎧を装備している。大きな胸にはバラのタトゥが彫られ、顔半分を髪飾りのような仮面で隠していた。
「や~れやれ。せっかくの湖なのに……汚すなんて趣味が悪いわねぇ」
女の声は、静かで、それでいて空気を焦がすほどに熱かった。
足元に火花が走り、空気が焦げる。
彼女が歩くだけで、湿った石畳が乾いてひび割れていく。
ステラが警戒態勢に入り、精霊導器である弓を手にする。
「……先生、勝てる気がしませんが、お守りします」
「大丈夫大丈夫。ほら、怯えなくていいって……全く、久しぶりだねぇ、ローレライ」
ディスが言うと、女は唇を歪めて笑った。
「アハ、『センセイ』だって。アンタみたいなクソ外道が先生ねぇ……ディスぅ、その子可愛いねぇ。食べちゃうつもり? アハハハハハハハ!!」
その言葉に、ディスの眉がわずかに動いた。
そして、大きなため息を吐き、首を左右に何度も振る。
「……ローレライ=ヴェルイーナ。何の用かな? 『灼壊導師』がここに来るとはね」
ローレライは微笑した。
その背後に、十二の斧槌が浮かび上がる。
燃え上がる光輪のように、彼女の周囲を巡り始めた。
「何の用? 何の用って……馬鹿じゃない? アンタ、ここ、アタシの縄張りよ? 覚えのある精霊力がチョーシ乗ってるから、ブチ殺焼き尽くそうと思っただけ。クズな『知恵』の研究者が、ダレの縄張りで何するつもり?」
「ああ~……そういえばそうだった。でもまさか、実験を邪魔するつもりかい? キミの縄張りってことは失念していたけど……そもそも、その縄張りっていうの、キミが勝手に言ってるだけだよねぇ」
「アハハハハハハハ!! おもしろっ……なになに、殺し合い望んでる?」
「不毛だね。わるいけど、邪魔しないで欲しいな。すぐに終わらせて出て行くさ。我輩たち『八導師』同士で争うのはご法度だろう?」
「争う? アハハハハハハハ!! 違うわ。壊すの。あなたの計画も、あなた自身も――全部、灰にしてあげるわ」
空気が、爆ぜた。周囲の熱量が跳ね上がる。
湖の水面が蒸発し、塔の壁が赤く溶ける。
ディスは手をかざし、雷を放つ。紫電と紅炎が衝突し、夜空が昼のように明るくなった。
ステラが叫ぶ。
「先生!!」
「ふむ、これは……少し『面白く』なりそうだ」
「あぁん? なに、ヤル気になったの嬉しい。最近、雑魚ばかりでつまんなくてねぇ、ディスぅぅぅぅ……遊ぼうか!!」
『破壊』を司る灼壊導師ローレライ=ヴェルイーナ。
その姿は、まるで世界を焼き尽くす紅蓮の女神だった。
ディスは両手を上げ、ローレライに言う。
「ひとつ、面白い話があるんだが……聞く? 我輩と戦うよりも『面白い』話があるよ」
「あん?」
ディスは、ローレライに『面白い話』をする。
その内容を聞き、ローレライはにんまりと笑い、精霊導器を納めた。
「へぇぇぇ……そういや聞いたわ。『漂魂者』が現れ、道を刻んでる、って」
「うん。キミ、興味ないかい? 『漂魂者』の強さ……きっともう生きてる間はないよ? 生きている『漂魂者』と戦える機会なんて」
「…………アハハハハハハハ!!」
ローレライは、オモチャを見つけた子供のように高笑いした。
◇◇◇◇◇◇
その頃、遠く離れた湖の中心が、微かに脈動していた。
水面を漂う青い光が、ほんの少し、濁る。
それは、これから起こる何かの予兆だった。




