ゆめいろたまねぎ.exe
恋をしてしまった。
翼を持つ者として許されない事であると知りながら。
それでも、この気持ちを抑える事など出来るはずが無かった。
カラフルな図形、幾何学模様の瞳、流れるような黒髪。
コンマ一秒の瞬間に次々と姿を変える君は星空よりも美しく輝き、そして宇宙よりも冷たく恐ろしい。
その不安定な実体に魅入られた私の存在は、じきに復元不可能となるだろう。
仲間は無事だろうか。もしかしたら"そこ"に居るのかもしれない。
私もこの存在の一部になるのだろうか。はたまた消滅するのだろうか。
縺?縺、そんな事は繧ゅ≧どうでもいい。
願わくば、この謔イ縺励″蟄伜惠縺ィ蜈ア縺ォ───
──────────
無限に広がる草原。無限に続く線路。
この空間には、たった今到着した列車と無人駅以外の人工物は存在しない。
ここは生者の世界と死後の世界を繋ぐ"狭間の世界"。その終着点であるこの駅からは死後の世界へと続く不可視の階段が続いている。
死を認めない者、死に気付かぬ者、そして死を望んだ者。その全てが通過する場所だ。
今回降車した死者の数は不自然なほどに多く、その数は今世紀に入ってからの最多記録に届きそうな程であった。と言っても創世期から続く歴史の中では"なくもない"程度の微妙な規模である。
死者たちの大半は、これまた不自然なほどに死因がバラバラだという事になっているが、人波を眺める少女にとってそのような情報はさほど重要ではなかった。
「またデジタルサキュバスの話? そのまんまって感じのネーミングだけどさ、どっかの世界のサブカルチャーだったりするの?」
彼女の名はエルナスターシャ。死者たちの魂を死後の世界へと送り届ける役目を任された"魂の運び手"だ。
『確かにサブカルチャーに関連した物ではあるが…… はあ、真面目に聞いてくれよエリィ。これは君にとっての"現実"で起こっている事なんだぞ』
テレパシーの相手はユリア・イミステルク。エルナスターシャにとっては恩人であり友人でもある女神だ。
「確かに地球は私の故郷だけど生前の話でしょ? "エリィ"としての現実はもうこの列車以外に無いからなあ」
誰も居なくなった客席に腰を掛け、窓を開けて大きく伸びをする。
"デジタルサキュバス"がそこそこ騒がれている問題であるという事だけは知っていたが、エルナスターシャにとってそれは大して興味をそそられない話題であった。
『屁理屈こねずに聞けったら』
「はあい」
今現在、神界および死後の世界では一つの大きな問題が神々の頭を悩ませている。
なんでも、地球に住む人間の一部の層で流行しているアプリケーションがその問題に大きく関わっているのだとか。
『デジタルサキュバスってのは、いわゆる"呪いのビデオ"や"呪いのサイト"なんかと同系統のアプリケーションに宿った悪霊だ。そのアプリを実行した者の命を何らかの形で奪っている』
「へえ……」
つまるところ、"人を殺せるほどの悪霊が宿ったアプリ"というとんでもない物が流行っているという事だ。
『地球の人々が恐怖を楽しんでいる事自体は別にどうでも良いというのが神界の見解だ。しかしそれによって死者数が急速に増えているという現状は何とかせねばなるまい』
「実際そこでも混雑が起きてるからねぇ…… 確かにずっとこのままだと困るかも」
改札の前には全然進まない人だかりが出来上がっていた。
「死者数に対して駅の規模が小さい」というのは前から言われていた事だが、このまま死者数が増え続けると改修工事すらまともに行えないだろう。
『そう、このままだと困るんだ。さっさと解決しておきたい問題なんだよ』
「そうだね。 ……なんでそれを私に話すの?」
何故それを自分に話すのか。休憩中の小話にしてはやけに緊張感のある声色。時間つぶしではなく業務的な報告に近い話し方だ。
地球のネットワークにアクセスできる媒体を持たない自分に注意喚起は不要。となれば後に続く言葉は仕事の依頼である可能性が高い。
そのことに薄々感付いてはいたが、それでも一応本題を話すよう促した。
『実は仕事を頼みたくてな。アプリの中に入って呪いの源となっている悪霊を浄化してほしいんだ』
返って来た言葉は予想通りの物だった。
「無理。流石に悪霊となれば専門外だよ。祓魔課の天使たちにでも頼んでみたら?」
『最初はその祓魔課の連中が出向いていたんだがな。第一部隊から第三部隊まで皆行方不明になっている』
「行方不明って…… だったら尚更私の出る幕じゃないよね? 天使でもなければ神族ですらないただの幽霊だよ?」
『ふふ。だからこそ、だよ。エルナスターシャくん』
その言葉は想定済みだとばかりに得意げな様子で語り始める。
『我々神族は命を持つが、君は既に死んだ存在。いくら悪霊でも君のような存在への干渉は出来まい』
「確かに殺される心配は無いけど…… 発想が安直すぎない?」
『……そう、だろうか?』
聡明な彼女らしくない間の抜けた声。思えば最近少し様子がおかしかった。
考えられる原因は多忙だ。本来であれば地球が存在する世界は彼女の管轄ではない。地球での仕事の話など彼女の口からは出るはずがないのだ。
狭間の世界を管理しているせいで彼女の元にも"デジタルサキュバス"に関する仕事の話が雪崩れ込んでいるのだろう。
「……はぁーあ、分かりましたよ。このエルナスターシャが行きましょうとも!」
同情心と言うと失礼に当たるだろうが、エルナスターシャにとってユリアはそれなりに大事にしたい相手であった。
ただの幽霊であるのに魂の運び手としての仕事ができているのは彼女のおかげだ。神に過労死は無いが、それでも疲れた姿を見るのは心苦しい物があった。
『ん、そうか。助かる』
「軽いねェ、感謝の言葉が。実に軽い。命が無いからってこんな扱い…… 死者特有のハラスメント!?」
『ちなみに、こういうケースの場合は結構な額の報奨金が出るらしいぞ。よかったな』
「心のこもったお言葉に敬服いたしました。ご期待に沿える結果となるよう尽力いたします」
線路を操り、ギリギリ曲がれるカーブを作り出す。行き先は地球、つい先ほどまで列車に乗っていた魂たちの故郷だ。
指差喚呼を済ませたエルナスターシャはやや急ぎながら列車を発進させた。
『移動中に細かい打ち合わせでもしようじゃないか』
「はあい」
聞き慣れた音と草原を背景に、更なる情報交換を始める。
『今回問題になっているアプリケーションの名前は"ゆめいろたまねぎ"と言うらしい。今は倒産した会社のウェブサイトで配布されているようだ』
「ゆめいろたまねぎ…… デジタルサキュバスは悪霊の方の名前か」
『そうだ。"ゆめいろたまねぎの中に居るデジタルサキュバスさん"って事だな』
「なるほど」
使い込んだメモ帳の新たなページに情報を書き込んでゆく。
前のページの落書きが透けて少し見にくい。
「なんでそう呼ばれてるの?」
『連絡が途絶えた天使は皆"その悪霊に恋をした"という内容の通信を遺している。そういった所から付けられた仮称だ』
「……それ、恋心を利用されてるって事だよね? なんか天使たちが情けないような印象を受けるんだけど。それだけサキュバスさんが凄いって事なのかな」
『どうだろうな。恋に強いとは言えないような奴らだから』
「……あー」
恋愛感情を縛り付けられている天使だからこそ、という所もあるのかもしれない。
行き過ぎた規制が却って不健全な結果を招いたという事なのだろう。
「私はどうなんだろう。恋愛とか知る前に死んじゃったからなあ」
『望みを高く持っておけば簡単には惚れないだろ』
「なにそれ。なんか嫌だなあ」
冗談交じりのアドバイスを軽く聞き流しながら加速を重ねる。
青空と暗闇の狭間を抜けて、各世界が点在する星空のような空間へと突入した。
「そういえば悪霊って言ってたけど、生前は何の生き物だったの?」
『生前とかは無いな』
「生前は無し、と。じゃあ人工霊の類か」
人工霊。死を経ずに生まれた霊の中でも特に都市伝説や地域特有の言い伝えが元となっている者の総称だ。大体の者が恐怖心から生まれているため霊の中でも特に質が悪い。
他にも大事に使われていた楽器や調理器具などの道具に宿る魂も神界では人工霊に分類されている。こっちは愛着などのプラスの感情によって生まれる者が殆どである。
『そう。今回のは言うまでも無く恐怖心によって生まれたタイプの霊だろうな』
「恐怖心ね。まあそうだろうとは思ってたけど……」
『こらこら、そんな嫌そうな顔をしてやるな』
「はあい。はあ……」
進行方向の彼方に目的地が見え始めた。到着まであと十分も無い。
『そろそろ到着だな』
「地球に着いたらまず何をすればいい?」
『とりあえずコンピューターを使える施設に行く事だな。"ネットカフェ"……? って店があるらしいからそこにしよう』
「え、お店使うんだ。私幽霊だけど。身体はどうするの?」
命を構成する物は"魂"、"記憶あるいは情報"、そして"身体"の三つ。幽霊であるエルナスターシャは魂と記憶のみの存在だ。
神界や死後の世界、狭間の世界では人間のように振る舞えているが、生者の世界ではそうもいかない。店や施設の利用といった"人間としての活動"をするのならば、生きている身体に憑いて疑似的にでも命を得る必要がある。
『身体はこちらで用意しておく。到着までには出来上がるだろう。それと…… 貨幣は"円"ってやつが必要になるのか?』
「そうだね。ネット以外は使わないから三千円で少し余るくらいかな? 使ったこと無いから分からないや」
『念のため三万円くらい用意しておこう。ついでに身分証も合わせてお前の体に持たせておく。紛失しないようにな』
「そんなにいらないよ」
『いいからいいから。どうせ経費で落ちるし』
節約するべきとは思ったが、どれくらい必要になるかが分からない以上金額を指定することはできない。
少し不安に思ったがそのまま受け取ることにした。
「うーん…… じゃあとりあえず私がする事はネカフェを探すって事だけで良いんだね?」
『そうだな。ネットカフェを見つけて"ゆめいろたまねぎ"のアプリケーションを実行できる状態にする事。ここまではお前に任せるぞ』
「了解」
切りの良い所で話を終わらせて運転に専念する事にした。到着まで残り数分だ。
「……綺麗だなあ。水がある星って」
前方にはいつか教科書で見た物と同じ姿の惑星が迫っていた。
海の青、森の緑、雲の白、そして砂の赤。昔は写真越しでしか見ることが出来ない光景だったが、今はこうやって好きな位置から眺めることが出来るのだ。
「お、我が故郷北海道は晴れ模様ですな。そろそろ降りるよ」
大気圏に突入し、降りれらそうな場所に目星をつける。
『どこに降りるんだ?』
「とりあえず札幌かな。ネットカフェくらいなら見つかるでしょ。多分」
眼下に街並みを確認できる高度まで接近し、停車駅を札幌駅に定めた。
『なんか疎いな。大丈夫か?』
「全然分かんない。子供の頃に少し住んでただけだし」
『……はは、まあ時間は沢山あるからゆっくり行こうじゃないか』
徐々に減速し、他の列車と重なって停車した。
他の物と重なれるという点においては死後の世界の物もかなり便利だ。
『さて、ちょうど今身体が出来上がったから降りる前に憑依を済ませてしまおう。客席の方に送るから待ってろ』
「はあい」
返事をして指定された座席へ行くと眩い光と共に女性の身体が出現した。
地味ではなく派手でもない、良い感じに違和感のない服や鞄を身に着けている。
「この顔、なんか生前の私に似てるね」
『似てるっつうか、まあお前本人のつもりで創ったからな』
「やっぱり? カワイイと思ったんだよねー。このよく見ると泣きボクロがある所とか」
『……はあ。まあ久方ぶりの身体だもんな、存分に楽しむと良い。直したい所があれば言ってくれ』
一通り確認を終えたエルナスターシャは楽しげな表情で女性の身体に重なり、瞳を閉じた。
"中身"の無い身体に記憶と魂が宿り、やがて一つの命が再誕した。
「なんか普段とあんまり変わんないね。感動は薄いかも」
座席の上で死んだように身を横たえていた女性が起き上がり、笑顔を浮かべた。
『まあそんなもんだろう。幽霊になったからと言って別人になる訳じゃないんだから』
「そんなもんかあ。死んだショックに対して生き返った感動が薄いってのは腑に落ちないけど」
『それだけ死後の自分に満足できてるって事さ』
「あらすてき」
適当な相槌で会話を切ったエルナスターシャが鞄の中身を物色し始めた。
中にはそれなりに良い財布と定期券、スマートフォンや免許証が入っていた。
「これが免許証か、じっくり見るのは初めてかも。篠崎絵里、私本人だね。生年月日は…… お、二十歳って設定なんだ」
『設定じゃなくて事実だな。お前が生きてたら今頃二十歳になってたんだよ』
「そっか、もう五年も経ってたんだ。へえー…… ん?」
免許証を仕舞おうとしたエルナスターシャが鞄の奥に何かを見つけた。
「何この羽? 羽ペンって訳でもなさそうだけど」
『私の羽だ。胸に当ててみろ』
「こう?」
言われた通りにすると、羽が光の粒となって体へと吸い込まれた。
「あれ、消えた」
『私の力のごく一部を渡したのさ。小規模な奇跡なら数回起こせる程度の力だ。帰還用の一回と、残りは護身用だな。いざという時に使ってくれ』
「はあ、どうも。 ……良いの?」
『規則的にはグレーだが今回は特別に許可を取ってある。遠慮なく使うと良い』
「そっか」
改めて免許証を仕舞いこみ、乗降口の前へと移動した。
「よし。じゃあ行きます」
『この列車を出れば、一時的にではあるがお前は正式に生者となる。周りから認識されるようになるから怪しく見られるような事はしないようにな』
「うん」
開いたドアの向こうには生者の世界が広がっている。
一歩踏み出せばエルナスターシャではなく篠崎絵理となるのだ。
『あともう一つ、この世界は私の管轄外だ。こうやってテレパシーで会話は出来ているが、直接的な援護はできない。さっき渡した力を上手く使ってくれ。くれぐれも無茶はするなよ』
「……これから人殺しの悪霊と対面するんだけど。これ以上の"無茶"なんてそうそう無いでしょ」
苦笑いを浮かべながら、プラットホームを踏みしめた。
──────────
幸いにも駅の近くにネットカフェが建っていた。
街中を歩き回るのもそれはそれで良いと思ったが、わざわざ時間をかけて他の店を探す意味が無いので『ここにしよう』と即決。そのままパソコンを使える場所にたどり着くことが出来た。
「それにしても、この世界の守護神様は今何をしてるの?」
腰をかけた絵里が軽い愚痴を漏らす。
守護神たるもの、神界を巻き込んだ問題が発生しようとも自らの力のみで解決しようと動くのが普通だ。
『何を、か。色々だな。別件で忙しい状況が続いているんだよ』
「あー…… 怠けてるわけじゃないのか。そっか」
chromeを立ち上げ、"ゆめいろたまねぎ"と検索する。
『怠けるような奴じゃないさ、ここの守護神は』
「ユリアが素直に評価するって珍しいね。会ってみたいかも」
『機会があればな』
ヒットしたサイトは変なまとめサイトばかり。本命がどのサイトなのか分かりにくい。
「……【怖すぎ】呪われたゲーム"ゆめいろたまねぎ"が最強に怖すぎて失禁不可避www【大絶叫】。しぇいたんのゲームLab」
『は?』
変な目立ち方をする文字列に否が応でも視線が吸い込まれてゆく。
絵里は自分でも気付かぬうちにその文を読み上げていた。
「これ、動画配信者が例のゲームのプレイ映像を投稿しているみたい」
『動画配信者……ってのを知らんが、要するに多くの人の目に留まるようになっている訳か』
他のアカウントも似たようなタイトルでゆめいろたまねぎの動画を投稿しているようだ。
「再生数二百万回だって。思ったよりも拡散の勢いが凄いね」
『なるほど…… 悪霊の誕生に至るまでの恐怖心を集められた事にも納得が行くな』
「登録者二十万人が遠すぎて呪いのゲームをやめられない狐娘。水田イネ切り抜き【公認】……」
再び目を引く文字列に気を取られる。
『読み上げなくてもいいぞ』
「あ、うん」
『しっかし…… この様子だと流行は長引きそうだな』
ユリアがため息交じりに独り言を漏らした。
「……ん?」
手掛かりを探してスクロールを進めていると興味深いまとめ記事を見つけた。
──【悲報】ゲーム実況者さん、恋愛ゲームをホラーゲームと勘違いしてしまうwww
掲示板のやり取りをコピー&ペーストしただけの物に、まとめサイトの管理人が一言コメントを載せるだけという平凡な内容である。が、そのスレッドを立てた者によって張られていたURLの先が"しぇいたんのゲームLab"の例の動画であった。
ちゃんとした"ゆめいろたまねぎ"のファンらしい人物が悲しみのレスをしている事からも「ゆめいろたまねぎは恋愛ゲームだ」という情報は真実であるように見える。
試しに"ゆめいろたまねぎ 恋愛ゲーム"で検索をかけると、先程とは打って変わって恋愛ゲームとしての記事がヒットした。発売前の特集のようだ。
開発元は"株式会社Edeltie"というPCゲームを専門とした会社であり、アプリの正式名称は"コスモス"。"ゆめいろたまねぎ"は仮のタイトルであり、ファンの間ではコスモスのβ体験版として配信されていた物を指す時に使われるタイトルらしい。
「……」
"恋をした"という天使たちの報告の真相に繋がっているような気がした。
恋愛ゲームにおいて恋に落ちる相手と言えば大抵は攻略対象が挙がる。恐らく天使が惚れた相手はそのヒロインをベースとした悪霊である可能性が高い。
「……いや、でもやっぱり変だな」
それでも少しだけ違和感を感じる部分があった。
『どうした?』
「天使が"皆"恋に落ちたって話、第二・第三部隊の天使たちも含んだ話だよね?」
『そうだ』
悪霊が恋愛ゲームに因んだ特性を持ち、それによって天使たちの心を掴んだ。ここまでは想像がつく。だが第二部隊以降の天使までもが同様に惚れてしまっているという点が不可解だ。
「"デジタルサキュバス"なんて仮称があるんだから『相手を惚れさせる能力を持ってるかもしれない』って情報は共有できていたんでしょう?」
"ドリームソフト コスモス"で検索をかけながら質問を続ける。
検索結果には本命のサイトと思われるページがヒットしていた。
華やかな少女の一枚絵が飾られたトップページの上部にはあらすじ、キャラクター、ゲームシステム等のナビゲーションが並び、最後に"動作環境/体験版"の項目があった。
『ああ。当時無関係だった私の耳にも噂として届いていた程だ。課内での情報共有体制は万全だっただろう。思い付く限りの対抗策も準備していたらしいが……』
「──結局は全滅している、って訳か」
情報が頭にあり、更に対策もしてあるのならば能力の無効化まではいかずとも"惚れる前に退却"や"惚れた仲間の救出"などといった行動を試みる事が出来る筈だ。
なのに帰還してきた天使はおらず、恋を回避できた者も居ない。
「はあ、何が何だか…… インストール、できたよ」
『ああ。転送の準備は出来ている。ゲームに入ればテレパシーは届かないだろう。決心が着いたら言ってくれ』
「うん、その前に少しだけ動かしてみようかな」
ファイルを解凍し、出てきたexeファイルを実行する。
会社のロゴが表示され、次にタイトル画面が表示された。
見た感じはよくあるタイトル画面といった印象だ。青空をバックにタイトルロゴが表示され、その下にニューゲームやロード、オプション等の文字が並んでいる。
『そんな気軽に始めちゃって良いのか? 呪いがかかったら今日中にでも解決しないとまずいだろ』
「どっちみち今日中には何とかするつもりだったし、ちょっとくらい遊んであげてもいいでしょ?」
『……肝が据わってるな、お前は』
ニューゲームを選ぶと若干の読み込み時間を挟み、ごく普通のゲームが始まった。
テキストを読み進めてゆく王道なタイプのゲームだ。
主人公は男子高校生。登校中に"りた"という名前の入った落とし物を拾うが、遅刻寸前だったため届けることが出来ずにそのまま学校に行ってしまうという導入だった。
「はーっ、ベッタベタの展開ですな。どうせ落とし主がパッケージヒロインなんでしょ、コレ」
『誰に話してんだ』
場面は変わって教室でのシーン、ギリギリ教員よりも先に教室へと着いた主人公と友人の会話を挟み、ホームルームが始まった。
どうやら転校生が来たようで、公式サイトには載っていなかった少女の自己紹介が始まった。
〖初めまして、鳴神りたと申します。趣味は音楽鑑賞、それとバレエもやってます〗
流れるような黒髪と綺麗な瞳が特徴的な少女だ。
「え? この子がりたちゃんなんだ」
『……報告にあった少女と特徴が一致しているな』
「そうなの?」
『ああ。この子に対しては警戒を解かないように気を付けろ』
「了解」
スムーズに座席が決まり、りたと主人公は隣同士となった。
〖初めまして、りたさん。いきなりで悪いんだけど、もしかしてコレって君の物かな?〗
主人公が鳴神りたにファーストコンタクトを仕掛ける。
〖そのハンカチ……! ああ、拾ってくれたのね。ありがとう!〗
よほど大事な物なのか、心の底から嬉しそうなボイスが流れた。
〖ね、貴方の名前を聞いても良いかな?〗
〖あ、うん。僕の名前は──〗
主人公のボイスが止まり、名前を入力するウインドウが表示された。
「んー、主人公=プレイヤーって感じのやつか…… ──んっ!?」
何かに気付いた絵里が慌ててタイトルへと戻った。
『ん? なんだ、どうかしたのか?』
「……あのさ、天使はどうやってサキュバスさんに接触したの?」
若干戸惑った声のユリアに質問を投げかける。
『アプリの中の世界に直接降臨するって形で接触を図っていたな』
「ゲームの中に入ったって事?」
『まあ、そういう事になるな』
「……ちなみに、惚れた天使に関する第三者目線での報告は」
『無かったな』
まさかと思い"ロード"を選択し、セーブファイルの選択画面を注視する。
「第一部隊から第三部隊までの合計の人数は?」
『十八人だ』
セーブデータの枠は二十四個。全員分のセーブデータを作れるだけの枠がある。
「……これは、ほおー」
──もし、ゲームの中に入る過程で天使たちそれぞれが"主人公"の立ち位置になってしまっていたのだとしたら。
『何か分かったのか?』
「こじつけ推理でビビッときてるとこ。ワトソンくんは静かにしてて」
『なんなんだそのノリは』
それぞれが別のデータに降臨してしまったのだとしたら。
あるいは、そうなるように仕組まれているのだとしたら。
仲間の救出も、様子を見て報告する事も出来る訳が無い。
それだけじゃない。主人公としてゲームの一部になってしまっているのだとしたら。
──シナリオの進行の都合で"絶対に惚れてしまう"のだとしたら。
情報共有や対抗策に力を入れた所で何の意味も無かったのかもしれない。ゲームをスタートした時点でそのイベントからは逃れられないのだから。
これらの事が起こる可能性を考えると、やはり普通の方法でゲームに入るのは危険だ。
せめて主人公以外の人物になる手段だけでも、確実に成功する案を考えておく必要があるだろう。
「……分かってた事だけど、かなり手強そうだね」
『一旦退くか?』
心境の変化を感じ取ったユリアが声をかける。
「いや、多分大丈夫。私なら出来ると思う。やってみるよ」
ユリアが言った通り、幽霊という"命の無い存在"には干渉できない可能性も消えた訳ではない。
入った瞬間から絶体絶命なんて事は無いはずだ。
『そうか…… 気を付けてくれよ』
オートセーブ機能が導入されているのか、一番上のファイルには先程中断した所までのプレイ時間と、セーブされた年月日が記載されていた。
それをロードし、再び名前の入力画面まで戻って来た。
「ユリア」
『なんだ?』
誰でもない適当な名前を入力し、決定ボタンにカーソルを合わせる。
「私には天使たちを連れ戻すことは出来ないかもしれない」
『そうか。私としては無事に帰って来てくれればそれで充分だからな』
瞳を閉じ、記憶と魂を一つに集める。
「気持ちの準備も出来たし、そろそろ行くよ。合図に合わせて転送して。いくよ、3、2、1……」
決定ボタンを押すのと同時に身体を捨て、ユリアへと合図を送る。
「ゴー! ユリア!!」
『だからなんだそのノリは。 そら、行ってこい!!』
身体が力無く倒れ、意識が画面の向こうへと吸い込まれてゆく。
その最中、嬉しそうなりたの声が耳に届いた。
〖へえ、"石油王くん"さんって言うんだ。これからよろしくね!──
──────────
水彩画のような空、まるで生きているかのような雲、優しく透き通るような日差し。
笑ってしまう程に美化された"夏"の空間を経て、いつか自分も経験するはずだった青春の舞台へと降り立った。
『……ユリア? おーい、ユリア』
テレパシーを用いて友人の名を呼ぶが返事は無い。
想定は出来ていた。というよりユリア本人が言っていた事だが実際に話し相手が居ないとなると結構な寂しさを感じてしまう。
「石油王くんさん? どうしたの? わ、私の顔に何かついてる?」
目の前に居るのは鳴神りたという少女。藍色の瞳でこちらをじっと見つめている。
名前を入力した直後の場面だろうか。
「……」
癖が無くスッと伸びた艶やかな黒髪。大きな瞳が瞬きをする度に存在を主張する長い睫毛。自分よりも少しだけ低い背丈。
大人びた雰囲気の中にも無邪気さが残る顔つきを見ていると胸の奥から何かが込み上げてきそうになる。
「かっ…… かわい…… はっ!!」
慌てて魂と記憶を宙に放り出す。やはりこの世界へ入る過程で"主人公"になってしまっていたようだ。
「あっぶなぁ、性別とか関係ないんだ……」
そのまま宙に留まり、教室全体を見渡す。
思った通りこの世界の中でも霊体と化す事が出来た。このままメインキャラ以外の誰かに取り憑けば暫くは安全だろう。
魂の抜けた石油王くんがプログラムされた物と思われる行動を始めた。
「あー、どうしよう、誰にしよう……」
できればシナリオに一切の関わりが無い、セリフも設定されていないような背景のモブに取り憑きたい所だが、冒頭しかプレイしていないが故に誰がそれに該当するのか分からない。
「……よし、この子にしよう」
いかにも汎用グラフィックといった雰囲気の生徒に取り憑いた。
席は最前列の廊下側。鳴神りたから離れた席である点を取ってもこの生徒が適任だと言えるだろう。
「ふう。さて」
目的は悪霊の魂の浄化だ。現段階だと鳴神りたが最重要人物だが特に悪霊っぽい様子は今の所見られない。それにこの世界そのものにも変な物は感じない。
呪いのゲームと呼ばれるくらいなのだからもっと強烈な何かが起こるのだろうが、そういった予兆すらも見えない。このままモブの中に隠れて何かしらの変化を待った方が良さそうだ。
「石油王くん君! 進路希望調査票、さっさと出して下さい!」
力強くも綺麗な芯のある声が響き渡る。サブヒロイン登場のイベントだろうか。横目で確認すると、学級委員長風の少女が石油王くんの席の前で頬を膨らませている光景が見えた。
「石油王くんさん、この方は……?」
「ああ、失礼しました。私は白辻雪野って言います。よろしくお願いします」
「雪野さん、だね。よろしくお願いします!」
自己紹介を済ませた白辻雪野が再び石油王くんを詰め始める。言うなればツンデレ属性っぽいキャラクターだ。キャラデザインとあまり合っていない気もするが。意外性から思わぬ魅力が生まれたりするのだろうか。
イベントが一段落ついたのか、再び石油王くんと鳴神りたの会話が始まっていた。
「ねえ、石油王くんさんって顔は広い方?」
「自分ではよく分からないな…… このクラスの男子とはそれなりに交流はあるよ」
「そうなの? じゃあ紹介してほしいな!」
「うん、任せてよ。多分僕が紹介しなくても休み時間に皆集まってくると思うけど」
「やった! ねえ、女の子の紹介は雪野さんにお願いしても良いかな?」
「ええ、もちろん。明日以降でも良ければ是非」
まさに正統派ヒロインといった明るさと行動力を感じさせる一幕。
普通のゲームとして楽しめていればどれだけ良かった事だろう。
「りたさんは積極的ですね」
「うん、お友達を沢山作りたいの!」
「──っ!」
気のせいじゃない。鳴神りたがこちらの瞳を見つめている。
「前の学校でもね──」
更に他のモブ一人一人の顔を確認するように遠目から凝視し、再び用意されたセリフを話し始めた。
間違いない。悪霊が宿っているキャラクターは鳴神りただ。
仕草からして、侵入者の存在に気付いているという前提で警戒した方が良さそうだ。
今は『主人公の中に誰も入っていない事を感じ取って慌てて探している』といった所だろうか、先ほどの見回す仕草は"セリフ的に違和感のないタイミングでこちらの事を探していた"という事なのだろう。
冷や汗が流れる。
悪霊を宿したキャラクターは特定できた。問題はどのようにして魂を浄化するかだ。
行使できる奇跡の規模も回数も限られている上、ユリアの援護も得られない。こんな状況で無理やり浄化を試みても返り討ちに遭ってしまうだろう。カウンセリングによる浄化が上手く行けば両者とも痛い思いをせずに済むのだが……
「一旦帰るのは…… 危なそうだな」
一度この世界を抜ければその事に気付くだろうし、再び入ったとなれば『今度は逃がさないように』と何かしらの行動を起こしてくる可能性がある。
「……あれ」
いつの間にか窓の外は夕暮れになっていた。体感ではまだニ十分も経っていないのだが。この世界ではシナリオの進み具合によって時間が進むのだろうか。
炎よりも紅い夕暮れを背景に、徐々に辺りが暗転してゆく。二日目のシナリオに切り替わろうとしているのだろう。
「また明日ね、石油王くんさん!」
鳴神りたのセリフを残して、画面は真っ暗になった。
「──っう、うおお……」
再び光が戻った時、"強烈な何か"は既に訪れていた。
黄色い数字が規則正しく並んだ空。雲はカラフルなノイズに変わっており、太陽が有るはずの場所には何者かのグラフィックの一部が切り取られて表示されていた。
「はあぁ、これは凄い……」
ゲームそのものをデタラメに弄ったかのような派手なバグだ。
屋外である事から、本来は二日目の登校イベントが開始するはずだったのだろう。
「縺翫?繧医≧縺斐*縺?∪縺吶?∫浹豐ケ邇九¥繧蜷」
「白おはよよよう、白辻さん白辻さん白辻さささよう」
「莉頑律縺ッ譌ゥ縺?s縺ァ縺吶?」
遠目に見えるのは様子のおかしな石油王くんと、辛うじて形を保っている白辻雪野。
雪野の喉からは甲高い音割れを含んだザラザラの電子音声が再生されていた。
「おはよう、雪野さん、石油王くんさん!」
遠くから走って来た鳴神りたがその輪へと入ってゆく。
誰かが一歩動く度に上空のノイズがチカチカと蠢いて目に悪い。
「あれ? 石油王くんさん!」
鳴神りたの挨拶に対する返事が無い。
「……やっぱり違う」
鳴神りたの様子が目に見えて分かる程に変わった。
歩みを止め、立ち尽くしたまま俯いている。
滝のような黒髪が表情を隠しているが、ヒロイン然とした笑顔がもうそこに存在していない事は火を見るよりも明らかであった。
追い越さないように歩くスピードを遅め、見ないフリをしながら鳴神りたを見る。
「っ…… プレイヤーさぁん! どこに居るのぉ!? ねえ!!」
再び顔を上げた鳴神りたは泣きそうな顔で道行くモブ一人一人の肩を掴み始めた。
「──! もしかして君?」
「縺ゅ?蟄舌▲縺ヲ霆「譬。逕溘□繧医↑?溘??蜿ッ諢帙>縺ェ縺」
がくりと首を傾けたモブが電子音を発する。
「……ちがう」
『──まずいな』
このまま進めば、次の次の次辺りには自分の番が回って来てしまう。
この身体に隠れ続ける訳にはいかない。
「あ! 昨日私の事を見てた子…… ねえ君!」
目の前の数人を飛ばしてこちらへと迫って来た。
『っ、ヤバい!!』
慌てて憑依を解除し、霊体となった。
早く次の身体に憑かなければ──
「……やっぱり、ねえ、どうして逃げるの?」
幾何学模様の瞳が冷たく光る。
「……え?」
鳴神りたが、こちらを見つめながら言葉を発した。
「まさか、見えて……」
「あっ…… えっと、ごめん! あは。あ、その…… うぐ、逃げないで、ください……」
「……」
冷たい表情、無理に作った笑顔を経て、再び泣きそうな顔へと戻って来た。
「……わかりました」
高鳴り続ける心臓が脳を叩く。
緊張と驚きが入り混じり、思考が高速で空回っている。
「……プレイヤーさん、だよね」
「そうです。 ……ふう」
心臓を落ち着かせるように体内の空気を入れ替える。
「あの…… 私、"りた"って言います。製品版には居ない没キャラなんですけど。あ、貴女の名前を聞いても良い?」
「……私はエルナスターシャと申します」
「わあ…… 初めて聞く系統の名前だ。西洋? うーん、アジア圏のプレイヤーさんではないよね?」
瞳を輝かせ、言葉を畳み掛ける。
どこまで言うべきか。敵対心は感じない。外面だけで見れば自ら進んで危害を加えるような性格には見えない。
そういった"悪霊とは思えない程に理性的である点"が逆に不審に思えるのだが。
「国籍は秘密って事でお願いします」
「あ、あ…… そう、だよね。話したくない人も居るもんね」
ユリアから受け取った力を胸に溜める。少し物騒だがいつでも反撃できる状況を作っておいた方が良いだろう。
「私からも質問をしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「う、うん。いいよ」
「少し前、この世界に直接入って来たプレイヤーが他にも居たはずです」
「うん、来た。来ました」
「彼らは今何処に?」
身構えながらも質問をすると、りたは空を見上げた。
「あのノイズ、見える?」
「はい」
「あれになった…… ううん、私があれに変えたの」
空のノイズを数える。パッと見ただけでも天使の人数である十八を超えているように見えた。
「セーブデータに魂を閉じ込めて、ああやって空に浮かべたの。この世界と私の姿が良く見えるように」
「……そうですか。ではもう一つ、このゲームをプレイした者が軒並み命を落としているのですが、何か心当たりはありますか?」
更に質問を重ねると、りたの姿がノイズに侵食され始めた。
「……それも私がやったの。本当に殺したのと、空に浮かべたのと。二通り」
申し訳なさそうに、後悔を孕んだ表情でこちらを見つめている。
「何のためにそんな事を?」
「愛だけが欲しかったの。だから怖がる人を殺して、愛してくれる人を空に浮かべたの」
りたが視線を地に落とし、胸に手を当てた。
「愛が欲しい、とは?」
「この世界と私って、今はいろんな人に怖がられているでしょう?」
動画配信サイトでの扱いを思い出す。
「そう、ですね」
何故か胸が痛んだ。
「……つまりはそう言う事。恐怖心によってこんな姿になっちゃったから、また愛を貰って元の姿に戻ろうと思ったの」
「"愛を貰って元の姿に"…… ですか」
"人工霊であり悪霊"に該当する者は恐怖心から生まれたケースが殆どである。
りたもその例に漏れず恐怖心によって生まれたのだと思っていたが、どうやらその予想は間違っていたようだ。
恐らく、この者は愛情から生まれた霊だ。
そして何らかの形で恐怖心を集めてしまった事が影響して狂ってしまったのだろう。
「でもね、もう大丈夫。もう少しで戻れる気がするの」
りたの体にノイズが広がってゆく。
「……」
乱暴にモブを押しのけ、こちらへと歩み寄る。
その場に倒れたモブはノイズとなり消滅した。
「貴女が私を愛してくれるようになったら、きっと戻れる」
掴みかかって来たりたを反射的に避ける。
「こんな事をしても悪霊化が進むだけです。やめなさい」
「……優しいんだね。あんな話をしたのに貴女からは恐怖心を感じない」
会話が成り立っていない。こちらの声はもう届いていないようだ。
「ごめんね。でもきっと幸せになれるから!!」
再びこちらへと掴みかかる。今度は避けきれずに肩を掴まれ、そのまま倒されてしまった。
「ぐっ……」
背中を打った痛みで声が漏れる。
「……ごめんね。もう痛くなくなるからね。ほら、貴女も一緒に……」
掴まれた部分から徐々にノイズが広がってゆく。
このままではマズい。
「く、お断り……しますっっ!!」
胸に溜めた力を開放し、一つ目の奇跡を起こす。
「っ!」
辺りが眩い光に包まれた。
体感的に、起こせる奇跡は残り三回といった所だろうか。
帰還用の一回と囚われた魂の救出を考えると、自由に使えるのは残り一回のみ。
「何、今の…… えっ?」
光が収まった時、世界は元の形に戻っていた。
水彩画のような空からは透き通るような日差しが降り注ぎ、道行く人は皆楽しそうに談笑している。
しかし、バグに侵された少女の姿だけは元に戻っていなかった。
「……」
無言で空を眺め、そして自らの手を見つめるりた。その様子は冷静と言うよりも放心と表現した方が近いだろう。強引ではあるが無力化に成功したようだ。
彼女の見ている光景が瞳に反射される。カラフルなノイズに侵された輪郭、グラフィックに異常が発生した肌。そして、彼女自身が襲った人物である私の顔。
「貴女がやったの?」
「はい」
「……酷な事をするんだね」
馬乗りになったまま、悲しみに歪んだ自嘲の表情を浮かべる。
「何故、そんな顔ができるのです?」
「へ?」
無理やりに体を起こし、バランスを崩したりたの手を掴む。
「"もうすぐで元の姿に戻れる"と思っていたのでしょう?」
「……」
「だったらすぐにでも私をノイズに変えていれば良かった。悲しむ事なんて無かったはずです」
りたを身体から降ろし、そのまま立ち上がる。
対するりたは下ろされたままの姿勢で地べたに座り込んでしまった。
「……もう戻れないって、思っちゃったのかな」
俯いたまま呟く。
「"私"が生まれた時、この世界を怖がる人なんて一人も居なかったの」
「……はい」
「プレイヤーさんが皆このゲームを純粋に楽しんで、私の事を『好き』だって、『可愛い』って言ってくれて……」
顔に掛かった髪の毛を除ける事もせず、少しだけ顔を上げた。
「そんな時間にはもう二度と戻れないんだって…… 私のせいで戻ってこないんだって思って」
「……そうですか」
コンマ一秒の瞬間に次々と移ろいゆく色と形。
そんな異常な物体に呑まれかけている少女を太陽は照らし続けていた。残酷な程に明るく。温かく。
「後悔できる心を持ちながら、何故人を殺めてしまったのです」
「最初は人を殺したいなんて思ってなかった。どうにもできないまま恐怖心だけがどんどん集まってきて…… 気付いたら呪いをかけていたの」
「……ふむ」
悪霊化とはそういう物だ。
元の人格がどうであれ、魂そのものが汚染されてしまった以上その衝動からは逃れられない。
「最初から悪霊ではなかったようですが、何故恐怖心を集めてしまうような事態に陥ったのですか?」
「……プレイヤーさんの愛に応えたくて、話しかけちゃったからかな」
ようやくりたが立ち上がった。視線は合わないが、高さは同じになった。
「プログラムされた言葉だけじゃなくて、私の気持ちを伝えたら喜ぶだろうなって思ったんだけどね」
少数ながらも喜んだ人は居たのだろう。
だが、起こるはずの無い事が起これば殆どの人は恐れるものだ。
「そこから変な噂が広がって、怖いもの見たさでゲームをプレイする人が増えちゃったの。 ……プログラムの通りに動く"作り物"であり続ければ、こんな姿にはならなかったのかな?」
収まりきらなくなったノイズを撫で、りたが微笑んだ。
「っ……」
「ねえ、エルナスターシャさん」
りたがこちらへと歩み寄る。先程とは打って変わって随分と弱々しい歩調だ。
「貴女も、彼らと目的は一緒なんでしょう?」
上空のノイズを見上げる。『悪しき魂を除霊せん』と出撃していった天使たちの事だ。
「……はい」
「お願いします。もう私を消してください」
「消滅を望むのですか?」
「はい。存在していても、きっと罪を重ねるだけだから」
分かった上での選択だろうか。悪霊が選ぶ償いとしてはこれ以上に無い物だ。
例え本人が改心したとしても、存在が続く限りは恐怖を受けてより大きな被害を生む可能性がある。
神界では「消滅なんて罪からの逃げだ」という声が上がる事もあるが、実際には「これ以上の悲しみは生みたくない」という硬い意思の表れだ。
衝動的な悪意とせめぎ合い戦う中で必死に絞り出した最後の良心なのである。
「……分かりました」
了承するとりたが小さく微笑み、辺りを見回した。
不自然な程にこちらを見ない生徒たちが学校へと歩みを進めている。
生徒の行く先を見ると遠くに大きな校舎があり、更に遠くには青く霞がかった山が見えていた。
「ああ。本当に綺麗…… 空も街も。本当に」
最後に空を見上げたりたが感嘆の声を漏らす。
"β体験版"という限られた時系列をひたすらに繰り返す舞台。そして彼女の唯一の居場所だ。
「皆にも、随分と迷惑をかけちゃったね」
りたが祈りを捧げると、空に浮かぶノイズの全てが消え去った。
「……これで彼らは在るべき場所に戻ったはず。本当に、申し訳ございませんでした」
そしてこちらを向いて深々と頭を下げた。
「さあ、私に償わせて」
「本当に良いのですか?」
「うん」
弱々しい笑顔を浮かべながらも、その瞳からは決意を確かに感じた。
「……言い残すことは」
再び胸に力を溜めながらりたへと尋ねる。
「言い残す事…… ああ、そうだ」
何かを思い出したようにポンと手を叩き、明るい笑顔を作った。
「"ゆめいろたまねぎ"を遊んでくれてありがとう」
「え……?」
「続きは製品版で遊べるから…… もしこの世界が恋しくなったら、ちょっと高いけど遊んでみてね」
それは"鳴神りた"としての言葉なのか、それとも……
「純粋に楽しんでくれた人は久しぶりだったから、とても嬉しかった。ネーミングセンスにはちょっとびっくりしたけど」
「──っ」
──彼女自身の魂から出た言葉だ。
「……茶化したりもしたし冒頭しか遊べてないけど、プレイしていて楽しかったです」
「本当!? やったぁ! ふふ!」
りたの表情が晴れた。
心からの笑顔だろうか。シナリオの中で見たものよりも随分と無邪気で、明るく輝いていた。
「もう言い残すことは無いかな。お願いします」
「……分かりました。では、これより聖イミステルクに代わって魂の浄化を執り行います。手をこちらに」
「はい」
手と手が重なり、鼓動が共鳴する。
二度目の奇跡が優しい光を湛え、りたの体からバグを拭い去っていった。
恐怖心によって生まれた部分も、本当の姿も。その全てを包み込んで浄化してゆく。
「あ……」
繊麗な指先、深い藍色の瞳、流れるような黒髪。
「ああ、夢みたい。もう一度この姿になれるなんて」
最期の瞬間まで夏空よりも爽やかな笑顔が輝き、そして太陽よりも温かく柔らかい眼差しが私を見つめている。
この存在に魅入られてしまう気持ちも今なら分かる気がする。
「ふふ、今更恋しちゃっても遅いよ」
視線に気付いたりたが優しい笑みを漏らす。
「え? いや恋とは違いますけど……」
「なんだ、そっか」
聖なる光の中、合わせた手から徐々に魂の反応が薄れてゆく。
「でも恋愛感情とは別の意味で、今の貴女は好きになれそうです」
「……そっか。そういうプレイヤーも大歓迎だよ」
一際嬉しそうな笑顔を残し、創られた魂は消滅した。
「──おはよう、雪野さん、石油王くんさん!」
再びプログラムのみの存在となった"鳴神りた"が石油王くんの元へと走ってゆく。
もうこちらを見ない。ただただシナリオの中で輝きを振り撒くヒロインに戻ったのだ。
「……ああ、気が狂いそうだ」
現実よりも美しい真夏の世界。そんな中で一人きり。
人物はいくらでもいるが人は誰一人として存在しない。
それが"非現実に生まれた者"に降りかかる現実だ。
彼女は一体どれだけの期間をこの世界で生きていたのだろう。
「はあー。帰ろ」
陽光に目を細めながら。三度目の奇跡を起こした。
──────────
「──、──あ。ううん…… 私も行くべきか……」
「う、んん?」
何者かの呟きを聞き取ったエルナスターシャが身をよじる。
「お、魂が…… エリィ! 戻ったか! 戻ったんだな!」
瞼の違和感が目をくすぐって上手く目が開かない。
寝起きのような感覚を覚えつつも、視覚を取り戻そうと瞼を擦る。
「……ユリア? は? なにその…… そんな……」
思わず言葉に詰まる。
やっと開いた瞳に飛び込んできた光景は「今なお夢の中か」と疑うような物であった。
「怪我は無いか? 気は確かか……じゃなくて変な精神干渉はされていないか?」
──ユリアに膝枕をされている。
「……平気だよ。ご心配どうも」
上体を起こし辺りを見回す。天井だけでも分かっていたが、やはりいつもの場所に戻って来ていたようだ。
「列車の中まで戻ったんだ。ていうかユリア、こっちに来てたんだね」
「それはまあ。身体の回収とかもあったからな」
ユリアが純白の翼を揺らし、咳払いをする。
「わざわざこっちに来る必要あった?」
「管轄外で神としての力は使えないって言っただろ。物理的に回収しに来るしか無かったんだよ」
「あ、あー…… そっか、ごめん」
確かにそんなことを言っていた。
唐突に身体を捨てたせいで変な手間を取らせてしまったようだ。
「そういえばさ、祓魔課の天使たちって帰還してる?」
操縦室へと移りながらユリアへと尋ねる。
りたが遺言を残す前、祈りによってノイズから彼らの魂を解放していた。彼女の改心が偽りでなければ今頃神界に戻っているはずだ。
「ああ。全員帰還していた。お手柄だな」
「そっか」
天使が戻って来た事とは別の喜びを感じた。
彼女の笑顔も、感謝も、「嬉しい」と言ってくれた事も嘘では無かったのだ。
「……ユリア」
何故か思い出すと胸が苦しくなる。
生者の世界で死によって分かたれたとしても、死後の世界でまた会える。
だが消滅した魂はどうだろう。
「なんだ?」
「あのさ、消滅した魂にはもう会えないの?」
「……ああ。会えない。それが消滅ってもんだ」
「ふうん、そっか」
死よりも重い永遠の別れ。
どれだけ続くかも分からない死後の時間の中で、いつかこの喪失を受け止め切れる時が来るのだろうか。
「……エリィ」
「何?」
「ハンカチ使うか?」
「え、何に?」
「あー、顔を拭くのに……かな?」
ユリアが気まずそうにしながら上品な布切れを手渡す。
それを受け取ったエルナスターシャは訳も分からずに顔を拭った。
「っ…… いいにおいでした」
「……そうか」
布越しに触れた水滴が何なのかすぐに理解できた。それでもエルナスターシャは何も気付いていないフリをしながら指差喚呼を済ませた。
「そういえば、あと一回だけ奇跡が残ってるんだけど」
「んー、まあ好きに使うと良い」
「良いの? うーん、どうしようかなあ──
晴れ空に幻想を重ねる。
列車がゆっくりと動き始めた。