04ー2 ○月31日
○月31日 (休日・午前6時)
朝の静寂な空間に、コンクリートを叩く乾いた靴の音が響いていく。
人々が活動を始める黎明時、マンション1階のエントランスに設置してある郵便受箱、そのひとつのポストの中に用意した茶封筒を投函した。
茶封筒の裏面に、霧崎朱と名を残して。
その瞬間から、白河流星は、
霧崎朱という仮面を被った。
それは、これから行われるであろう、窮屈な箱庭の現実を変えるために、僕が決めた覚悟である。
後は、この茶封筒を開けた白河流星が、僕の手紙を読んで、路地裏まで来てくれるかどうかである。
手紙にはこう書いた。
「目を覚ますと、キッチンでコップ一杯の水を飲み、朝食の食パンをトースターにセットし、電子ケトルに水を注ぎスイッチを入れる。コップにはインスタントコーヒーの粉末を、適量よりも1杯多い、濃い目に入れて置いておく。これが、白河流星が行うルーティンである。君が明日を強く望むのなら、印の場所にて落ち合おう」
果たして、来るだろうか?
――来る。
きっと、来るはずだ。
僕が来ると信じて書いた手紙である。
僕が僕であるために、正しいものは何なのか? それがこの胸に解るまで――。明日を信じる、自分を信じて。
他に出来ることは、骨董品店【ル・プチ・プランス】にて、白河流星が、路地裏に現れるのを待つだけである。
店に向かう道中、ふと追想する。まさか舞台の裏側で、この様な出来事が起きているなど、当時の僕は、思いもしなかっただろう。
れもんという人物も、霧崎朱という存在も、ありもしない唯の幻影に過ぎなかった。
今にして思えば、れもんのあの言動も、この事態が分かっていたからこそと、思えるものばかりだった。
フラグを立てる為に用意された茶番劇で、慌てふためくその姿は、さぞ笑劇の様相だったに違いないだろう。
「……やっぱり、一発殴っておいた方がいい気がしてきた」
事が済んだ暁には、それぐらいのことはしてやろうと思う。
──────
○月31日 (休日・午前10時20分)
白河流星が、路地裏に現れるとされる10分前。
骨董品店【ル・プチ・プランス】の裏手にて、その瞬間を、固唾を呑んで見守っていた。
相手を仕留める得物には、地下室にあったラボから持ってきた短剣を用意した。
儀式に使われるような装飾が施されている、西洋風のもろ刃の剣である。軽くて扱いやすい為、武器など使うことのない不慣れな僕でも、これなら十分使いこなせるだろう。
時刻が近づくにつれて、心拍数が上がっていくのが感じ取れた。
心臓が跳ねる鼓動が体を伝って、全身に緊張を示している。
これから始まる行為を想像すれば、自ずと握りに力が加わっていく。
――僕に出来るのだろうか……。
出来る出来ないじゃない、やらなきゃいけないことなんだ!
そう、自分に言い聞かせるように、何度も、何度も繰り返す。
そして――。
その瞬間は訪れた。
路地裏の角から、姿を現した人物が一人。
見知った格好は、あの日、自分が着ていたとされる服装と同じである。
パーカーのフードを深く被ると、深く息を吸い込み、目を瞑り、ゆっくり吐き出す。
思考を殺し、息を殺し、ただ一つ、目的をこなすだけの機械のように、プログラミングされた工程を順番に処理すればいい。
――覚悟を決めろ!
閉じた瞼を開き、眼前を見据える。
白河流星が、こちら側に背を向けた一瞬――。
足は、力の許す限り全力で地面を蹴ると、張り詰めた弓から放たれた矢の如く、一直線に相手の背後へと迫りくる。
その距離、残り僅か10メートル程を残して、僕の気配に気付いた様子で、こちら側に振り向いた。
瞬間。相手は僕の突き出した、手に持つ短剣を見ると、驚いた様子を見せながらも、僕から見て飛び込むように、全身を左に大きく投げ出して回避する。
勿論。ここまでは、僕の予想していた通りの流れだ。
それを踏まえて、僕は予め左側へと進路を変えておき、回避したと思い込んだ、相手の正面に立ちはだかった。
それはまるで、見たものからは、先のことを見据えたような、圧倒的な絶望感を与えたに違いないだろう。
身が竦んで動きの鈍った相手の、投げ出した体勢を立て直そうとしている最中、僕は手に持った短剣で、無防備な喉元を目掛けて、一文字に振り払った。
しかし、振り払った短剣は切り込みが甘く、皮膚から血が滲む程度の出血しか出なかった。
本来であれば、手で押さえ込んでいても、溢れんばかりの、大量の出血をしていた筈である。
(避けられた!? そんなバカな……)
そうではなかった。
避けられたのではない、躊躇ったのだ。
一瞬の迷いが、行動に影響を及ぼして、短剣の切先を鈍らせたのである。
(まだだ。――こんなことで終わらせるものか!)
僕は、抵抗する相手の体を抑え込もうと、半ば強引だが、マウントポジションを取るようにして、馬乗りになると、もう一度喉元めがけて、その切先を深く振り下ろす為に構える。
(仕方がないんだ……。ここでやらなきゃ、終わらせなきゃいけないんだっ!)
震え出す手のままに、構えた短剣を喉元に振り下ろそうとした時――。
相手の瞳に映る僕の顔、霧崎朱の仮面の下の、白河流星は、涙を溢して泣いていた。
――ああ。
やっぱり、そうなんだ。
あの時、脳裏に焼き付いて離れなかった、口角がきりりと上がった、笑顔の仮面を貼り付けたような表情の姿は、此処には無い。
「違う……」
僕は、短剣を投げ捨てると、相手の瞳を隠すように掌で鷲掴みにした。
「違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ!」
否定するように、拒むように、何度も、何度も、繰り返すように、その頭を地面に叩きつける。
抵抗していた力が弱くなり、気絶したようにピクリとも動かなくなった姿を見て、そこでようやく手を止めた。
――殺すつもりでいた。
だが、まだ死んではいない。
息のある姿を見た時、心の底から安堵した。
――これでいい。
それは、答えと呼ぶには十分だった。
僕は、投げ捨てた短剣を拾い上げると、それを口で噛むように咥え、倒れ込んだ相手を担ぎ込むと、背負った重さと、身体を携えて、骨董品店【ル・プチ・プランス】の店内に入っていった。




