国境と温泉の町アドモニクス
山を越えた先に、こんな光景が広がっているとは思わなかった。
薄く霞む湯煙、赤い屋根が並ぶ街並み、そして岩肌の間から噴き上がる白い蒸気。
ここは、山岳都市アドモニクス。
「おお、すごいな……こんな山の上に」
「知識としては知っていましたが、驚きですね……」
僕とリアは驚いていた。というか、こんな山の上に都市……物資とか運ぶのが大変だろう。
「確か、隣のドゥーン火山道から温泉が流れているんだっけ」
「ええ。確か……私たちは別ルートで、登山用ルートと、物資運搬用のルートがあるみたいです」
リアは本をペラペラめくりながら言う。
ここは火山地帯の恩恵で、街のいたるところに温泉が湧き出しているらしい。
街の中央には大浴場があるそうで、露天湯の湯気が風に乗って漂ってくる。硫黄の香りが鼻をくすぐり、長旅で乾いた喉をくすぐった。
フレイアは興奮し、僕とリアの前に立つ。
「わぁぁぁっ!! これが温泉都市かぁぁっ!! すごい、本当に街のあちこちから湯気出てるじゃん!!」
フレイアが両腕を広げて感動の声を上げる。
彼女の頬には、湯気を浴びたようにほんのり紅が差していた。
隣でリアも、少しだけ目を細めて笑う。
「一説によると、温泉が多いのは『水の精霊』と『火の精霊』によるもの、と言われていますね」
「なるほど……真偽はともかく、温泉が湧くのも精霊の加護のおかげってわけか」
僕は肩にかかる荷を下ろし、深呼吸した。
湿った暖かい空気が肺の奥まで沁みる。今まで張りつめていた神経が、一気に緩んでいくのがわかった。
「とりあえず宿を取ろう。飯も風呂も寝床も、今の僕たちには全部必要だ」
「異議なし!! 高級なところ、高級なところね!!」
フレイアが真っ先に手を上げた。
もう何度目かわからない意見を繰り返し言う。
「あたし、露天風呂付きの宿がいい!! せっかく来たんだし、贅沢しようよ!!」
「はいはい……まあ、私もゆっくり湯に浸かりたいですし、いいですよね」
リアが苦笑する。その声音に、久しぶりの柔らかさが戻っていた。
ヴァルゼン帝国での戦いや、マウントウルフとの戦いと、みんな少しずつ疲れてた。火山を越えてくる間も、無意識に気を張っていたな。
だからこそ、今夜くらいは肩の力を抜いてもいい。
◇◇◇◇◇◇
宿は、街の中心部にある「蒼石の宿屋」という三階建ての建物だった。
入り口には湯けむりの形をした看板が下がり、石畳には温泉の水がうっすらと流れている。
一番高級な部屋を三部屋取ろうとしたが、ワンフロアまるまる一つの六人部屋しかなかったのでそこを取った。
部屋に案内されると、広い畳敷きの部屋で、外には大きな温泉浴槽が備え付けられていた。
「個室に温泉があるの!? 最高すぎるっ!」
フレイアが目を輝かせる。
「リア、見て!! これ、全部温泉だよ!!」
僕は笑いながら荷を降ろした。
室内を確認。二人用の個室が三つに、簡易キッチン、トイレにシャワールーム、そして浴場に展望露天風呂と、部屋の三分の一が温泉だった。
すごいな……これは楽しめる。
「二人とも、先に入ってきていいよ。僕は荷の整理しておくから」
「いいの!? じゃあ、お言葉に甘えて~♪」
フレイアがタオルを肩にかけて走り出す。
リアも軽く頷いて後を追った。
二人が扉の向こうに消えると、僕はようやく腰を下ろした。
「……国境を越えたら、地の国かあ」
ずいぶん、遠くまで来た気がする。
僕がこの世界に転生して、まだ二ヶ月程度だろうか……すっかりこっちの生活にも慣れてしまった。
「これから先も、戦いになるんだろうか。僕を狙ってくる組織は、どれくらいあるのかな……」
思えば、王都での戦いが終わってからずっと、落ち着いて考える暇なんてなかった。
今はその気配もない。けれど、静寂の奥で何かが蠢いている気がして、心の奥がざらついた。
「……ま、今考えても仕方ないか」
僕は肩を回し、部屋の隅にある湯桶に目を向けた。
木の蓋を開けると、白い湯気がふわりと立ち上がる……そういえば受付で聞いた。この温泉、飲めるらしい。
柄杓があったので、僕は備え付けの湯飲みに温泉を注ぎ、飲んでみた。
「……いい匂いだ。少し硫黄、少し土、少しだけ甘いような香り。味は……うん、なんだか甘い」
まるでこの街そのものの香りみたいだった。
僕は温泉の味を満喫し、荷物尾整理を始めるのだった。
◇◇◇◇◇◇
リアとフレイア、温泉にて
◇◇◇◇◇◇
「ふぃ~~~~~……っ、生き返るぅぅ~~~~!!」
露天風呂では、フレイアの声が響いていた。
足を豪快に開き、浴槽の縁に腕を乗せ、大きな胸を隠すことなく見せつけ、頭を浴槽の縁に預けている……同性とはいえ、リアは気恥ずかしくなり目を逸らした。
リアは、浴槽の縁に座り、太ももにタオルを乗せ、風を浴びていた。
眼鏡をはずし、髪をまとめてタオルで押さえている。入浴時だけのスタイルだった。
「温かい温泉、心地のいい風……こんなの、久しぶりですね」
「そうねえ……んあぁぁ、溶けそう」
リアは、湯を肩にかけ、胸にかけながら言う。
「先ほど、受付で聞いたんですが……ドゥーン火山道は今、『溶岩流』が増えているそうです。もしかしたら危険な個所があるかも」
「問題ないわよ。あたしやユウトは火属性だし、溶岩くらいじゃ火傷しないわ。リアのことも守ってあげるから安心安全!!」
「もう……フレイアさんは豪快すぎますよ」
「そう? まあ、オヤジに似たのかなー」
豪快さは、確かにヴォルカン団長譲りだと思った。
そもそも、フレイアが二人に同行するための許可を取る時も。
『オヤジ、あたしユウトたちと旅したい!! いいよね?』
『んだよ、自分で決めたのか? 一緒に行けって言おうと思ってたぞ』
『そうなの? じゃあ行くわ!!』
『おう、強くなって戻って来い!!』
と、これだけのやり取りだった。
感動の別れなどない。普通に、何日か出かけるような感覚での別れに、ユウトもリアも何とも言えなかった。
「溶岩流ねぇ……あれ、そういや、オヤジが何か言ってたような」
「え?」
フレイアは湯舟から立ち上がり「うーん」と考える。
そして、ポンと手を叩いて思い出したように言う。
「そうそう。オヤジ、『ドゥーン火山道には溶岩の魔獣が出る』って言ってたっけ。どんなやつなのかな……戦ってみたいかも」
「……私は嫌ですけどね」
「あはは。ま、出会ったらやるってことで!! よしリア、髪の毛洗ってー」
「はいはい。わかりました」
リアは、フレイアの長い髪を洗うべく、洗い場へ行くのだった。
◇◇◇◇◇◇
ユウト視点
◇◇◇◇◇◇
夜。
僕も温泉を満喫した。そして三人で宿の食堂に集まった。
目の前には、石鍋で煮えたぎるシチュー。具は地の国名物『岩茸』と『山獣肉』だ。
香ばしい湯気が鼻をくすぐり、胃袋が鳴った。
さっそく食べると、僕たち三人は目を見開いた。
「うっまっ!! この肉とろける!!」
フレイアが豪快に頬張る。
「うん、これは美味しい。獣肉……もっと野性味ある味かと思ったけど、すっごく柔らかくてシチューの旨味がしみ込んでる」
リアも笑いながら小さく頷いた。
「美味しいです。高級宿の食事というから堅苦しいのを想像していましたけど……こういうメニューとは思いませんでした」
「なんでもいいじゃん。ねえねえ、あたしらさ、今すっごく旅を満喫してるよね」
「ふふ、そうですね。こういう旅が、ユウトの『孤独の道』の歩みなんでしょうかね」
「……そうかもな」
……リアの言葉が、心に沁みた。
僕はスプーンを置き、湯気の向こうの彼女を見つめる。
孤独の道。僕が歩むと決めた、誰とも交わらないはずの道。
けれど、こうして隣に笑っている二人がいる。
それは矛盾かもしれない。でも――悪くない矛盾だ。
「ユウト、何その顔。お風呂でふやけた?」
フレイアがニヤリと笑う。
「いや、ちょっと考え事してただけだよ」
「ふーん、そっか。じゃあ、明日は買い出しと、あと町の観光だねっ」
「そうだな。火山道って、どういう準備すればいいんだろうな……水を多めにか?」
「そうですね。水筒、もう少し大きいのがあってもいいかもしれません」
「ねーユウト、ユウトが水属性を手に入れたら、水の心配なくなるよね」
「確かに。でも、バストリア山岳騎士国は地属性だから、まだ水は必要だなあ」
「あはは、確かにね!!」
フレイアの笑顔は太陽みたいだった。
リアが呆れながらも、目を細めてその笑顔を見ている。
――この旅、悪くないな。そう思えた夜だった。
◇◇◇◇◇◇
その夜。
僕は自分の部屋の窓を開けると、街全体が湯気に包まれていた。
満月の光が、湯煙に反射して淡く揺らめく。どこからか、湯が流れる音と、遠くの人々の笑い声が聞こえる。
とても穏やかな夜……落ち着くな。
すると、隣の部屋から本をめくる音がした。
僕は壁に向かって小声で言う。
「……リア。まだ起きてる?」
「ユウト? はい。少しだけ本を読んでいました」
すると、隣の部屋に続くドアがノックされ、リアが入って来た。
窓際の椅子に移動し、ランプの明かりを灯す。
彼女の瞳は、ランプの灯に照らされて柔らかく輝いていた。
「この国、いいところだな」
「ええ。温泉も、食事も、満足しています」
「……なんかさ。僕、楽しいんだ。いろいろ戦いがあって、僕を狙ってくるせいで、いろんな人たちが巻き込まれて……それでも、今がすごく楽しい。はは……いいのかな」
「ユウト。それはあなたのせいじゃありません。悪いのは、あなたを狙う組織です。傷ついて巻き込むことを恐れないで、もっと強くなればいい……私はそう思います」
リアは微笑む。
その通りだ。そのために、強くなるために、僕らは『守護の道』の国へ向かうんだからな。
「……ありがとう、リア」
僕がそう呟くと、彼女は小さく微笑んだ。
僕はベッドに入り、ランプを消した。
――夜の静けさが戻る。外ではまだ湯の流れる音がしていた。
その音を聞きながら、僕はゆっくりと目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇
数日後の朝。
出立の支度を整えた僕たちは、宿の前で一度振り返った。
街のあちこちから白い湯気が立ちのぼり、朝日を受けて金色に輝いている。
「また来ようね、ユウト!!」
「ああ。その時は、もっと高級な宿に泊まってみるか?」
「いいじゃん。最高!!」
「もう、ユウトもフレイアさんも、無駄遣いはダメですよ」
みんなで笑い、僕はリアとフレイアに言う。
「よし。リア、フレイア……出発しよう!!」
次の目的地、『ドゥーン火山道』。
湯煙の街に別れを告げ、僕たちは再び山道へと足を踏み出した。




