殿下にはわからないこと
「――殿下に、元気がないように見えたので」
「……」
「少しは、元気が出るといいなあと思ったのですが」
またうまくはいかなかったかもしれない。
ジゼルの言葉に、ディランが微かに目を丸くした。そしてしばし沈黙したあと、口元だけで薄く笑う。
「本当にお人好しだ。いずれ自分の首を絞めるようになるぞ」
「そんなことはないと思いますけれど……」
嘲るような、自嘲めいているようなディランの声に、ゆるく微笑む。
「もしも私が仮にお人好しだとしても、殿下をカフェに誘ったり、秘密の場所に誘ったのはお人好しだからではないですよ」
「……では、なぜだ?」
なんでも見通すはずの金色の瞳が、本当にわからない、と言うように細められる。
それが妙に切なく、胸が締め付けられるような心地になる。
ディランの目をまっすぐ見上げたまま、気持ちのすべてが伝わるようにと願いを込めて、口を開いた。
「元気になってほしいと思うくらい、殿下が大切だからです」
「……!」
「エリニュスさまに私が言ったことを覚えていますか? あの言葉に、嘘は一つもありません」
自分にとって大切な人の侮辱は決して受け入れられないと、そう言った言葉を思い出しながらきっぱりとディランの目を見て宣言する。
まったく予想もしていないこと言われたと言いたげなディランの表情は、出会ってから一番の驚きに満ちていた。
「いつでも公務を頑張ってらして、私に命令できる立場でありながら対等な契約を結び、約束を守ってくださる。助言を求められたらすぐに答えて、こうして私のわがままにも付き合ってくださっています」
そう言っているうちに、ジゼルの心がじわりと温かくなる。
こみ上げてきた気持ちは尊敬と感謝の近いところにあって、けれどもどこか違うものだった。
「何度だって申し上げます。私は、誰よりも心が強くて誠実で、一人で前を向いて戦ってらっしゃる殿下のことを心から尊敬して、お慕いしています。婚約を解消しても、それはずっとですよ」
にっこり微笑んで金色の瞳を見上げると、ディランの目が微かに揺れた。
そのまま黙って見つめていると、まるで根負けしたかのようにディランが目を伏せる。
「……そんなことを言うのは、この世でただ一人あなただけだ」
「どうでしょう。今殿下のお側にいるのが、私だけだからではありませんか?」
少なくとも、今日会ったベアトス侯爵はディランに感謝していると言っていた。尊敬の色が混じる目でディランを見ていた彼は、間違いなくディランを尊敬しているだろう。
「殿下の真摯なお姿を見たら、きっと他の方も同じように思うと思います」
しかしディランはジゼルのそんな言葉を鼻で笑い、目を伏せて小さく呟く。
「あなただからだ」
「え?」
「――……俺は一生、あなたのような人に敵う気がしない」
低く掠れた声が、小さく響く。
いつも迷いのない金色の瞳が、なぜだかあまりにも切なく揺れていた。
誰よりも強く、どんな未来も見通せそうな怜悧さを持ち合わせているはずのディランが、今はまるで迷子の子どものように頼りなく見える。
「……殿下?」
名前を呼ぶと、ディランがジゼルの肩に額を乗せる。まるで顔を見られたくないと駄々をこねるみたいにすり寄り、その動きに合わせて柔らかな銀髪がジゼルの首や頬をくすぐった。
慣れないその感触に、心臓が大きく音を立てて跳ねる。
このままでいたいような、突き飛ばしたいような、自分でもよくわからない複雑な感情が込み上げた。
(……ですが)
今初めて目にするどこか無防備なディランを、甘やかしたい気持ちがあった。
頬のすぐ近くにあったディランの頭に頬をこてんと寄り掛からせて、銀色の髪を撫でる。
少し硬いさらさらとした髪を指で梳くと、ディランの体が少しだけ強張ったような気がした。しかしジゼルを止める素振りはない。
そのまま、撫でるように髪を梳く。時間にして僅か十秒、永遠にも思えるような、しかし短い時間だった。
「――……風が冷たくなってきたな」
何事もなかったかのようにそう言って、ディランがジゼルからそっと離れた。
「帰ろう」
顔を上げたディランはいつも通りの無表情で、ジゼルが歩き出すのを待っている。
(……何だったのでしょう、今のは)
とくとくと心臓が跳ねる。
心配と高揚でいっぱいの胸を持て余しながら、ジゼルはすっかり慣れてしまったディランの隣に立ち、歩き始めたのだった。




