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子供時代



「好き嫌いは、ない」

「えっ」

「俺の母は、身分が低かったからな。王子ではあったが、与えられる食べ物にどうこう言える環境ではなかった」


 そのなんとも思っていないような淡々とした口調に、ジゼルはディランの言わんとすることを、ほんの少し察した。


(――そうです。ディラン殿下のお母さまは、ご身分が低かった)


 平民。それも、他国の出身。隣国に外遊へ行った国王が見初め王城に連れてきたという、それだけを聞くとまるで物語のような、素敵な話に聞こえるのだが。


(――ディラン殿下のお母さまは、殿下がお小さい頃に亡くなられたと聞きました。……ろくな葬儀もないまま、葬られたと)


 後ろ盾のない人間が王城で、貴族社会で生きていくことの過酷さは、ディランと過ごすこの短い期間の中でいやというほど知ることになっていた。

 病気で亡くなったと聞いたが、葬儀ですらそうなのだから、治療や満足のいく食事も行き届いてなかったのかもしれない。


(……いえ、殿下のこの口ぶりだと、かもしれないではなく……)


 無神経なことを聞いてしまった。そう思ったジゼルの頭に、何か大きいものがぽふっと触れる。

 驚いて顔を上げると、ディランがジゼルの頭を撫でた。

 優しく心地よい手つきで撫でられ、困惑したジゼルはディランを見上げる。


「……殿下?」

「別に、あなたが気に病むことではない」


 そう言いながら、頭を撫でた綺麗な手がジゼルの頰に滑るように移動する。

 目を見つめたまま、まるで頬を包むような手に動揺して硬直していると、ディランの親指が優しくジゼルの唇の端を拭った。


「ついていた」

「……」


 そう言って手が離れていく。かと思うとクリームのついた指を、ディランがぺろりと舐めた。


「……!」

「これも……甘いな」

「……そ、それはそうだと思います……」


 気まずくなって顔を逸らしてそう言うと、横顔にディランからの視線を感じた。

 気になって横目でディランを見ると、ディランは見たことがないような柔らかい瞳でジゼルを見ている。しかし目と目があった瞬間、揶揄うような表情でふっと笑った。


「顔が赤い」

「……!」

「ほんの少しだ。別についていたからと言って、そう照れるほどのことでもない」

「そ、そうですね……ありがとうございます……」


(そっか。私は、食べ物を顔につけていたことが恥ずかしかったのですね)


 先ほどから、ずっと騒いでいる心臓を胸の上からそっと押さえる。気づかれないように深く息を吸い、そっと吐き出した。


(……よし。なんでもありません。次は気をつけましょう)


 再びケーキにフォークを伸ばして、再び食べ始める。とうにタルトを食べ終えていたディランは、頬杖をつきながらそんなジゼルを眺めていた。


(お、落ち着かない……)


 いつもよりも味がしないケーキを食べながら、ジゼルは無心になろうと努力する。


 そんなジゼルを、窓の外から窺っている人物のことには気づかなかった。


◇◇◇


 次にディランと会ったのは、それから一週間が経った日のことだ。


(わあ。潮の匂い)


 馬車から降りた瞬間に、嗅ぎなれない潮の匂いが鼻をくすぐった。

 眩しい日差しに、潮の匂い。威勢のよい人々が活気づいているこの場所は、港だった。

 潮の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ジゼルは両手を広げて深呼吸をした。


「王都から少し離れただけなのに、太陽が眩しいです……わっ」


 強い潮風がさあっと吹き、被っていた帽子が飛んでいきそうになる。即座に反応したディランが長い腕で帽子をさっと掴み、ジゼルの頭にぽすっと被せた。


「ありがとうございます」


 ジゼルの礼に、ディランが黙ったまま微かに微笑む。ジゼルは帽子を深くかぶり直し、きゅっと気を引き締めた。


(いけないいけない、遊びにきたわけじゃありませんものね)


 それとなく周りを見渡す。活気に思わずわくわくしてしまいそうなこの港は、この国の貿易の要だ。豊かな商人や貿易商がたくさん集まる場所でもある。


(ここで、具体的に何か事件が起きるわけではありませんが)


 むしろ問題が起きるのはこの国でさえない。問題が起きるのはこの国とあまり交流のない大国、バクトという国だ。


(蝗害【こうがい】――作物を食い荒らす害虫の大量発生により、食糧危機に陥ってしまうのですよね)


 それに備え今から小麦などの農作物を備蓄していた方がいいと、あの夜会の日にジゼルはディランへそう進言した。

 ジゼルの住むこのルベライトという国は温暖な気候と肥沃な土地があり、農業に適している。

 作物の収穫量は非常に大きく大陸でも有数の食料自給率を誇るため、バクトが食糧難にあってもルベライトの民が飢えることはない。

 しかしバクトの蝗害を見越して今から充分な食料を備蓄しておけば、ルベライトは大国博徒に食糧を輸出でき、恩を売ることができる。


 大国の隅々まで行き渡る食料の備蓄は、ルベライトの収穫量だけでは賄えない。そのため輸入して備蓄しておいた方がいいとの提案を、ディランは即座に受け入れた。

 しかし、商人はルベライトで豊富に収穫できる小麦よりも、簡単に金になる塩や香辛料を輸入したいものだ。


(それでも王族の希望であれば、普通は依頼通りに仕入れるでしょうが)


 敵が多いディランの施策や行動は、妨害されることが多い。

 利益を最優先に求める商人がその妨害を受けて輸入をなかったことにしたり、またそれを懸念して他の高位貴族に忖度してしまったりすることもおおいに考えられる。

 蝗害は前兆がないため、必ず蝗害が起こると断言することもできない。そのため商人たちが大量の備蓄に納得できる理由がないのも手痛かった。

 そのため念には念を入れようと、港町の視察がてらここに拠点を置く貿易商と会談をしにきたのだった。


「ようこそいらっしゃいました」


 そうこうしているうちに、この地の領主――ベアトス侯爵と貿易商がやってくる。人好きのする顔の若き領主ベアトス侯爵と、百戦錬磨といった風情の貿易商は、ディランとジゼルに最上級の礼をした。


「ディラン殿下とその婚約者、イグニス伯爵令嬢にお会いできて光栄です」


 貿易商がそう礼をしたその一瞬、値踏みをするような視線を向けられたように感じた。

 それは先日エリニュスに向けられた視線と同じ類のものだが、それよりもっと商人らしい――この人物が取引に値するかどうか、利益になるかどうかを見定めるような目だった。


(あの時ほどの圧ではありませんが、気を抜いてはいけませんね)


 ディランの隣に立ち『溺愛される婚約者』を演じる以上は、ジゼル自身にも価値がある、そんな人間に見せねばならない。


「――突然の来訪にも関わらず、歓待痛み入る」


 ジゼルの様子を見て満足そうな目の色を浮かべたディランが、すぐに感情の動かない表情でそう言った。

 落ち着いた、しかし威厳を纏う低い声に商人とベアトス侯爵が微かに緊張を纏い、身を正す。

 それからジゼルたちは場所を移動し、早速商談へと入ったのだった。



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