3度目の人生と婚約解消
「それではイグニス伯爵令嬢とスミス子爵令息の婚約は正式に解消され、同時にスミス子爵令息、アーロン男爵令嬢の婚約が締結されました」
立会人がそう告げた瞬間に、それまで張り詰めていた空気ががらりと変わる。
イグニス伯爵家、スミス子爵家、アーロン男爵家。
三家の当主とその子女令息が集まったこのスミス子爵家の応接間で、最初に口を開いたのはスミス子爵家の令息クライドと、クライドの婚約者となったアーロン家の男爵令嬢、アリアだった。
「ジゼル様。なんとお礼を申し上げたらよいか……」
「本当にありがとうございます、ジゼル様。このご恩は忘れません」
感極まった様子でお礼を述べる二人に、一人の少女が柔らかく微笑む。
柔らかな茶色の髪に新緑を思わせる緑色の瞳。人形のように愛らしく整った顔立ちをしたこの少女は、今しがたクライドと婚約を解消したイグニス家の令嬢、ジゼル・イグニスだ。
婚約を解消したばかりだというのに、その表情には一点の曇りもない。
「とんでもございません」
元婚約者であるクライドとその婚約者になったアリアに心からの笑みを向け、美しく背筋を伸ばして淑女の礼を執る。
「どうぞお幸せに。お二人に女神さまからの祝福がありますことを、心より願っております」
「……! ありがとうございます、ジゼル様……!」
ジゼルの言葉に、クライドが深く頭を下げてアリアは涙ながらに礼を述べた。
そんなジゼルたちを見ていたスミス子爵とアーロン男爵が、どちらともなく感嘆のため息を吐く。
そうして二人は目を、鷹揚な笑みを浮かべて優雅に紅茶を飲んでいるイグニス伯爵――ジゼルの父、レジナルドに向けた。
先に口を開いたのは、アーロン男爵だ。
「イグニス伯爵。今回のこと、心よりお礼を申し上げます」
「いいえ、私は何も。娘がしたことです」
「それでも、です」
スミス子爵が、ふう、と大きく息をつく。
「愚息は貴族として、貴族の責任を全うしようと誠実にイグニス伯爵令嬢と添い遂げるつもりでしたが――しかし、婚約する前に恋人がいたこと、気持ちがまだ彼女に残っていたことは非難されてもおかしくありませんでした」
「子爵の仰る通りです」
スミス子爵の言葉に大きく頷き、アーロン男爵がジゼルに感謝の眼差しを向ける。
「というのにあなたはクライド殿と娘の婚約を提案しただけではなく、その婚約が実現するよう、我がアーロン男爵家とスミス子爵家にとって利益ある婚約となるように尽力してくださった」
「両家だけではない。イグニス伯爵令嬢、イグニス伯爵。譲っていただいた知識は、この国に莫大な利益と技術革新をもたらすであろう発明です」
そう言いながらスミス伯爵が、この日初めて笑顔を見せながらジゼルに頭を下げた。
「さすがは異能の才を持つ、イグニス伯爵家のご令嬢だ。今までも聡明なご令嬢とは聞いていましたが……まさかこのような才を見せるとは。こういっては大変失礼ですが、生まれ変わったと言われれば信じてしまいそうです」
(……!)
思わず引きつりそうになった頬を、意志の力でかろうじて押し留める。
(いけないいけない。『相手に動揺を悟らせてはおしめぇよ』という組長の教えがなければ、危ういところでした)
小さく咳払いをしながら、ジゼルはおっとりと口を開いた。
「お褒めいただきありがとうございます。先人の書物から学んだことに手を加えただけのことですが……お役に立てたようで、何よりです」
そう微笑めば、二人は感銘を受けたかのように頷く。特に違和感は覚えていないようだ。
(ふう。うまく誤魔化せたようです)
生まれ変わったよう、という言葉にはさすがに驚いてしまったが、動揺は完璧に押し殺せていたらしい。
そんなことを思っていると、スミス子爵はジゼルに感謝と畏敬の念がこもったかのようなそんな眼差しを向け、こうべを垂れた。
「――我がスミス子爵家、並びにアーロン男爵家は、この恩を生涯忘れないでしょう」
「! ありがとうございます……!」
心から安堵の笑みが広がる。
丁寧な礼を執りながら、ジゼルは強く強く喜びを噛み締めた。
(なんということでしょう、これは大変良い展開です……!)
この婚約解消と新たな婚約の締結は、ジゼルとクライドが結婚するよりもよっぽど、イグニス伯爵家への好印象と確かな結びつきを残せたらしい。
(愛し合う二人は引き裂かれずに済み、我がイグニス家は有力貴族であるスミス家とアーロン家の二家と仲良くなれました。これは一粒で二度美味しい、願ってもない成果です)
『日本』で学んだ知識を自分の手柄にしていることには少々胸が痛むが、背に腹は変えられない。
イグニス伯爵家に好意的な視線を向ける貴族を増やすことは、大切な戦略の一つなのだ。
「すごいな、ジゼル! さすがは俺の妹だ!」
そう言いながらジゼルの肩を叩くのは、兄であるエルヴィスだ。
紺色の髪に、父譲りの青い瞳。整った顔立ちを無邪気な犬のように綻ばせ、ジゼルの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「とても十六歳とは思えん! 我が国きっての才女だ!」
「ありがとうございます、お兄さま」
(ですがすごいのは当たり前なのです、お兄さま)
大袈裟に喜ぶ兄に、ジゼルは心の中で呟いた。
(だってこれは、三回目の人生ですから!)