対価
「対価……?」
「ああ。これを見ろ」
ジゼルが逃げないように手を掴んだまま、ディランが懐から地図とペンを取り出す。
緻密に記されたその地図は、国内のもののようだった。
「あなたが知り得る、今後一年に起こる主要な出来事――主に事件や天災、それから穀物の収穫量などすべてを教えてほしい」
(……なるほど)
どうやらディランはじっくりと腰を据えて、ジゼルの『予知』で見える未来について知りたかったらしい。
あまりの近さに驚いて跳ねていた心臓を胸の上から押さえながら、ジゼルは冷静に考えた。
(政敵や国政の動向ではなく――いえ、そちらも知りたいのでしょうが――真っ先にお知りになりたいことが事件や天災や収穫量など、公務に関することなのは意外です)
移動中まで執務をおこなっていることといい、やはり真面目な王子なのだろう。
「それはもちろんお話いたしますが、どうして馬車の中でお聞きにならなかったのですか?」
事前に知りたいことを教えてくれれば、頭の中で考えをまとめられたはずだ。
ディランの人となりをまだそれほど知っているわけではないが、移動中まで執務を行うほど多忙で、かつ合理主義であるディランらしくはないように思う。
ジゼルの問いに、ディランは無感情に答えた。
「兄君や父君のいない初めての夜会の直前では、落ち着かないだろうと思ってな」
思いも寄らない返答に、ジゼルは思わず目を丸くした。
「……気遣ってくださったのですか?」
「それは違う」
ディランが鋭い表情で、釘を刺すように言った。
「あなたにとってのこれから一年の記憶は、十数年前の記憶ということになる。不完全だとしても最大限思い出せるような、落ち着いた環境の中で聞きたいと思っただけだ」
「それなら尚のこと事前に聞いていただければ、記憶をまとめましたのに」
「人は記憶を作る」
そう気だるそうにディランが首を振った。
「今この場で思い出しているあなたの様子を眺めながら、その記憶の信憑性と重要性を見極めたい。それに思い出している最中に適切な質問を投げ掛ければ、忘れていた記憶を呼び起こせるという可能性がある」
そこまで言ったディランが「朧げな記憶だけを頼りにする気はないが、情報というものはいくらあっても良い」と言った。
(――なるほど)
口元に手を当てながらディランの言葉を聞いていたジゼルは、納得した。
ディランの言うことは正しい。人間は見聞きしたもの、すべてをそのまま記憶できるわけではない。思い出そうとしているうちに、意図せず記憶を改ざんしてしまうことはよくあるものだ。
(いえ、思い出す私を眺めながら信憑性と重要性を見極める――というのは、ちょっと人間離れしすぎていてよくわかりませんけれど……)
しかし天才に対し、『こんなことができるのだろう』と疑問に思ったところで無意味だと、ジゼルは知っている。できるからできるのだ。
(それに……)
わかったことはもう一つある。
この夜会でジゼルを溺愛するふりをした理由、ジゼルを婚約者に据えた理由だ。
「そうなりますと殿下は、実際に何かが起こる場所に私を供立てたいということでしょうか?」
「…………」
ディランが驚いたように瞬きをしたあと、唇を持ち上げた。
「……想像以上に聡明だな」
(当たったようです)
忘れたことさえも忘れてしまったような記憶でも、ほんの些細なきっかけで蘇ることもある。
たとえディランに連れ立って行く現場がジゼルは訪れたことのない場所だとしても、たとえば天気や人の噂話やその場所の様子から、そこで起こる出来事に関する記憶が引き出されることがあるかもしれない。
そのためジゼルを連れて歩きたいのだろうが、しかし未婚の男女が連れ立って歩くのなら、相応の理由が必要になる。
だからディランはジゼルを『予知ができる一年間』だけ婚約者にし、溺愛するそぶりを見せて一緒にいてもおかしくない理由を作ったのだろう。
(それに、私を『溺愛する婚約者』に据える利点はもう一つあります)
それは、ディランが有能ゆえに様々な実績をあげていることにある。
端的に言えば、出る杭を打とうと躍起になっている者がいるのだ。
(ディラン殿下のお母さまは、平民の出自。それも隣国の方だと聞いたことがあります)
そのため第一王子をはるかに凌ぐ才覚を持ちながら、血筋を何より重んじる貴族たちからの反発は、根深いものがある。
とはいえこれまで他国出身の妃から生まれた王子が王位を継いだ例も、庶民出の側妃から生まれた王子が王位を継いだ例もある。
ここまで強烈にディランが忌避され反発されている根底には、出自だけではなくディラン自身への不満があるようだ。
(世間の噂やお兄さまの話を察するに、高位貴族の皆さまから嫌われる一番の要因は、国政の人事や国の施策に対し、無駄と判断すれば容赦無く切り捨てることにあるのでしょう)
先ほどの、タウンゼット公爵の言葉を思い出す。
(『ここでは殿下のお好きな狩りはできないでしょうに』――タウンゼット公爵が先ほど殿下に言っていた狩りとは、人を殺める残虐性を揶揄する他に、そういった切り捨てに対する嫌味も含まれているように思えます)
無能と判断され役職を解かれた中には、古くから続く名家出身の貴族、また権力や財力のある貴族も多い。
(もちろん、夜会で皆さまが挨拶に来られていた通り、表だって王子である殿下に反発する姿を見せる方は少ないようですが……)
しかし血筋を重んじる保守派からディランは疎まれ、その感情は彼が実績をあげればあげるほど、功績を出せば出すほど、膨れ上がっていくようだった。
(そのため殿下は妙な動き――功績に繋がるような何かをしようとすると妨害が入りやすいと聞きました。そしてその妨害も一顧だにせず蹴散らすということで、ますます保守派からの反発は強くなり、さらなる妨害が起こり、そしてまた蹴散らし……)
永久機関である。
しかし、ここで初めての恋人ができたらどうだろう。
今まで冷ややかな氷の視線をあちこちに投げかけ周りを威圧していた男が、先ほどはジゼルでさえ驚愕してしまうほどに甘く、めろめろな視線を投げかけてきた。
恋に落ちたように見えるディランを見て、『あの氷のような王子も人間だったのだ』と、驚きつつも飲み込んだ人間が大半のように見えた。
(たとえば婚約者を伴って遠方の領地へ視察に行けば、単純にお忍びデートを兼ねていると油断させることができるかもしれません。――それだけでは、妨害はゆるまないでしょうが)
だがジゼルは一度目の人生では没落したとはいえ、イグニス伯爵家の娘である。
下手な妨害はイグニス伯爵家――つまり、人よりもちょっぴりゴリラに近い妹馬鹿のエルヴィスを、敵に回すことと同義だった。
(『今日あなたとの約束を守ることは、俺にとっても利がある』――なるほど、あの言葉の意味はこれだったのですね)
つまり今日一番の目的は、新しく婚約したジゼルを溺愛しているとアピールすることだったのだろう。
やっぱり事前の説明が欲しかったところだが、ジゼルの確かな記憶を確かめたかったと言われれば仕方ない。
(ちょっぴり、いえ、とっても! かなり不本意ではあるのですが)
『溺愛』以外を抜きにすれば、ディランの考えはジゼルにとっても大歓迎の内容だった。
(今後起こる出来事への備えは、私一人の力では及ばないことがありました)
記憶力には自信がある。それにコツコツと知識を身につけていた一度目の人生、知識を取り入れる一環として巷で起きたニュースは、ほとんどすべてを把握していた。
水害や事故や事件など、世の中に痛ましいニュースは後を立たないと言えど、おおよその内容は覚えている。
(そういったことに関して、私ができる限りの対策はそれとなくしていましたが――他領ともなると、口を出すことはできません)
イグニス伯爵家の領地に視察へきた貴族と接触できた場合、それとなくその貴族の領地で起こる出来事に沿ったアドバイスをそれなりにしてみたこともある。
しかし興味を示す者は少なく、また興味深そうに聞いたとしても日々の忙しさに忘れ、手をつけられない者が多いようだった。
しかし、王族であるディランが関与してくれるなら話は別だ。特に冷酷で有能と名高いディランの言葉なら、聞かない貴族の方が少ないだろう。
気合いを入れてペンを取り、地図を見る。
「それでは、お話しいたします」




