調査報告書
レジナルドが「そろそろ執務をしなければ」と執務室に戻ってから、ジゼルはぼんやりと外の景色を眺めていた。
(……迎えに行く、か……)
実際、あそこまできっぱり断られてはそれ以上に食い下がることはできない。
そう思いつつも、以前は毎日のように会っていたのにこの二週間一度も会えていない寂しさが心の中いっぱいに広がった。
きっとこのまま一生会うこともないのだろうと思うと、痛むような何かが胸に込み上げる。
(それに、何だか嫌な予感がします)
ディランは、イグニス伯爵家を守ると言った。今度こそ間違えないと言ったあの言葉の重さが、妙に引っかかる。
(殿下は私が大切で、どんな些細な危険も近寄ってほしくないと言っていましたが……)
それはジゼルだって同じだった。
ディランがジゼルとの約束を守るため、何か危険なことに片足を突っ込んでいたりはしないか、込み上げる不安に思わず眉を寄せると――
「まあ、辛気臭いオーラ」
「わっ⁉︎⁉︎」
背後から急に声がして、ジゼルは驚いて飛び上がる。
ばくばくする心臓を押さえながら振り向くと、そこには「絵に描いたような驚き方をするのね」と目を丸くしているエリニュスとノアの姿があった。
「エリニュスさま……! ど、どうして私のお部屋に……」
「調査がようやく終わったの。だからこうしてわざわざ尋ねにきてあげたのだけれど――家令の方がいくら部屋をノックしてもあなたは気づかなかったみたいだから、勝手に入っちゃった」
「勝手に入っちゃった……」
扉の方を見ると、家令がなんとも言えないような顔でこちらを見ている。女伯爵という高位の貴族を前に――それも今まで見たことがないタイプの傍若無人ぶりに呆気に取られ、制止することができなかったようだ。
家令に「ありがとう」と言って下がってもらい、エリニュスとノアに座るよう促す。
「調査ありがとうございます。……私が拝見しても?」
「もちろん。だってこれは、あなたに必要な情報ですものね」
渡された調査報告書に、真剣に目を通す。ディランへの暗殺を依頼したことがある人物は、片手で足りる人数だった。
そのリストには名前や家族構成、職業などの個人情報が載っている。その中で見つけた名前に、ジゼルはハッと息を呑んだ。
(……マレ伯爵)
そこに間違いなく、マレ伯爵の名前が記されていた。
「……大変失礼なのですが、こういった依頼に貴族が……それも、高位貴族が名前を出すとは思えません。こちらに記されたお名前の信憑性は」
「失礼ね……と言いたいところだけれど、疑えるのは良いことよ」
ジゼルの言葉に、エリニュスは満足そうな微笑を浮かべた。
「悪党の次に最悪なのって、疑うことを知らない馬鹿ですもの。あなたの言う通り、もちろんこういった依頼にお偉い様が名前なんて出さないわ。――けれどもいくら人を介してあれこれ手を回したって、完璧な隠し事なんてできないものなの。調べればわかるのよ、私にはね」
方法は秘密だけれどと、エリニュスが自身の唇に手を当てる。
「そうでしたか……失礼しました。ありがとうございます」
エリニュスの言葉に嘘はなさそうで、ジゼルはもう一度手元の資料に目を落とす。
(……こうして暗殺を依頼した方のリストを見ると。殿下が今も命を狙われている実感が湧いてしまいます)
ディランは大丈夫だろうか、今まさに命を狙われてはいないだろうか。
胸にこみあげる不安を持て余しつつ、ジゼルは資料をめくる。
次のページには調査を頼んでいたマレ伯爵のことが書かれていて、さっと目を通したジゼルは目を見開いた。
(人身売買の疑いあり……?)
賭博に熱中し尋常ではない借金を抱えたマレ伯爵は、他国の商会と頻繁にやりとりしていると記されている。
この商会には黒い噂があり、武器や人間、麻薬なども取扱いの可能性ありと書かれていた。
(……なんでしょう。何か、引っかかるような)
「さ、質問がないならさっさと帰ってもいいかしら?」
思考を遮るように、エリニュスがそう声をかける。ハッとしてエリニュスとノアを見ると、彼らはもう立ち上がっていた。
「時は金なり、時間は有限。小悪党を捕まえて肩慣らしもしなくちゃいけないし、私たちはもう帰るわね」
「あっ……はい、ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。今後何か調べたいことがあったら、どうぞいつでも頼んでちょうだい」
エリニュスが妖艶さと無邪気さが不思議に混ざった笑みを浮かべて、屋敷を後にする。
(――……)
ジゼルはもう一度資料に目を落とし、深く深く考え込む。
(――状況を、整理致しましょう)
エリニュスが帰ったあと、ジゼルは自室のテーブルに資料を広げて状況を整理することにした。
人身売買と麻薬。どちらもイグニス伯爵家が前世で着せられた罪である。
(私がマレ伯爵を怪しいと思ったのは、一度目の人生で彼があまりにも利益を得たからです)
それに加えて先日父と兄と出かけたとき、知るには早すぎる情報をマレ伯爵が持っていたことに微かな違和感を覚えたからだ。
(――それと今思えば、ですが。あの時お父さまも早く会話を切り上げたがっていたような気がします)
社交を武器に生きるレジナルドは、交流を何よりも大切にしている。
今までも家族で出掛けているときに誰かにばったりと会うことはあったが、どんな関係性であっても穏やかに接し迷惑にならない程度に会話を広げるのが常だった。
しかしあのマレ伯爵の時は、様子が少しだけ違った。
(まるでお父さまはマレ伯爵の所業を知っていて、伯爵と接したくなかった――いえ、私たちと関わらせたくなかったようにも思えます)
そうなると、一度目の人生でマレ伯爵がイグニス伯爵家の領地を継いだのは偶然ではなかったのだろう。すべて彼による策略という可能性もある。
しかし、その場合疑問が残る。
一見ただの女好きだが、実は頭の回転が速いレジナルドがマレ伯爵の所業に気づいて遅れを取ることがあるのだろうか。
そもそも同じ爵位とはいえ名門であるイグニス伯爵家を、マレ伯爵が陥れることができるだろうか。
(あの綿密な証拠の数々は、そう簡単には作れないはず。……過去の証言も、どうやって強要したのか)
それにおかしなことは他にもある。ディランの暗殺を行うリスクと、マレ伯爵が得られるリターンがどう考えても釣り合っていない。
(……いえ、待ってください。そもそもこの資料は、本当に正しいのでしょうか)
この調査の依頼をしたのは間違いなくジゼルだが、金貨を払ったのはディランである。
調査報告書と残りの代金は引き換えだったはずだから、まずこの調査報告書はディランが先に目を通しているだろう。
『疑えるのは良いことよ』
『悪党の次に最悪なのって、疑うことを知らない馬鹿ですもの』
エリニュスの皮肉めいた表情と言葉を反芻しながら、ジゼルはここ最近のことを振り返った。




