渡されたワイン
「――以上が、私が覚えている範囲で起こるおおまかな出来事となります」
地図に書きつけたしるしを見ながら、すべてを話し終えたジゼルはそう言った。
「まず急務は、こちらの領で約一年後に起こる水害かと。大きな氾濫を防ぐために堤防を作る、また堤防の嵩上げをするなどといった河川の改修が急がれます。また、橋の点検と補修も必要でしょう。かかる時間を考えますと、急がれた方が良いかと思います」
こちらの領地には以前から数度アプローチを行なっていたが、色良い返答はもらえていなかった。
口元に手を当てて考えていたディランが、ぽつりとこぼす。
「明日にでも向かったほうがよさそうだな」
「お供いたします」
ジゼルの言葉に、ディランが微かに唇を持ち上げる。満足そうな表情だった。
その時、扉がコンコン、と軽くノックされた。
「ご歓談中申し訳ございません、ディラン・ルベライト第二王子殿下。お飲み物をお持ちしましたが、お飲みになりますでしょうか」
「! お願いします」
今にも断りそうな雰囲気を出しているディランが口を開くより先に、ジゼルが答える。もしもここで断りでもしたら、どんな噂が流れるかわからない。
ジゼルの言葉を受けて失礼いたします、と丁寧な仕草で入ってきた給仕は、赤いワインが入った二つのグラスを盆に載せていた。
「……そこに置いておけ」
給仕が扉を開く前に地図を懐にしまったディランが、低い声で言う。
声をかけられた給仕は緊張した様子でそっとテーブルにワイングラスを置き、一礼したあと風のように早く出て行った。
(……折角のワインですから、飲まなければ失礼ですね)
ジゼルはそんなに酒が強くない。そのため社交の場でアルコールは避けていたが、頼んだ手前、一口も口をつけずに残してしまうのは憚られる。それに前世の日本では特に厳しく、食べ物や飲み物を残すのは厳禁だと躾けられていた。
(一杯だけなら、きっと大丈夫です)
家を出てから何も口にしていないため、喉も渇いている。
そう思いワインに手を伸ばしたとき、ディランがジゼルの手首を掴んだ。
「……? 殿下?」
「その酒は度数が強い。あなたは飲まない方がいいだろう」
「お気遣いありがとうございます。しかし一杯だけなら問題ありません。喉も乾きましたし……」
言い終える前に、ディランがワイングラスを手に取り一気に煽る。
まるで水のように飲んだかと思うと、もう一つのグラスに手を伸ばし、そちらも一気に飲んでしまう。
ディランは濡れた唇を不愉快そうに指で拭い、冷ややかな声で言った。
「……今夜のところはもう、あなたに用はないが、明日早くに迎えに行く。明日に響かないよう、酒が飲みたいのなら明日の夜以降に家で飲め」
(まあ……)
ジゼルはつい、人間性を疑うような眼差しをディランに向けた。
(後は帰るだけならば、一口くらい飲ませてくださっても良いではありませんか……)
弱いなりにも酒の味は嫌いではないため、ちょっとだけ飲みたい気持ちがあったのだ。
(いえ、殿下の仰ることは正論です。……でもご自分だけ二杯も飲まれるなんて、少々ひどい気がします。)
食べ物――今回は飲み物だが――の恨みは恐ろしいものだ。ディランにそんな恨めしさを感じながらも、用がないということならと席を立とうとした、その時。
ゴォォン……ゴンッ……‼︎
一際丈夫に作られているはずの扉が、鈍い音を立てて大きく揺れた。
(これは……)
「お兄さま⁉︎」
一瞬で犯人を悟り、慌てて席を立って扉に向かう。
好感度死守のためにも、人様の屋敷を壊すなどあってはならない。
急いで鍵が閉まっていない扉を開けると、そこにいたのは予想通り、今まさに拳を握って扉にもう一撃食らわせようとしているエルヴィスだった。
「ジゼル‼︎」
「お兄さま……! 扉を破壊しようとする前に、まずはノックをしてから扉を……!」
「だからノックをしていただろう。少々力を入れすぎてしまったがな」
まったく悪びれもせずに言い放つエルヴィスに、ジゼルは目を瞬かせた。
(あれがノック……?)
扉が壊れなかったのが不思議なほどの音と扉の揺れを思い出し微妙な気持ちになるも、目の前の兄が意外と冷静な表情をしていることにホッとする。
「ジゼル、ここにいたんだね」
「お父さま」
兄の背後から顔を覗かせたレジナルドが、室内にいるディランにサッと礼を執る。
「これはディラン第二王子殿下。本日はお忙しい中、娘のエスコートをしていただきありがとうございます」
「誘ったのは俺だ。突然の誘いへの快諾、イグニス伯爵ならびにジゼル殿に礼を言う」
「とんでもございません。それより、娘が酒に酔ったと聞きましたが……」
「あ」
(そういえば先ほどこちらの休憩室にくるために、私は酔ったことになっていたのでした)
ちらりとディランに目を向けると、ディランは無表情のままで口を開く。
「隙を見せれば寄ってくる貴族どもが面倒で、適当に理由をつけてこちらに来ただけだ。ジゼル殿は一滴も飲んでいない」
(もしかして、殿下はこの流れを見越して?)
淡々と答えるディランの言葉に目を瞬かせる。独り占めなんて随分意地が悪いことをすると思ったが、もしかしたらこのために酒を飲ませなかったかもしれない。
(私がお酒を飲んだらお父さまからの心象が悪くなると思ったのか、はたまたお兄さまが密室で未婚の男女二人がお酒を飲むなど言語道断だとお怒りになると思ったのか、そのどちらもなのか……どちらにせよ、ありがたいことでした)
心の中でディランに感謝と勝手に恨んでしまったことを謝罪し、ジゼルはレジナルドとエルヴィスの二人に向き直った。
(今日の予定は終わりました。あとは自宅に戻って色々考えをまとめなければ)
「少し疲れてしまいましたので、私はそろそろ屋敷に戻ろうかと思うのですが……お兄さま、一緒に帰ってくださいますか?」
こう言えば過保護の兄は一緒に帰ってくれるだろう。暴走してはいないようだが、ディランから引き離すに越したことがないと判断したジゼルがそう言うと、エルヴィスはにっこりと機嫌の良い笑みを浮かべた。
「ああ、もちろん。父上を野放しにするのも不安だ、皆で帰ろう。お前は先に父上と一緒に馬車に戻っていてくれ」
「……お兄さまは?」
首を傾げると、エルヴィスはディランに目を向けて「俺は殿下にお話をしたいことがある」と言った。
「……お話ししたいこと?」
「お前と婚約するにあたって理解していただきたい百ヶ条をぜひともお伝えせねばと思ってな……おい、そんな顔はよせ。冗談だ」
「冗談でよかったです」
本気の方がやや可能性が高かったその冗談にジゼルが寄せていた眉をほっと下げると、エルヴィスは快活に笑いながら「あるのは本当だぞ」と笑った。
「本当なのですか⁉」
「当然だ。しかしそれは後日、殿下に文で届けよう。今日は殿下に至急報告せねばならんことがあってな。ものの一分で終わるから、お前は先に馬車まで戻っていてくれ」
明るい口調で微笑みを浮かべているものの、兄の瞳は真剣だった。至急の報告ということからして、騎士団から何か急務の用事ができたのかもしれない。
(そうでなければ、お父さまもそれとなく止めてくださるはずですし)
そう思ったジゼルは、「わかりました」と頷いた。
「それではお父さまと先に戻ります。殿下、本日はありがとうございました。明日もどうぞよろしくお願いいたします」
ディランに淑女の礼を執り、レジナルドと共に部屋を出る。主催者に先に中座する旨を伝え、玄関までの廊下を歩いた。
「殿下との夜会は楽しかったかい?」
「はい、とても!」
父の言葉に頷きながら、頭の片隅で今日の成果を反芻する。
いろんな貴族に挨拶ができた。ディランがジゼルに望むことを知り、今後起こる出来事に対し王族であるディランが取り組んでくれることになった。
(それに、お兄さま以外の方とする初めてのダンスは――ちょっぴり楽しかったです)
多少のトラブルはあったものの収穫の多かった一日に、ジゼルの足取りは軽かった。
◇◇◇
――一方、レジナルドとジゼルが去ったあとの休憩室には、重い沈黙が立ち込めていた。




