支払い
「すみません、殿下」
エリニュスの後ろで控えていた赤毛の従者――先ほどノアと呼ばれていた――が、謝罪する。
整った顔立ちにやる気のなさを漂わせている彼は、やる気のない無表情のまま、主人であるエリニュスに目を向けた。
「エリス……エリニュス様は、少し拗ねてしまったみたいです」
「拗ねる……」
「ここに来る前、『イグニス伯爵令嬢はね、すごい功績を打ち立てて、すごくかわいい女の子なんですって。つまりお相手なんて選び放題なわけでしょう? なのに、いくらお顔と最上級の地位を持つとはいえ、あんなに愛想がなくて仕事しかしなくってとっても怖い王子様と結婚する女の子なんて、おかしいと思わない? だって王家の命令も断っちゃうイグニス伯爵家のご令嬢よ?』って言っていて」
「ええ……?」
一体何の話だろうと思うと同時に、なんだかあらゆるものが間違っている気がする。
この方は情報屋として大丈夫なのだろうかと、胡乱な目をエリニュスに向けたジゼルに、ノアは淡々と続けた。
「『肝の据わった魅力的な女の子なんて、悪女か突拍子もないおかしな子って相場が決まっているでしょう? でも突拍子もない子なんて、利害が一致しない限り殿下がお側に置くわけがなさそうだけれど、あの方と利害が一致することなんてそうそうないはず。だからきっと、ちょっとした悪女だと思うの』と言っていて」
「……?」
「エリニュス様は悪党が大嫌いなんですけど、その大嫌いな悪党をなぶることが大好きなんです。そしてなぶるほどでもない悪い人は、ちょっと困らせていじめるのが大好きで」
「えっ……」
「今日もからかっていじめようと思ってたのに、こてんぱんに正論を言われて、ぐうの音も出なくなっているみたいです」
「やめて、ノア」
エリニュスがむっつりと不愉快そうな顔で、ノアを静止する。ジゼルの人間性を疑う視線に少々気まずそうな顔をしつつ、誤魔化すように咳払いをした。
「これはね? 自分の目的と愛する婚約者の貞操、どっちを取るかという覚悟のほどを見せてもらっただけなの。自分の目的よりも愛情を優先する覚悟、受け取ったわ。取引をしてあげる」
「……」
調査の目的がディランの身の安全である以上、愛情を優先する覚悟云々の言い訳は無理があるのではないだろうか。
そう思いつつ、しかしここで下手なことを言って話をまたこじらせるわけにはいかない。
(エリニュスさまも、『しまった』という顔をされていますし。愛妾云々の話がなかったことになってよかったです)
とりあえずここは忘れようと、ジゼルは受け流すことにした。
横にいるディランを横目で見る。ディランはもう微笑みこそしていなかったものの、いつもより幾分優しい目でこちらを見ていた。
(……)
なんとなく見てはいけないものを見てしまった気がして、エリニュスに目を戻す。
彼女はまだバツの悪そうな顔をしていたが、ジゼルと目があった瞬間、切り替えるように両手を叩く。
「さて」
つい先ほどのような妖艶な雰囲気へと無理やり戻したエリニュスは、「この依頼を受けましょう」と言った。
「殿下の刺客を差し向けた依頼者、そしてマレ伯爵。前者は依頼者一人につき金貨二千枚。マレ伯爵は……そうね、そんなに大物でもないから、金貨千枚にしておきましょうか」
金貨千枚は、下級貴族の収入二年分となる。
想像よりも莫大な金額に慄きつつ、ぎりぎり払えると計算したジゼルは「わかりました」と涼しい顔で頷いた。
(本当に、婚約を解消するために頑張ってよかったです! ありがとうございます、クライドさま、アリアさま……!)
かつての婚約者とその婚約者に心の中で感謝を誓う。
今日の目標も達成できたと心の中で胸を撫で下ろしていると、横にいるディランが静かに口を開いた。
「その金貨は俺が払おう」
「えっ?」
驚いてディランに目を向けると、彼は「何を驚く」と訝しげな顔をした。
「俺に差し向けられた暗殺者について調査するのに、なぜあなたがお金を払う必要がある」
「それは、殿下は不要だと仰っていたものを私が無理に調査するからです」
当然のことだろうと訝しげな表情を返すと、ディランは「おかしいだろう」と言った。
「それを言うならば、私が望んだことに殿下がお金を出すの、っ……⁉︎」
言い返そうとしたジゼルの口に、ディランが人差し指を当てる。呆れたようにこちらを見る金色の瞳から、ジゼルは咄嗟に目を彷徨わせた。
「『俺が』払う。王族の命令だ。いいな?」
有無を言わせない口調の割に、声音は優しい。
視線を彷徨わせたまま頷くと、ディランが唇から手を離す。
「話、終わりました?」
場を切り上げるように、どこか白けたような表情でエリニュスが言った。
それからディランが前払金としてマレ伯爵分の金貨千枚を払い、契約は無事に終了した。




