元気の出る場所
ジゼルの住むこの国は、前世の日本ほど――とは言えないが、それなりに治安が良い。護衛が付き添う貴族令嬢は元より、王都では平民の女性だって夜一人歩きをする人もいるのだ。
(いえ、それはもちろん場所にもよりますし、絶対安心な場所なんてありません。だから心配される方がいるのも当然ですけれど……)
しかしここは、王都からほど近い港である。
治安がそれほど違うとも思えなかった。
そんなジゼルの疑問を感じ取ったのか、ベアトス侯爵はちょっと心配しすぎてしまった、というように頭を掻き「失礼しました」と言った。
「王都は治安が良いのですよね。過剰に心配しすぎてしまいました」
「こちらも、そんなに治安が悪いようには見えませんが……」
「はい、治安はそんなに悪くはないと思います! 海と商人の街ですので、気が強い者はたくさんいますから……多少の揉め事は日常茶飯事ですけれど」
それからディランに目を向けつつ、ベアトス侯爵が口を開く。
「ここの土地では昔から、女性や子どもが行方不明になることが、ままあるんです。……港町ですので、どこか外国にかどかわされるという噂もあって……」
「女性と子どもが……」
痛ましい話だと、つい眉を寄せる。ディランはこの話を知っているのだろうかとジゼルは横に目を向けて――息を呑んだ。
(……!)
ぞっとするほどの、暗い瞳だ。漂う空気が冷たい刃のように、びりびりとした緊張感を纏っている。
しかしそれは一瞬の反応だった。ベアトス侯爵は気付いてもいないようで、優しく微笑みながら「私はディラン殿下に感謝をしているんです」とディランに目を向けた。
「数年前、ディラン殿下が秘密裏にこの港町に警備隊を増援してくださったそうなんです。それで行方不明になる子どもや女性が、以前よりぐっと減りました」
その言葉は本心からのようだった。
ベアトス侯爵がディランの空気に怖がりつつ、他の貴族と違って好意的だったのはこういうことかと納得する。
さりげなくディランに目を向けると、彼は先ほどの暗い瞳が嘘のようにいつもの無表情で「やるべきことをしただけだ」と言った。
「そのやるべきことをやってくださったのは、殿下です。そのおかげで助かった人はいると思います。ありがとうございます」
そうお礼を言いながら、ベアトス侯爵が眉を下げる。
「我が家でも、警備隊の人数を増やし巡回等も行っているのですが、完全に無くなったわけではなくて。なのでつい心配になり、余計なことを申し上げました。すみません」
「とんでもないです、ご心配いただきましてありがとうございます」
ジゼルが礼を言うと、ベアトス侯爵は少しだけほっとしたようだった。
「それではまた、何かありましたらどうぞよろしくお願いします」
そうまた深々と頭を下げるベアトス侯爵に今日の礼を伝え、ジゼルとディランは馬車に乗り込んだ。
こちらに頭を下げ続けているベアトス侯爵に向かって窓から手を振る。その姿が見えなくなってからようやく、対面に座るディランに目を向けた。
(……いつも通り、なのですけれど)
ディランはいつものように、書類に目を通している。
伏せた長いまつ毛が、ディランの金色の瞳にほのかな影を落としていた。
◇◇◇
「もうそろそろ日暮れになりそうですが、少し歩きませんか?」
「歩く?」
「はい。少しだけ、気分転換に」
王都に着いた頃、街並みは夕焼けに染まっていた。
燃えるような黄金色の街を見たジゼルがそう言うと、ディランは少し考えたあと「いいだろう」と言った。
「またケーキか? 先日は四つも食べていたようだが」
「違います。今日はケーキではなくて言葉通りのお散歩です。食べようなどと、絶対に誘わないでくださいね」
さすがに、こんな短期間にたくさん食べては本当にころころと丸くなってしまう。
丸くなった自分を『ははは! かわいいかわいい!』『本物の子豚というより子豚の貯金箱みたいだな!』『ジゼル印の子豚グッズでも出そうじゃないか』などと愛でる兄がまざまざと想像できて、ジゼルは非常に憂鬱になった。
「今日は、先日とは違う場所をご紹介したいなと思いまして」
気を取り直してそう言いながら、馬車を手近な場所に置きディランと共に歩く。
しばらく歩いていくうちに、街は少しずつ、日を落とし始めた。そのまま歩き続けて間もなく、すぐに目当ての場所へとつく。
「こちらです」
「……」
「綺麗ですよね」
眼下には、王都の街並みが広がっている。さあっと風が吹き、ジゼルの髪を優しく梳いた。
街を一望できるこの丘は、ジゼルお気に入りの場所だった。
「ここは、私の秘密の場所なんです。街を歩いているときは、私たちよりもずっと大きな建物がここから見るとすごく小さく見えるでしょう? だから少し落ち込んだときはここに来て、自分を奮い立たせるんです」
「奮い立たせる?」
そうジゼルを見るディランに頷きながら、「誰にも言ったことはないのですが」とジゼルは言った。
「私は奇跡の力を授かりましたが、お兄さまやお父さま、殿下ほどすごい才能はありません。だから時折、少しだけ自信を無くすことがあるんです。――私は、本当に誰かを守れるのかなと」
頬に吹く風を感じながら、目を瞑る。
それは、戻った時からずっと考えていたことだった。
いつだって自分は精一杯の努力を目指し、頑張ってきたと思う。
けれども天才である父や兄でさえできなかったことが、ジゼルにできるのだろうか、今度もまた何も守れないままなのではないかと、不安に駆られることがある。
どれだけ努力しようと自分は、取るに足りない、ちっぽけな存在のままなのではないだろうかと。
そう落ち込んだ日々のことを思い出しながら、ジゼルは「ですが」と目を開いた。
「私にとってはあんなに大きな建物が、ここに来るとこんなに小さく見えてしまうこともある。国で一番大きな時計台だって、あんなに小さく見えてしまいますでしょう? そんな風に、私も自分の能力を小さく見積もっているだけかもしれないって思うんです。私が小さく思っている自分は、近づいたら本当はもっともっと大きいのかもしれないって」
「……」
「自分自身から遠く離れず、正しい位置で見てみれば、もしかして自分は自分が思う以上に大きなことを成し遂げられるかもしれないと、そう思って元気を出すんです」
「……そんなことを、考えたことはなかったな」
ジゼルの言葉に、ディランが静かな声でそう言った。
「自分自身の能力は、正確に把握している。その上でどのように動けば目的を達成できるか、それだけを考えて動いている」
その目的という言葉は、ジゼルの耳に、ほんの少しだけ仄暗く響いた。
「……それは、そうだろうと思います。でなければたったお一人で、このように誰もが一目を置くような実績を、残せなかっただろうなと思いますから」
そう。きっと、これはディランには響かないだろう考えだ。
自信を無くすディランなど想像もできないし、自信を無くして嘆く暇があったなら、また別の確実な手段を考えて動くだろう。
(それでも……)
「ただ、なんとなく殿下に、私の元気が出る秘密の場所をお伝えしたかったんです」
「……俺に?」
「はい、なんだか……」
そこまで言いかけて、少し躊躇って口を閉ざす。ジゼルの勘違いかもしれないし、こんなことを気安く言っていいのだろうか。
(……いえ。どうせ殿下は、私の考えなどすべてお見通しになってしまいますよね)
躊躇ったもののそう考え直し、小さく口を開いた。
「……殿下に、元気がないように見えたので」
次回、いちゃいちゃ(当社比)回です……!




