平穏な日常
御者の代わりに騎士の一人が手綱を取り、王都へと向かう馬車の中には沈黙が広がっている。
「揺れは大丈夫ですか? こんな時までお仕事はお控えになられた方が……」
「どちらも問題ない」
頬杖をついて書類に目を落とすディランが、にべもなくそう答える。
(取り付く島もない……)
無愛想なのはいつものことだが、纏う空気がいつもよりひんやりとしている。体感でマイナス三度は低い気がした。
(殿下の空気には慣れてきていたといえど、ちょっぴり居心地が悪いですね)
もしもディランのことをよく知らない人間がいたらサッと顔色を変えて逃げ出してしまいそうなほど、場は重い空気に満ちていた。
口をつぐんで窓の外を見る。空はすっかり暗くなり、頭上に淡い金色の月が見えていた。
「……今後も、このようなことがないとは限らない」
そんなジゼルの気を引き戻すように、ディランが唐突にそう言った。視線を戻せば、無感情な金色の瞳がジゼルを見つめていた。
「今後も……」
「そう。今後もだ。――今日のような行動は、二度とするな」
強調するように言葉を区切り、ディランが続ける。その瞳は、明確に『次はない』と言っていた。
「……申し訳ありません。お約束できません」
ジゼルが眉を下げながらそう言うと、ディランの表情が不快にゆがむ。
その声は低く、ぴりぴりとした冷ややかさと緊張が馬車の中を包んだ。
「お人好しも大概にしなければ、目的を果たす前に無駄死にすることになるぞ」
「……私の目標は、平穏で当たり前の日常を守ることです」
ジゼルは顔を上げ、きっぱりと答える。
「殿下とこうして知り合ってしまった以上、その平穏で当たり前の日常には、もう殿下がいらっしゃいます」
たとえ、一年後にもう関わりがなくなる間柄だとしても。
ジゼルの言葉と眼差しに、ディランが虚をつかれたような顔をした。しばし沈黙したあと、何かに観念したように息を吐く。
「……あなたには、何を言っても無駄なようだ」
「ご理解いただけて何よりです」
「皮肉のつもりだが」
腹立たしそうな、しかし毒気を抜かれてしまったような表情でディランが座席の背もたれに背を預ける。
いつも通りに見えるその姿に、ジゼルは少々躊躇いながらも口を開いた。
「……あの御者の方とは、長い付き合いだと仰っていましたが……」
「十年ほどだな」
「十年……」
「よく持った方だ。使える男だったんだがな」
事もなげにそう言うディランに、ジゼルは言葉を失った。
(――なんて表情をなさるのでしょう)
ディランの瞳には、何の感情も浮かんでいない。
冷ややかで空っぽで、この襲撃を当然のこととして受け入れている。それがありありとジゼルに伝わる、そんな顔をしていた。
「……」
「……なぜお前がそう悲しそうな顔をする?」
いつもジゼルが何を考えているのか読めるくせに、今のディランは心底不思議で仕方がなさそうだ。
そのことが、さらにジゼルの胸を苦しくさせる。
「……長く付き合った使用人に裏切られたら、悲しくなります」
前世、レジナルドの罪を偽証した使用人のことを思い出す。ずっと昔からレジナルドに仕え、ジゼルやエルヴィスをかわいがってくれていたその人は、前世でレジナルドを売ったのだ。
(止むに止まれぬ事情があったはず。今世は彼の心を守るためにも、万全を期す所存ですが)
それでも裏切られた悲しさは残っている。
弱い自分が恥ずかしいが、それは紛れもない事実だった。
(十年前といえば、殿下はまだ十四歳。……そんな頃から自分に仕えていた御者に命を狙われたら、普通はどれほど悲しい気持ちになるでしょうか)
そこまで考えて、口を開く。
「それなのに、ただの少しも悲しそうな顔をなさらない、それどころか殿下は、ごくごく当たり前の、当然のことだと受け止めていらっしゃる。それが少し……寂しくなりました」
暗殺と隣り合わせの王族の中でも、敵が多いディランは特に多く命を狙われると兄が言っていたことを思い出す。
先日の広場での襲撃も、少しの動揺も見せずに敵を制圧し、慣れきった様子で『どうせ小物、情報は持っていない』と刺客を殺そうとしていた。
(ご自分の身を守るために、そうなるより他なかったのかもしれません)
現国王は、後ろ盾のないディランにあまり目をかけていないのだという。
公務で優れた才能を発揮するようになってからはディランを取り立てることも増えたそうだが、実際のところディラン自身を助けようと思うほどには頓着していないそうだ。
それはディランと婚約したジゼルが、まだ国王と顔を合わせていないという異例さからも窺える。
その状況下の元、時には自分の近くにいる人間から命を狙われ続け、身を守るためには誰かの命など構っている場合ではなかったはずだ。
(それなのに)
今日ディランは一人も殺さなかった。『極力人を殺さない』というジゼルとの約束を、律儀に守ってくれたのだろう。
「……殿下は先ほど、ご自分のことを『尊敬される人間ではない』と仰いましたが、やっぱり私はお強くて誠実な殿下を、心から尊敬します」
しみじみとそう言うと、ディランが何かを言いかけて口を閉じる。そのまま数秒沈黙したあと、嘲笑うように口を開いた。
「――人を寂しい人間呼ばわりした直後に、強くて誠実だとはな。斬新な褒め方だ」
「……その言い方ですとひどい語弊があるかと」
ずいぶんと意地悪だ。慌てるジゼルに、ディランが儚い笑みを浮かべて手を伸ばす。
まるで繊細な壊れものに触れるように優しくジゼルの髪に触れたかと思うと、手が離れていく。
指は木の葉をつまんでいた。どうやら先ほどの戦闘の際、髪についたままだったらしい。
それを取ってくれたディランの優しい触れ方に、ほんの少し気恥ずかしい気持ちを抱きつつ礼を言う。
「ありがとうございます」
ジゼルがお礼を言うと、ディランはまるで自嘲するような笑みを浮かべた。
「あなたは本当に愚かだな」
「え?」
「ありもしない綺麗な空想を、俺に重ねない方がいい」
(殿下……?)
まるで駄々をこねる幼児に、優しく言い聞かせるような声だった。
それからディランは、まるで何もなかったかのように書類に目を落とす。
ディランの腰に寄り添う剣の柄が、窓から差し込む月光に照らされ淡く輝いていた。




