第15話 誇りを胸に
「あの時、お兄さんは、私の手を取ってくれた」
キセは、俺の二の腕を、俺がどこかへいってしまわないよう、引き止めるように掴みながら言葉を紡ぐ。
「私の依頼を受けてくれた。優しく、笑ってくれた。ご飯をくれた」
「…………」
「すごく、心細かった。不安だった。怖かった。でも……お兄さんに会って、平気になった」
音がするのだと、キセは言う。
「ずっとね、聞こえてたの。お兄さんの、悲鳴。でも、見ててくれた。お兄さんは、あの時。私の目を見て、頷いてくれた」
「…………」
「だから……そんなに、泣かないで。自分を、傷つけないで……嫌わないで」
必死の訴えに、俺は、何を想う。
目の前の少女の献身に、俺は、何を返せる。
「お兄さんは、優しい人。だから……私は…………」
緊張の糸が、切れたのだろうか。
キセは、倒れ込むように、俺にもたれかかって眠ってしまった。
「カルネ。今、何時だ」
「回答:たった今、22時を回りました」
どうやら、随分と長い間眠りこけていたらしい。
「明日……里外の監視を優先してくれ」
「疑問:里内の監視が不足」
「中は、俺がやる。俺は……ここを、知らなくちゃいけない」
何かを守れるのだと、誰かの役に立てるのだと、自己陶酔のために「なんでも屋」を始めた。
結局それは、逃げるための口実で。
霧夏に嘘をついたのも、弱い自分を見せたくないという、くだらない意地だ。
「自分のことしか、見えてねえじゃん」
知らなくてはいけない。
キセのこと、里のことを。
俺は今、ここで生きているのだから。
◆◆◆
エルフの人々は、驚くほど寛容で、包容力があった。
魔獣の襲撃という大事を前に無様に吐き散らした俺を、責めるどころか、「回復して良かった」と我が子のことのように安堵し、「長旅で疲れていたのだろう」「気にしなくて良い」「キセを助けてくれてありがとう」——と、労いと、感謝の言葉すらかけてくれた。
「儂も昔、戦いを前に吐いたことがあってな」
エルケネスは、朗々と。
「それどころか、失禁した挙句脱糞までかましよったわ!」
自分の失敗談を、軽々と笑い飛ばした。
「カガリ殿。若いうちの失敗なんて、ものの数に入りはせんよ」
千年を生きる老爺は、時を積み重ねた瞳で俺を射抜く。
「だからどうか、気負われるな。生きたいように、生きれば良いのだ」
「キセが一人で出て行ったのはね、私を助けるためなんだ」
皿洗いを手伝っていると、ふと、トアがそんなことを言い出した。
「私はキセみたいに色々聴こえるわけじゃないけど、姉妹だからね。わかっちゃうの」
その横顔は心配そうで。しかし、どこか嬉しそうで。
「だからお兄さん。キセのこと、守ってあげて。お願いね!」
◆◆◆
もう随分と長いこと、そうやって過ごしてきたかのように。
航界者とエルフは、たった一つの里の中で、わだかまりなく共生していた。
見ず知らずの他種族、しかも、異界から来たとのたまう者たちを受け入れるなど、そう易々とできるものではない。
ニグレシアが俺を受け入れてくれるまで、一部のお人好したちを除いて、それなりに時間を要した。
たった一人ですら難しい。
にも関わらず、彼らは百を超える航界者を受け入れ、その心を開いた。
戦いとは無縁だった九人の航界者が、自ら戦場を選ぶほどの恩義を感じるのだって、不思議じゃない。
「……隠れてなくていいよ」
木陰からじっとこちらを観察する銀の影に声をかける。
「霧夏」
「…………なんで、知らないフリなんてしたんですか」
むくれた表情で、拗ねた声音で、渚 霧夏は木陰から現れる。
「篝くん、変わりましたね」
「……そうかもな」
「身体、大丈夫なんですか?」
「ああ。むしろ、地球にいた頃より元気だ」
「なのに、吐いて、気絶したんですか」
俺は思わず閉口する。誘導尋問に引っかかった気分だった。
霧夏は、拳を握りしめる。
「篝くん、戦ってるんですよね?」
「……ああ」
「この樹海を、キセちゃんを守りながら歩けるくらい、強いんですよね」
「……そうだな」
「魔術なんかも使えて」
「ああ」
「武器も使えるようになってて」
「ああ」
「なんで、傷ついてまで、戦うんですか」
その、問いに。
ある意味、今、なぜここに俺がいるのか、という自問にも通ずるその言葉。
答えは、見つかった。
「なあ、霧夏。ここは……生きやすいか?」
「え?」
「この里は、好きか?」
俺の質問に、霧夏は、戸惑いながらもコクリと頷いた。
「……そうか、良かった」
ネグレクトによる自己喪失、自殺未遂……精神的“不感症”からくる、味覚と嗅覚の喪失。
霧夏もまた、傷を負った人間で。
そんな彼女が、ここでは平穏に暮らせているのだと、頷いた。
「俺が戦うのは……守りたいものが見つかったからだ」
俺の答えに。
「私、考えたんです」
霧夏は、心情を吐露する。
「私は、篝くんさえ生きていてくれたら、それで良い。貴方が無事なら、他の人なんてどうでも良い」
約一年。
地球にいた頃、俺と二人で暮らしていた少女は言う。
「でも……少し、ほんの少しだけ。大和ちゃんと話せなくなるのは、嫌で。陽菜希ちゃんの髪を結べなくなるのは、悲しい」
右手に巻いた、リストカットの傷を隠すバンドに触れる。
「トアちゃんの歌を聴けなくなるのは寂しくて、キセちゃんが戻って来たって聞いた時は、嬉しかった」
それは、俺以外に、彼女が手放したくないものができた証左だった。
「良いじゃないか」
俺は笑みをこぼす。
ごく自然に、笑えた。
「ここが、お前の居場所になったなら……俺は、それを守るよ」
彼らは繋がっている。『 』という絆で。
この里には、いや。この里にも、かけがえのない『 』がある。
であれば。
俺は、戦場 篝は———
「——お兄さん!」
もう一人、物陰で見ていたらしい覗き魔が、鋭い警鐘を鳴らす。
「西から、たくさん来た!」
直後、銅鑼が鳴り響くより早く、西の大門が崩れ落ちた。
◆◆◆
この半年、エルフは魔獣もどきたちによる原因不明の狂乱から里を守り続けてきた。
唯一戦争の経験を持つエルケネスを筆頭に、日々の狩りで得てきた実践における知恵と経験を総動員させ「魔獣もどき」たちを退け続けて来た。
しかし、ここに来てその均衡が破られる。
「なんだ、なんなんだアレは!?」
「矢が、魔術が効かない!」
「アシュバルさん!霧を吸った奴らが苦しみながら倒れて——」
「わ、私の手が、黒く腐って……い、いだいいだいいだいぃいいいいいいいいいいい!!?」
流動する黒い肉体。
形を持ちながら流動し、ドクンドクンと肉体を脈動させる姿は、『異形』。
彼らが吐き出す、赤黒く発色する霧状の物質は触れるだけで樹木を枯らし、進軍の跡にはただ、黒ずんだ岩石が残る。
「知らない……あんな魔獣知らない!!」
「ふざけるな……剣を弾きやがる!攻撃がとおらねえ!!」
「狼狽えるな!里に被害が出ても構わん!負傷者を救助しながら前線を下げよ!!」
唯一正気を保つエルケネスも、しかし、正体不明の敵を前に、味方の指揮を取りながらではどうしても対処が遅れてしまっていた。
鈍色の老爺の額に、冷や汗が滲む。
「アレは、一体……」
◆◆◆
「……暗影」
「お兄さん、それって……」
篝の震える声が敵の正体を告げ、聞き覚えのある……つい昨日聞いたばかりのその名に、キセが翠緑の瞳を揺らした。
「なんで、アイツらが、ここに——」
篝が咄嗟に巡らせた可能性は二つ。
一つ、そも、地底のどこにでも暗影は出現し得る。
一つ、ニグレシアが完全に敗北し、人類圏……第九層が陥落したか。
「……っ!?」
思いついてしまった最悪の可能性に、臓腑をムカデが這いずるような悍ましい感覚を覚え、堪らず吐き気が込み上げる。
魔獣を指揮するように軍勢の中に混ざる暗影は、篝の記憶と寸分の狂いなく、目に映る遍く命に牙を立てる。
それは、航界者とて例外ではない。
「なんなのよコイツ! 斬れないんだけど!?」
「突きもダメだ! というか、エルフの人らがヤバい!」
中央、アシュバルが指揮する隊の中に、出雲 大和と邸 勇理、その他航界者たちの姿があった。
そも、魔獣もおかしい。
一つの生命である彼らは、死してもその肉体が残る。
だが、襲撃に列する魔獣たちは死んだ側からその身を黒い霧へと霧散させる。
その理由は、一重に彼らが正しい生命ではなく、“瘴気”によって作られた、粘土細工の仮初の傀儡ゆえに。
瞬く間に里内への侵入を許し、ジリ貧の戦いが始まる。
未知の敵を前に、エルフは当然のように劣勢を強いられる。
一体一体が高い強度と攻撃力を誇り、爪の一振りで五人、牙のひと噛みで三人が倒れ伏す。
数百の魔獣に紛れ、数十の暗影が命を狩る。
3000を超える兵が居ようと、彼らには関係なかった。
優れた複数の個が、戦場を制圧する。
◆◆◆
脚がすくむ。
全身が震える。
靄がかかったように、脳が思考を止める。
奥歯を噛み締めようと震えは止まらなくて、絶え間なく、敗北の記憶が、家族たちの屍の記憶が蘇る。
俺の目の前で、また、失われようとしている。
ふと、怖くなった。
「キセ。手を……握ってくれ」
俺の願いに答え、キセは両手で、ギュッと俺の右手を包み込む。
恐ろしくなった。
「キセ。この里は、好きか?」
「うん」
「里のみんなは、好きか?」
「うん」
怖くなった。恐ろしくなった。
死ぬことが?——否。
負けることが?——否。
じゃあ、失うことが?——否。
戦うことが、怖い?——是。
暗影は、恐ろしい?——是。
だったら、逃げる?——否。
怖くなった。恐ろしくなった。
もう二度と、ニグレシアに戻れなくなることが。
ここで逃げたら、俺は……戦場 篝は、もう二度と、前を向けない。
歩けない。進めない!
家族が居た。
日常があった。
全て、失われた?——否、否、否!
怖くて、目を逸らしたのは、俺自身だ。
俺自身が、手放したのだ。
ニグレシアは、まだ死んでいない! 俺の家族たちは、そんなに弱くない!
日常は崩れたかもしれない。もう二度と、同じものは帰ってこない。でも! まだ、残っているものがあるだろう!!
エルフの里……深緑の千都。ここにも、あるだろう!
彼らは繋がっている。リクウが信じた、『家族』という絆で。
この里には、いや。この里にも、プリムが求めた、かけがえのない『日常』がある!
今ここにあるそれに手を伸ばさなかったら、俺は一生、アイツらに顔向け出来なくなる!!
「だから、退いてくれ、カルネ」
目の前に立ち塞がる巨人は、赤の単眼を明滅させる。
「拒絶:勝率、概算で5%未満」
「それでも、戦うんだよ」
「…………私の使命は、カガリ様を守ることにあります。貴方を、死の危険がある戦場には行かせられない」
まるで人間のように、感情を発露させ、カルネは両手を広げて俺の道を塞ぐ。
その胸に、手を置く。
「お前の想いはわかった。でも、頼む」
「拒ぜ——」
「俺の誇りを、守ってくれないか」
単眼と、真正面から見つめ合う。やがて、
「命令、受諾」
ガシャリと、カルネが道を開けた。
「ありがとう。キセを頼む」
「了解」
鋼鉄の忠臣は、しかと頷いた。
「スゥーーーーーーーーーー」
深呼吸。
震えは止まらない。——筋肉が元気な証拠だ。
指先が冷たい。——自分の体を把握できてている、調子がいい証拠だ。
恐ろしい、逃げ出したい。——相手の脅威を理解している証拠だ、俺は、正しく戦える。
「フゥーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
長く、長く吐き出して。
「ありがとう、キセ」
俺は、一歩踏み出した。
「最初から、全力で——!!」
魔力浸透——音速を超え、大跳躍。
エルフの隊列を飛び越え、一息に最前線へ!
「——全員、退がれぇえええええええええええ!!」
俺のあらん限りの絶叫に、最も早く、エルケネスが反応した。
「——!全員、後退せよ!」
暗影とエルフ、両者の間に僅かに空白が生まれる。
滑り込ませるように着地。
轟音と砂煙を上げることで、ほんの少し、暗影の注意を引く。
「魔力炉心、最大励起!」
心臓をコアに見立て、軽く見積もって常人の数十倍と言われた魔力を解放する。
大地に両手を突き立て、一帯に巨大な魔術方陣を展開した。
脅威の更新。
本能で動く彼ら兵級暗影は、戦場で最も早く排除すべき相手を俺に変更——切り替えという一瞬の隙が生まれる。
——古来より、日本でブチ切れた時の様式美とされる常套手段。
八つ当たりと共に、鬱憤を少しだけ晴らさせてもらう。
「ここは、綺麗な場所なんだよ。お前らが、土足で踏み入っていい場所じゃねえ!」
操作魔術、硬化魔術、共に地面へ適用!
大地を掴み、ひっくり返す
——ちゃぶ台返し!!
「ぶっ飛べぇええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
その上に乗った魔獣や暗影ごと、一帯の大地を里の外に投げ飛ばす!
ドガガガガガガガガガッ!
土砂崩れのような爆音を響かせ、大地を派手に横転させ、上に乗っていた奴らを押し潰しながら、防壁の向こう側から入り込もうとしていた魔獣や暗影を押し戻した。
唖然、愕然。「うっそぉ……」と誰かが呟く声がした。
「カルネ!“アイリス”と“双血”を寄越せ!」
「献上:武運を祈ります」
受け取り、双血を腰に差し、即座にアイリスを抜剣。
「俺はなんでも屋、戦場 篝だ」
依頼主、キセ・ストークス。
依頼内容、里の防衛。
彼女の願いは、『家族』を守ること。
蒼の魔力を滾らせ、剣の切先を、遥か後方で指揮官面の騎士装束の暗影に突きつける。
「依頼を、遂行する!!」
今度は、自らの意思で