裏社会の悪女
薄暗く寂れた酒場に、うめき声が響く。
割れた酒瓶から溢れた酒と、血の匂い。屈強な体をした男たちが幾人も倒れている中、その中心に立っているのは赤い髪をした細身の男だった。
「人を売ったり泥棒したり、散々悪事を働いてきた割には何の手応えもないね」
幼さの残る整った顔立ちだが、その瞳には暗い鋭さが宿っている。
その鋭さに似合わぬやる気のなさを声や表情に漂わせながら、男は倒れている男たちを踏みつけて、飄々と歩いた。
「――っと、」
「てめぇっ……」
ガクン、と体がかたむく。歩き始めた足を、倒れてる男の一人が掴んだのだ。
「少しは活きのいいのがいたな。――よかった、俺の主人が少しは喜ぶ」
そう言いながら、足を掴んでいる手を振り払い、思い切り踏みつける。
そのままぐりぐりと足を動かせば、悲痛な男の悲鳴が酒場に響き――
「豚の悲鳴はもういいわ、ノア」
その場に似合わない、澄んだ美しい声がその叫びをかき消した。
ノアと呼ばれた赤毛の男がすぐさま踏みつけた手から足をどかし、「エリス」と主人の名前を呼ぶ。
「そろそろ行かなくちゃ」
エリスと呼ばれた女が、淡く微笑んだ。
黒い髪に、黒い瞳。妖艶な美貌を持つその女は、壁に控えていた黒ずくめの服を着た部下たちに、「あなたたち」と声をかける。
「この悪党どもを運んでちょうだい。とっても酷い悪党だから、くれぐれも簡単になんて死なせないでね。それはもうたっくさん、悲鳴が出なくなるまでこき使ってあげてちょうだい」
「はっ」
部下たちが、倒れている男たちを乱雑に運んでいく。その後ろ姿にひらひらと手を振りながら、エリスと呼ばれた女はふんふんと鼻歌を歌った。
「今日はあまり手応えがなかったのに。ご機嫌だね、エリス」
「ふふ、わかる?」
「わかるよ」
「さすがノア」
自慢の部下である赤毛の男――ノアににっこり微笑むと、女は楽しそうに口を開いた。
「今から、ディラン・ルベライト殿下とその婚約者がいらっしゃるんですって。――冷酷で残虐な王子さまの、婚約者」
そう言いながら、女がすっと目をすがめる。遠くを見るような夢見るような、なんとも無邪気で残酷な顔だった。
「楽しみだわ。どんな方なのか、ノア。あなたもとっても気になるでしょう?」
◇◇◇
「裏社会に精通している人物に心当たりがある」と、ディランに告げられた翌日。
ディランとジゼルは、その相手の屋敷へと訪れていた。
ジゼルたちを応接室へと案内してくれた執事――どことなく二度目の人生を思い出すような、眼光鋭い強面の男性だ――が、丁寧に礼をした。
「間もなくエリニュス様が参ります。こちらで少々お待ちください」
ぎろりとした眼光ながらも、その仕草や口調は慇懃だ。深々と礼をし「少々お待ちください」と応接室を出て行く。
(ここが――殿下が教えてくださった、裏社会に精通している方、エリニュス・オウルさまのお屋敷なのですね)
貴族の屋敷にしては珍しく、シンプルな装飾の壁に一振りの剣が飾られているところなどに、とても懐かしさが感じられる。本当に裏社会に詳しそうだ。
(さすが殿下。色々なことをご存知です)
昨日。ディランが教えてくれた裏社会に精通している人物は、エリニュス・オウルという名の女伯爵だった。
『莫大な対価を求めるが、情報屋のようなこともしているそうだ。その辺の下っ端の人物に聞くよりは、よほど良い情報を持っているだろう』
そうどこか投げやりな口調で言ったディランは、その場でさらさらと手紙を書き、話がしたいとエリニュス宛に手紙を出した。
返事はすぐに帰ってきた。今日この時間なら空いているとのことだったので、こうしてやってきたのだが。
(エリニュス・オウルさま――お名前だけは、聞いたことがあるのですが)
彼女のことを、ジゼルはほとんど何も知らない。
元々は平民の出らしい。天文学的な大金で爵位を買った新興貴族だと、数年前に話題になっていた。
だが、その実態は謎に包まれている。
(お金で爵位を買う一代貴族はいらっしゃいますが、伯爵位という高位の爵位を得た方は初めて聞きました)
金銭で買える爵位は、通常は男爵位となる。お金もさることながら、高位貴族との人脈、優れた手回し。どれか一つが欠けても、成し遂げられないことだと思われた。
(エリニュスさまは、大陸でも有数の商会を経営していらっしゃるのだとか)
商才に溢れていて、それから何よりこの国や大陸諸国を含むすべての法律を暗記しているらしい。法に触れるスレスレのところで商売を行うものの、法律の範囲内なので誰も文句は言えないそうだ。
(不思議なのが、爵位を買ったというのに社交界などの表舞台にはおいでになられないのですよね)
女伯爵位という称号は、商売の箔付にすぎないということだろうか。
(――なんて、あれこれ考えても会ってみなければ、お考えやお人柄はわかりません)
そう考えて居住いを正したところ、キィ、と音を立てて扉が開いた。
「大変お待たせいたしました」
(まあ……)
澄んだ声と共に、赤毛の男性を供につれた女性が入ってきた。想像よりも若く美しい女性の姿に、ジゼルは驚いて目を瞬かせる。
(お美しい方。こういう方を、妖艶というのでしょうか)
一見二十代半ば頃だと思われるが、はっきりとはわからない。もう少し年下にも、見ようによってはもっと年上にも見える。手入れの届いた長い黒髪は艶めき、長いまつ毛に縁取られた黒い瞳は、どきりとするほどの色気を孕んでいた。
その女性はジゼルを見るとゆっくり目を細めて微笑んだあと、次いでディランに目を向けた。
「ようこそいらっしゃいました。お二人にお目にかかれて光栄です」
タイトなドレスの裾を左手の指先だけでつまみ、優雅な仕草で礼をする。そうして印象的な黒い瞳をゆっくりと細めながら、祝いの言葉を口にした。
「この度は誠におめでとうございます。謹んでご婚約の寿ぎを申し上げます」
エリニュスの祝いの言葉にディランが無表情のまま頷いて、口を開いた。
「急な訪問の承諾、礼を言う」
「とんでもございません。殿下のご要望にお応えしないわけには参りませんもの」
優雅な口調でそう言い、エリニュスが席に座る。口元に蠱惑的な笑みを浮かべながら、その眼差しをジゼルに向けた。
「時間は有限ですから、早速本題に入らせていただきます。一体、私にどんな情報をお求めに?」
(とても柔らかな表情とお声ですが、まったく隙がありません)
巧妙に隠しているが、その瞳は冷静にジゼルを観察している。この人間が取引をするに相応しい人間かどうか、見極める目だった。
商売人の目というよりは、小さな裏切りや少しの不誠実さえも命取りになる世界で生きる、裏社会に生きる人間の目だ。
(懐かしい緊張感です。――こういう方に、下手なごまかしはいけませんね)
ふわりと微笑んで、エリニュスの視線を受け止める。
嘘にはならないよう、しかし喋りすぎにもならないように説明を始めた。




