フラグ最速回収
その背中をつい目で追うジゼルに、エルヴィスが「大丈夫か」とあたふたと慌て始めた。
「何もされていないか、怪我はないか⁉︎ 俺が少し目を離したばかりに、あの野郎……!」
「お兄様、私は大丈夫ですから! どうぞ不敬はおやめください」
かすり傷一つ負っていないことをアピールすると、エルヴィスは大層ほっとした様子で「それはよかった」と胸を撫で下ろした。
そしてなぜか誇らしげな表情で、わしゃわしゃとジゼルの頭を撫でる。
「それにしてもさすがはジゼル! あの男としっかり目を合わせることができるのは、騎士でさえもなかなかいない。俺を含めてもごく僅かだというのに」
「確かに、とても威厳に……緊張感に満ちたお方ですね」
兄の手から逃れて髪を手櫛で整えながら、ジゼルは言った。
初対面で顎を掴まれたことを差し引いても、眼差し一つであれだけ畏怖を与える人間は珍しい。
対面というよりは対峙という言葉がぴったりな時間だった。
ジゼルの言葉に、エルヴィスは「実際にあの方は恐ろしい」と少々苦い顔をした。
「ディラン殿下は、亡き御母堂の身分が低いことと社交嫌いが弱みだが、非常に聡明で恐ろしいほどに合理主義な方だ。あの方が国王になったら、我が国はしばらく安泰だろう」
だが、とエルヴィスは小さくため息を吐いた。
「だが、躊躇いなく人を殺せる人間は、それだけ何かが欠けているということだ。しかもあいつは高位貴族でも仕事ができないと判断すれば即座にクビ、もしくはすぐに降格させる。だから敵が多くてしょっちゅう命を狙われている、高貴な危険ホイホイだ。心優しい女は少し危険な男に惹かれるというが、くれぐれもあの男だけはやめておくんだぞ。お前があのような男の妻になったら、俺の涙で海ができる」
「お兄さま……」
ところどころ混じる不敬発言とあまりの兄馬鹿ぶりに、つい呆れ混じりのため息が出る。
「私が王子殿下とどうこうなんて、あるわけないではないですか。社交嫌いの第二殿下と私がお会いすること自体、そうあることではありません」
「はは、それもそうか」
安堵したようにエルヴィスが笑い、ジゼルの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「しかし可愛い妹を持つ兄心だ。過保護は許せ」
「それはまだ受け流せますが、先ほどのような不敬はどうかおやめくださいね」
「善処しよう。まあ今後ないだろうが」
そんな会話をしつつ、捕縛した男たちを連れていく兵士たちに手を振ってジゼルとエルヴィスは目当てのカフェに入る。
トラブルはあったものの、順調に終えた今日という一日に満足しながら、ジゼルとエルヴィスは大好物の甘いものを堪能したのだった。
◇◇◇
(――お会いすること自体、そうあることではなかったはずなのですが……)
王城にある、豪華な一室。そのふかふかの長椅子に座りながら、ジゼルは内心途方に暮れていた。
対面には、先日会ったばかりのディランが座っている。
黙ったまま優雅に紅茶を飲む彼は相変わらずとても綺麗で、その無表情と相まって人形のような無機質な美を感じさせた。
(まあお人形は、このような猛獣もかくやといわんばかりの緊張感を振り撒いたり、意図が読めないことをしたりはしないのですが)
顔には出さず、そんなことを思う。
ディランの名前が記された王城からの手紙が届いたのは、昨日のことだ。
過保護を大爆発させ「ジゼルは永遠に病欠ということにしよう」と荒れ狂うエルヴィスを「王家の怒りを買うのは得策ではありませんから」「王城の素敵な建築も見てみたいので」「あんまり止めるとお兄さまを嫌いになるかもしれません」と、どうにかこうにか宥めてやってきたのだが、少し不安である。
一体この呼び出しに、どのような意味があるのだろうか。
(一度目の人生で最後を看取っていただいたという縁もあり、一方的に親近感のようなものはありますが、殿下の方はないはずですし……)
「なぜ呼び出されたのかわからないという顔だな」
表情には出していなかったはずなのに、ディランが唇だけで笑いながら指摘する。
「婚約を解消したそうだな」
「……はい」
「イグニス伯爵家、スミス子爵家、アーロン男爵家の間で、契約が交わされたと聞いた。なんでもこれまで刃物や小さな部品のみしか作ることのできなかった鋼の大量生産を、あなたが提言したそうだな」
そう言ってディランが、ジゼルの目をまっすぐに見る。
「令嬢がその発明をどのように編み出したのか、非常に興味深い」
(耳が早い……!)
これほど早く、第三者である王子の耳に入るとは思っていなかった。
社交嫌いと聞いていたが、ジゼルが想像するよりもずっと、貴族間の情報に気を配っているらしい。
内心舌を巻きながら、ジゼルは冷静に口を開いた。
「書物から得た知識を組み合わせて応用しまして……うまくいったのは、女神さまのお導きだったのだと思っております」
「ほう、どのような書物だ? ぜひ聞きたいものだな」
「小さな頃からたくさん本を読んでいますもので、どれがどれやら……」
相手を煙に巻くときのレジナルドの柔らかな笑顔を思い出しながら、ジゼルはふわりと微笑んだ。
「大変申し訳ございません。思い出しましたら、父を通して殿下にご連絡させていただきます」
「――……俺はこう見えて読書家でな。王城にある書物は、歴史書も含めてすべて目を通している」
微笑むジゼルに、ディランが唇を持ち上げる。
それはまるで逃げようとするジゼルを許さないと言うような、凄みさえ感じる笑みだった。
「記憶力も良い方で、この国に功績を残した者の名はすべて頭に入っている。……この国の歴史の中で功績を残した者の大半がイグニス家の者だったが、年表を頭に入れて歴史書を読み漁るうちに、ふと違和感を覚えた」
「……」
淡々と語られる言葉に、知らず知らずのうちにジゼルの背に冷や汗が流れる。
「あらゆる歴史書を読み漁るうちに、イグニス家の者の中でも特に奇跡とまでいえるような功績を残した者は、不思議なことに皆それまで凡庸だったようだ。しかし、ある日突如として功績を打ち立て始める。そしてその功績は国難をはじめとする大きな危機に備えるようなものばかり。……まるで、未来を知っているかのように」
「……」
「あなたの兄、エルヴィス・イグニスは幼少から傑出した剣の才を持つ。九歳の時には王宮騎士団の騎士団長を打ち負かし、以来無敗の騎士と名を馳せているほどだ。そしてあなたの父レジナルド・イグニスも、五歳にして二十を超える言語を自在に操っていた――イグニス伯爵家の者は皆、幼い頃から何らかの才を発揮する。しかし、ジゼル・イグニス。これまで落ちこぼれ、凡人と呼ばれていたあなたはつい一年ほど前から、別人のような才覚を見せ始めた」
そこで言葉を区切ったディランの、金色の瞳がジゼルを見据える。
その瞳を真っ直ぐ見返すジゼルに、ディランは退路を断つように言葉を続けた。
「端的に言えば俺は、あなたが予知の類の力を身につけたのではと推測している」
「……」
「あなたが子爵家に提言したという、鋼の大量生産。それはどう考えても、百年は先であろう技術の発想だ」
そこまで言ったディランが、ジゼルを見つめる金色の瞳を細めた。
「――あなたは、何を知っている?」