知らない気持ち
――そんな記憶が、立ち上る紅茶の湯気に誘われるように蘇った。
(……生々しく覚えているものだな)
昔を思い出していたのは一分にも満たない僅かな時間のはずだが、それでも様子がおかしいと訝しむには充分な時間だった。
ディランが横にいるジゼルに目を向けると、澄んだ瞳と目があった。
陽を浴びて輝き、風に揺れてそよぐ。そんな新緑を思わせる瞳に、ディランは眩しさを感じた。
(……何をどう、説明しようか)
今から自分がするお願いを、彼女は簡単には聞き入れてくれないだろう。彼女という人間は自分が心から納得しない限り、何があっても自分の信念を貫き通す人間だということは、一緒に過ごしたこの短い時間でわかっていた。
けれど彼女には、この憎しみを語りたくない。
自身の家族が陥れられてもなお、希望を持って自らの命を捨てた強い少女は、ディランにとって強烈に眩しい光だった。
憎しみだけを糧に生きてきたディランとはまったく違う。
どんな状況に置いても美しく前を向ける、ディランが知る中で一番強くて綺麗な人間だ。
ディランはあの日以降、自身を殺そうとするものはすべて切り捨ててきた。
それを何も感じなかった。殺さなければ殺される世界の中で、心が無感動になっていくだけだった。
けれど、そんな人としての心を失ったディランが今度こそ守りたいと思った少女が、今目の前で心配そうな表情を見せている。
(頼むから、そんな目をしてくれるな)
笑っていてほしい。幸せでいてほしい。
ディランの予想を常に超えるこの少女は、ディランにとってこの世で唯一温かい存在で希望で、少しも傷ついてほしくない存在だった。
胸が詰まるようなこの感情をなんというのか、ディランはずっとわからないままでいる。
わかることは、ただ一つ。
救われる資格のない自分をいとも簡単に救ってしまいそうになる彼女を、一点の曇りもない幸せに返してあげたい。自分の中に唯一残っていた人間らしい気持ちだけだった。
◆◆◆
『結局俺が母にできた良いことと言えば、結局茶を上手に淹れられることくらいだった』
そう言ってしばし沈黙したディランがジゼルに目を向けたとき、その目の暗い冷たさはほんの僅かに薄れていた。
どこか眩しいものを見るような目で、淡く笑う。
「――知っていると思うが俺の母は、他国の平民出でな」
そう慎重に言葉を選んでいることが感じられる口調で、ディランが話し始める。
「外遊中の陛下に見初められ王城に来たはいいが、平民出の母に貴族社会は少々意地が悪かった」
淡々とした語る声音には、感情が籠っていない。だからこそその時の日々の苦しみがより伝わった。
痛む胸に気づかれないよう表情を抑えつつ、ジゼルは沈黙してディランの言葉を聞く。
「そんな母を誰にも侮らせないと心に決めて、幼かった俺は次期国王の座を目指して努力したが――努力しすぎた。第一王子と比べて成果を出しすぎた俺は命を狙われ、そのせいで、母が亡くなった」
「……!」
「母を守ろうと努力した末の対価は、母の命だった。……それから十五年以上命を狙われ続けた俺は、今もこうしてしぶとく生き延びているのにな」
自嘲気味に吐き捨てられた言葉が、しんとした部屋に響く。目を伏せていたディランは表情を変えないまま顔をあげ――ジゼルの顔を見て、困ったように微笑んだ。
「……これ以上あなたを泣かせるつもりは、なかったんだがな」
そう言いながら、ディランがジゼルの涙を指で優しく拭う。眉を下げて悲しそうな顔をするディランは、まるで泣くに泣けない子どものような顔をしていた。
(殿下はきっと、泣けないのですね。……今までも、これからも)
ディランの様子を見てそう直感し、胸により強い苦しさが込み上げる。
大切な母を守るために努力してきた少年が、自分のせいですべてを失ったと思った瞬間の絶望は、ジゼルには計り知れない。
拭われても拭われても溢れる涙はそのままに、ジゼルはディランの目を見つめた。
届かないと知りつつも、それでも伝えたい気持ちがあった。
「殿下のお母さまが亡くなったのは、殿下のせいではありません」
「……」
「絶対に、絶対に悪くありません……悪いのは、暗殺を企んだ人です!」
ジゼルの言葉は、理屈として絶対に正しいはずだ。けれども感情として受け入れられるものではないのだと、ディランの淡い笑みがそう言っていた。
(この方は、これからもこうして自分を責め続けていくのでしょうか)
そう思うと同時に体は勝手に動いて、ジゼルはディランの頬を両手で包む。
驚いたように見開かれる目をじっと見つめて、思いを込めて口を開いた。
「殿下が生まれてきてくださって本当に良かったと、私はそう思っています」
「……!」
「あなたが今ここで生きていることが、私はとても嬉しいです」
目を見開いたまま固まっているディランに、にこりと微笑む。
するとディランは一瞬ひどく顔を歪めたあと、頬を包むジゼルの両手を、自分の手でそっと包んだ。
「……本当に。あなたといると、俺は自分が良いもののように思えてしまう」
包んだ手を自分の頬から引き剥がし、ディランが自嘲気味に笑った。
即座に反論しようとすると、ディランはまるで黙らせようとするかのようにジゼルの頬に手を伸ばす。
そうして大きな手のひらで頬を包むように触れたかと思うと、そのままジゼルの顔を僅かに上へと向ける。
(――……っ)
端正な顔が近づいて、吐息がかすかに唇を撫でる。
息が止まりそうになり思わず目をきゅっと瞑ると、一瞬の間を置いて唇は触れないまま離れていった。
目を開けると、そこには切なそうにジゼルを見るディランの顔があった。
微かな熱を孕む金色の瞳に、ジゼルが映っている。
「――俺のこの瞳の色は、母から継いだものだ」
瞳から目を離せないまま見つめていると、ディランはそう言った。
「この世界で唯一、あなただけが俺の瞳を綺麗だと言い、俺を大切だと言ってくれた」
「殿下」
「俺は、それだけでいい」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、ディランはジゼルの頬から手を離した。
「……元々出自から、俺を疎む貴族は多い。そんな俺は職に合わない貴族どもをどんどん切り捨ててきた。だからこそ俺が国王になることを、けして認められない貴族連中も多いだろう。――あなたが狙われたのはそんな俺の弱みになる存在だと、そう見抜かれたからだ」
「弱み……」
「あなたとの婚約関係は元々予知ができる一年間という約束だったが。……あなたから聞きたいことは、すべて聞いた。ここからは俺一人で対処できる」
「っ、嫌です」
流れるように告げられるディランの言葉に言わんとすることを察して、割り込むように首を振る。
突然告げられた終わりに、焦りと胸に走る痛みのようなものを感じながら、ジゼルは必死で言葉を探した。
「この婚約は殿下だけが得をするものではありません。私にも家を守るという目的があります。その目的が達成されていませんし、それにっ……、」
「俺を思ってくれるなら、どうか、離れてくれないか」
今のディランから離れたくない。
そう言おうとした言葉は、ディランの言葉によって遮られた。
「俺にとって、この世で唯一大切なものがあなたなんだ。どんな些細な危険も、近寄ってほしくないくらいに」
それはもう絶対に覆すことのないという、堅い意志を感じる声だった。
「あなたの大切なものはすべて俺が守ろう。イグニス伯爵家のことも安心していい。――絶対に間違えないと、約束するから」
「……! ですが、」
「ジゼル・イグニス。これは第二王子ディラン・ルベライトの名で命じる命令だ。……俺を王族と認めるのなら、拒否はしてくれるな」
(そんなの、ずるいです)
ディランは王族としての功績を誰よりも残しながら、王族としてふさわしくないと言われ続けてきた王子様だ。
誰よりもディランが王族であることを知り認められてほしいと思っているジゼルが、ディランのその命令を拒否できるわけがなかった。
何も言えなくなったジゼルの手に、ディランが掬い取るように触れる。優しくその手を自身の顔に近づけ、手のひらに優しく、唇を落とした。
「……ありがとう」
そう言ってジゼルの手を離したディランが、淡く微笑む。
「幸せな日々を生きるといい。俺が、あなたの日常を守るから」
そう言い切って立ち上がったディランは、「じゃあな」とディランに背を向ける。
これからはもうそう簡単に会えなくなるだろう背中を見ながら、ジゼルは喉がぎゅっと苦しくなるのを感じた。
(――知りませんでした)
立ち去るディランの後ろ姿を見送って、キリキリと痛む胸を押さえた。
(私はいつからこんなに、殿下のそばにいたいと思うようになっていたのでしょう……)
息が詰まるほど苦しいこの気持ちが何なのか、ジゼルにはわからない。
ディランへの同情でも家のためでも、何でもない。
ただ、笑っていてほしい。幸せを感じてほしい。
そんな初めて味わう大きな感情に戸惑いながら、ジゼルはディランが去った部屋の中で一人、途方に暮れたのだった。




