父と兄
翌日のこと。
第二王子ディラン・ルベライトの署名が記されたジゼルへの求婚書が届いたイグニス伯爵家に、激震が走った。
「よりにもよってなぜ⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」
しっかり耳を塞いでも、抑えた手のひらを貫通して鼓膜が震えそうな大声が響き渡る。
咆哮という言葉がぴったりなその声は、人間よりも熊の方が近かった。
「お前は俺より強くて顔が良く、歌が上手で賢くて優しくて動物からも好かれ、権力も金もある好青年と結ばれるべきだろう⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」
「お兄さま、落ち着いてください。お兄さまより強い方などこの世にいません!」
「それはそうだがッッッ‼︎‼︎」
「エルヴィス、落ち着きなさい。騒いでも何にもならないよ」
咆哮する兄に、いつの間にか耳栓をつけていたレジナルドが優雅に紅茶を飲みながらそう言った。
「恋は突然だからね。こんなに愛らしいジゼルに殿下が恋に落ちるのも無理はない」
「恋だの何だのお前が言うな黙れ気色悪いと思いますし癪ですが、それには同意しましょう。だがしかし、これが落ち着けますかっ⁉︎」
そう言ったエルヴィスが、ジゼルの肩をがしっと掴む。
ジゼルの肩が壊れないようにまったく力は入っていないが、その形相からこちらが閉口するほどの圧が伝わってきた。
「いいか、ジゼル。お前の前に国家権力などクソ食らえだ。家のためだの国のためだのそういった自己犠牲精神は放り捨てろ。あとは俺がなんとかする」
ジゼルの肩から手を離し、拳をぎりぎりと握る。
腕力でなんとかしようと言いたげだ。いや、言っているのだろう。
(拳でなんとかされてしまっても困るのですが……)
「方法はともかくとして、エルヴィスの言う通りだよ、ジゼル」
どうエルヴィスをなだめようかと内心頭を抱えたジゼルに、ようやく耳栓を外したレジナルドが穏やかな口調でそう言った。
「幸い我が家はご先祖様の功績のおかげで王家の命令を断ることができる。気乗りしない申し出なら、どのような内容であれいくらでも拒否できるんだ」
「いえ、大丈夫です」
父の申し出に首を振る。すでにディランと密約を結んでいる以上、ジゼルに断る選択肢はない。
「殿下と直接お話をしまして、私はこのお申し出をお受けしようと決めました」
「ジッッッ……‼‼」
「お兄さま、まずはお話を聞いてください」
咆哮をあげそうな兄を制し、言葉を続ける。
「少しお話をしただけですが、殿下は非常に聡明な方とお見受けしました。少ない情報から最短で正解に辿り着く、並外れた量の知識と洞察力をお持ちでいらっしゃいます。その殿下に王子妃にと望まれたことは、大変光栄に思いますし……」
とはいえ、この理由では『自己犠牲はいかん!』とエルヴィスが王城へ拳を振り回しに行ってしまいそうだ。
(適当な理由をでっちあげれば良いのでしょうが――正念場こそ、嘘をついてはいけない。そう組長に教わりましたから)
兄と父にまっすぐ目を向け、嘘にならない率直な思いを伝える。
「私にはお父さまやお兄さまのような才はありません。だからこそ、いつどんなことが起きても後悔がないように努力したいのです。――殿下との時間は非常に刺激を受ける、有意義な時間でした。あの方のお側でしか学べないことが、たくさんあるでしょう。学べる機会があるのなら、私は学びたい」
嘘ではない本心だった。
洞察力、柔軟性、圧倒的な知識量。佇んでいるだけで周りの人間を畏怖させるあの眼差し。
どれをとっても高い視座から物事を見る、支配者の能力だ。
あのような人間に出会うことは、そうそうないだろう。
(だからこそ深く関わることは避けたいと思いましたが――もうすべてを見透かされ、婚約者となるお約束をしてしまった身です。学べるものは学ばなくては損というもの)
そう思いながら、ジゼルは言葉を続ける。
「それに殿下は、もしも私が殿下との結婚を望まなかったその時は婚約を解消してもいいと約束してくださいました。そちらの署名が、こちらに」
こんなこともあろうかと、ディランの署名と印付きで『双方どちらかに婚約を継続する意思が消えた場合、速やかに婚約を解消する』と記された書面を差し出す。
これは言質だけでは万が一の場合不安だと、ディランに交渉して手に入れたものだ。
(提案した際、殿下にはまるで珍獣を見るような目を向けられてしまいましたが、無事に書いていただいてよかったです)
あらゆる場面を想定し、どんな場合にも法的に対処できるよう、その場でびっしりといくつもの文言をしたためた。内容に問題はないか確認したとき、ディランが楽しそうな笑みを浮かべながら「良いだろう」と頷いていた姿を思い出す。
「しかしもしも婚約が解消となった場合、今後の嫁ぎ先に不安が残りますが……」
「好都合だが」
「問題ないよ」
ジゼルが眉を下げて申し訳なさそうにそう言うと、エルヴィスとレジナルドが食い気味で答える。
二人がそう言うことはわかっていたが、実際に困った顔一つ見せない兄と父に、ジゼルはほっと胸を撫で下ろした。
(婚約解消は決定していますから……安心いたしました。この一年間、精一杯頑張りましょう)
そう小さく拳を握って闘志を燃やすジゼルに、レジナルドが穏やかに口を開いた。
「可愛い娘が決めたことを止める気はないが、何か助けが必要になったらいつでも言ってほしい」
「はい、ありがとうございます」
ジゼルの言葉に頷き、レジナルドが「ところで」と懐から白い封筒を取り出す。
「求婚書と合わせて一週間後にアースキン伯爵が開く夜会の招待状が届いた。……ディラン殿下がエスコートにしてくださるそうだが、行くかい?」
「もちろんです」
早速ディランが約束を守るために動いてくれたのだろう。ありがたいことだと思いながら頷くと、レジナルドは「わかった」と言った。
「この夜会には私も行く予定だが、エルヴィスは……」
「行きましょう」
(いらっしゃるのですか……)
力強く頷くエルヴィスに一抹の不安を感じつつも、こうなることは予想内だった。おそらくディランの方もそうだろう。
なんにせよ、初めての夜会で成果が得られるとは思っていない。それでもディランの元に挨拶にやってくる貴族たちに、挨拶くらいはできるだろう。
(それで十分です)
アースキン伯爵が開く夜会には多くの重鎮が現れる。
早速ディランにお礼の手紙を書こうと思いながら、ジゼルは夜会前に貴族名鑑に目を通しておこうと考えた。




