夕凪の港町
あの日のことは、大人になった今でもよく覚えている。あれは確か、5歳か6歳の頃だった。
日本の夏にしてはやけに涼しかった昼下がり。自分の息子に対して無関心のように見えた母が、珍しく私の手を引き、雨上がりの港町を一緒に歩いてくれた。いつも唇を噛み締め、若い女性とは思えぬ程口数の少なかった母が、この日はたくさん話をしてくれたのだ。
私の父親は酒を飲むと暴言を吐き、時折私や母に手を上げた。馬鹿息子だの出来損ないだの、私や母のことを悪く言い、蔑ろにするくせに、執着心だけはやたらと旺盛で、母が憔悴するのは時間の問題だった。父親は酒に溺れて年々駄目になり、今となってはどこで何をしているかもわからない。そして母は、私と家庭に対する興味を一切失い、終いには私をそこそこ裕福な親戚の家に預けて何処かへ消えた。
「元気に生きるんだよ」
別れ際、母はそう言った。この記憶を、未だに毎年夏が来る度思い出す。
平成最後の夏だった。私は傷だらけのキャリーケースを引き摺り、安いホテルの部屋のドアを開けた。色褪せたカーテンの隙間から橙色の西日が差し込み、その光の中を無数の埃が舞っていた。
ウサギ小屋程度のスペースに、固そうなベッドがひとつ、無理やり押し込まれている。私は軽いキャリーケースをその上に放り投げた。
数ヶ月前、初めて勤めた会社が潰れた。こんな日が来るのではと危惧してはいたが、思ったより早かった。
私は性に合わない営業の仕事をする傍ら、小説投稿サイトで短編小説を執筆していた。いくつかは賞を貰ったり、ラジオで読まれたりすることもあったが、仕事を無くして以来めっきり書けなくなってしまった。時間は腐るほどあるのに、何も書けない。
転職先も未だ見つからず、唯一の取り柄だった小説もろくに書けず……なんとなく社会から弾き出されたような気がして、居ても立ってもいられず、昔母に連れてこられたこの町へのこのこやって来たのだ。唯一覚えていた「夕凪浜」という駅名だけを頼りに。
ベッドに腰を降ろした私はタブレットを取り出して何か書こうとしたが、案の定何も書けやしなかった。時間というのはあればあるほど無駄に消費する。忙しくて、頭に血が上っていて、「あのクソが」と思えるような事が山ほどある時こそ、滑らかに指が動く。
ふと時計に目をやるともう六時近かった。夕食はホテルの一階にある寂れたレストランで取るつもりだったので、私は部屋を出て一人寂しく一階へ降りていった。
ロビーにもレストランにも誰もいない。場違いな狸の信楽焼がレストランの入り口脇に鎮座している。海を一望できる窓から差し込んだ西日が、その間抜け面を朱に染めている。まるで久しぶりの来客に照れているようだ。
「何処からいらしたの?」
「このホテルは何で知ったのかしら?」
「普段何をなさっているの?」
「一人旅ですか?」
「つまらん田舎ですけど、ゆっくりしていってくださいね」
久方ぶりの宿泊客だったのだろうか。厨房のおじさんとおばさんがしつこく話し掛けるので、何を食べたかよく覚えていない。自分の置かれた状況が赤の他人から見れば不幸であることはわかっていた。だから個人的な質問をされるとどうしようもなく気が滅入った。それなのに、ここの人たちはどういうわけか、根掘り葉掘り聞きだそうとするのだ。まるで何かを感じ取ったかのように。
夕食を終えると外に出た。潮の匂いを乗せた心地よい夜風が優しく頬を撫でる。私は散歩がてら近くのコンビニへ向かうことにした。
「山ノ上ホテル」という名の通り、このホテルは町を見下ろす山の頂上にあるため、コンビニへ行くには長い下り坂を下っていかねばならなかった。道中、何匹も蚊を叩き落とした。
腕の蚊に熱中していると、いつの間にか小さな食堂の前まで来ていた。色褪せた青い庇に白い字で「みはま食堂」と書かれている。
「にゃん」
ぼうっと突っ立っていると、突然足元からしわがれた声がして反射的に視線を落とした。どこから出てきたのか、毛の長いヨボヨボの黒猫がまとわりついている。ふと、奇妙な既視感を覚えた。
「くっつくな……!」
私は昔から猫が苦手だった。だが猫という生き物は意地が悪く、嫌がる人間にこそ愛想よくすり寄るのだ。まるで恐がる人間を弄ぶように。
「あら、くまちゃんどしたの~」
店の奥からお婆さんが猫なで声を出しながら出てきた。くまちゃんというのは、この猫の名前らしい。
「ごめんなさいね~。この子たまに噛じるもんだから」
お婆さんはそう言って手慣れた手つきでくまちゃんを抱き抱えた。くまちゃんの琥珀色の視線が突き刺さる。しかしよく見てみれば、歳のせいかその目は霧が掛かったように濁っている。
「もうね、二十歳よ」
お婆さんが赤子をあやす様にくまちゃんの背中をとんとん叩く。それと同時に胸の奥がざわついた。
「あ、あの、コンビニってこっちの道ですか?」
私はやや不自然に切り出した。くまちゃんの熱い視線から無性に逃れたくなったのだ。まるで喉の奥に小骨が引っ掛かったような気分だった。
その晩、あの日の夢を見た。いつにも増して鮮明な夢だった。
母が私の手を引いている。
雨上がりの港町を清々しい風が駆け抜け、その風に揺られたどこかの風鈴が、夏の音を奏でている。
一匹の毛の長い黒猫が、目の前を横切っていく。
「ねえ、どこ行くの?」
私は尋ねた。だが返事はない。
私は母の顔を見ようと顔を上げたが、夕陽が眩しく顔が見えない。自分の手を引いているのが知らない誰かのような気がしてきた時、「ごめんね」という言葉が頭の上に降ってきた。それは確かに母の声だった。
「なにが?」
私はきょとんとして尋ねたが、母は答えない。
仕方なく辺りを見回す。目に写るのは濡れた道路、青い瓦屋根、旋回するトビ、流れる雲、燃えるような夕焼け。聞こえるのは蝉の大合唱、風鈴の音色、鉄橋を走る電車の音、海岸に打ち付ける波の音。
「許しては、くれないよね」
唐突に母は言った。だが一体何を?
私を手放すことを? それとも、自由になることを?
浜辺に波が押し寄せている。静かな波だ。
母はぼんやり立って、灯台のある岬の方を見据えている。
母の鞄が砂の上に落ちた。中でしきりに携帯電話が鳴っているが、気にも留めていない。
波の音が沈む太陽と一緒に地平線の向こうへ遠ざかる。どんどん小さくなって、感覚が遠ざかっていく。
やがて無音と闇がすべてを飲み込み、私は現実に引き戻されてしまった。
目を覚ますと、とうに昼を過ぎていた。昨夜は枕が固すぎた為になかなか寝付けなかったのだ。
流石に寝過ぎかと思ったが、特に予定を立てていたいたわけでもない。私は服を着替え、適当に顔を洗い寝癖を直すと外に出て、昨日の夜と同じ道を通って山を降りた。
国道まで出て来て遠くを見ると、道の先がゆらゆらしていた。スマホで気温を確認してみると、三十五度を超えている。
「殺す気か」
思わず声が漏れる。それとほぼ同じタイミングで腹も鳴った。
みはま食堂は昼を過ぎてもそこそこ人が入っているようだった。紺色の暖簾をくぐり中へ入ると、猫のくまちゃんがすり寄ってくる。暑くはないのだろうか。
「はい、いらっしゃいませ~。ああ、来たのね」
昨日のお婆さんが機敏な動きでテーブルを拭いていた。私のことを覚えていたらしく、奥の二人掛けの席に通された。そこへ何故かくまちゃんもとことこついてくる。当たり前のように向かいの席に飛び乗ると、瞬く間にぷうぷうと寝息をたてはじめた。
私はテーブルの端にあったメニューのページをめくった。天ぷら定食、カキフライ定食、アジフライ定食、日替わり刺身定食、わかめラーメン、はかりめ天丼……
「ん? はかりめ?」
――ねえお母さん、『はかりめ』ってなーに?
――アナゴのこと。真、好きでしょう?
――うん。じゃあこれにする。
その瞬間、ふとあの日の記憶が甦った。昨日の既視感の正体だ。間違いない。私は昔、ここに来ている。
迷わずはかりめ天丼を頼むと、想像以上に巨大なアナゴが乗っかってきた。どう見ても器からはみ出している。一緒に付いてきたアオサ汁ときゅうりの漬物がやけに小さく見えた。箸で丸ごと掴んで端から齧り付くと、驚くほどサクサクしている。程よく油も乗っていて旨い。
黙々と食べていると、斜め前の席に座ってラーメンを啜っている老人二人の会話が耳に入った。
「今年、海で自殺者出たか?」
「まだ聞かねぇ」
食事中にする話ではないだろうと思いつつも、なぜか聞いてしまう。
「去年は二人。八月と十二月。防風林で一人と岬で一人」
「岬は定番だ」
「んだな。だっけん、あんでこんなとこに死にに来っかね?」
「知らねぇ。綺麗な海見っと、死にたくなんのかし」
「言うほど綺麗かぁ? でも、昔よくおらが親父が言ってたよ。海見てっと昔思い出すって」
「じゃ、昔思い出すと死にたくなんのかい」
「どうだかいねぇ」
「せめて元気貰ってそんまんま帰ってくれたらいい。でねぇとまたおらが第一発見者になっちまうよ」
「もう慣れたもんだっぺ」
お爺さんたちはその後も何やら話し続けようとしていたが、不意に一人がラーメンの中に入っていた刻み玉ねぎを誤って器官に入れてむせ返り、自殺者の話は中断されてしまった。
みはま食堂を後に、寂れた駅の前を通って海の方へと向かう。
誰もいない神社の前を通り、そのまま歩き続けると徐々に潮の匂いが強くなり、やがて大きな鉄橋の掛かる川に出た。川は海へと繋がっており、この川伝いに歩けば浜まで行けそうだった。
上空をカモメやトビが風に乗って飛んでゆく。私はスマホを取り出して写真を撮ろうとしたが、どうもうまくいかなかった。諦めようか迷っていると、遠くからカタコトと電車の走る音が近付いてきた。咄嗟にスマホを鉄橋に向かって構えると、四両編成の短い電車がやってきた。
西の空に傾き始めてた太陽と青緑の川、その奥に広がる青い海。そのちょうど真ん中を突っ切るように赤い鉄橋があり、乗客の殆どいない電車が通り抜けて行く。私は何とも言えぬ気持ちで黙ってそれを見ていた。
鉄橋をくぐった先には寂れた船着き場があった。漁船やクルーザーが波に揺られて静かに上下している。
近くの坂道を上ると舗装された道があり、さらにその先には広い砂浜がのっぺりと広がっている。
浜辺近くの小さな公園で、小学生くらいの男の子が野良猫と遊んでいた。彼は裂きイカとビーフジャーキーを猫にあげていた。もちろん人間用だ。
「猫にそれは……」
思わず声が漏れる。男の子ははっとしたようにこちらを振り返り、「あっ」と声を上げた。
「なに、不審者?」
「まあ、ある意味」
「これあげちゃいけないの?」
「塩分がなぁ」
私は言いながらふと目についた黄色い立て看板を見た。手書きで「猫に餌を与えないでください」と書かれている。
「それ以前の問題か」
私はぽつりと呟く。男の子は悪そうな笑みを浮かべていた。
「平気平気。この辺の大人はみんなやってるから」
「え……」
猫たちは次から次へと餌をねだる。時折小さな喧嘩が起きて、強そうな猫が弱そうな猫を容赦なくひっぱたく。顔の大きい雄猫が、まだ産まれて間もない子猫に唸り、目にも止まらぬ速さで猫パンチを繰り出す。しかし子猫には何が起きたのか理解出来ないようだ。
「こら、やめろオッサン!」
男の子が顔の大きい雄猫の首筋をひっ掴む。雄猫はオッサンという名前らしい。くまちゃんといいオッサンといい、もっと他に良い名前はなかったのだろうか。
「ボス猫?」
私は何気なく尋ねた。
「いや、こいつの父親」
男の子はそう言ってひっぱたかれた子猫を指差す。
「普段は滅多に叩かないのに、エサのときになるといつも叩く」
「母猫は?」
「さあ? 気付いた時には居なくなってた。他の子猫と一緒に」
「なるほど。置いて行かれたか」
私は子猫にそっと手を伸ばす。子猫は私が餌をくれるのだと思い、鼻を近づけてくる。
「そいつ噛むよ!」
男の子に言われて慌てて手を引っ込めた。すると彼は嬉しそうにケタケタと笑った。
それからというもの、私はしばらく猫たちを眺めていたが、やがて飽きて公園を出ると砂浜に下りた。いつの間にか海の上には真っ朱な夕陽が乗っていた。飛行機雲が幾重にも重なり、夕空に不思議な模様を作り出している。間違いなかった。母と来たのは、この浜だ。
堪らずスマホで何枚か写真を撮った。一眼レフの足下にも及ばぬ粗末な画質でも十分画になる景色だ。さっきまで吹いていた風もいつの間にかピタリと止み、穏やかな波の音だけが浜に響いている。
「ねぇ、何でこんな所に来たの? 何もないじゃん」
気がつくとさっきの男の子が背後に立っていた。無用心にも着いて来たらしい。
「何もない所なんてないぞ」
「ここ自殺の名所だよ。皆知らずに遊びにくるけど」
「食堂の爺ちゃんも言ってたけど、ここそんなにやばいの?」
「毎年一人は死ぬ」
男の子は当たり前のようにそう答えた。一人、と言っても毎年となればかなりの人間がここで最期を迎えたことになる。
ふと、かつての母の言葉が思い出された。
あの日、母は私を連れてこの浜にやって来たが、一体何のためにやって来たのか。あれは私を親戚の家に捨てる罪悪感からの行動ではなかったのか。もし違うとすれば――
私は少し考えて、答えが出る寸でのところでやめた。
あの日、熱を持った砂浜の上に私は腰を下ろした。
「もう、帰ろっか」
しばらくの間ぼんやりと海を眺めていた母が、唐突にそんなことを口にした。
「うん。お腹減った」
私もぽつりと呟く。
「そうだ、お蕎麦食べに行こっか。来るときにお蕎麦屋さんあったでしょ」
母は私の手を引き、もと来た道を戻り始めた。沈み掛けた夕陽の熱が温かく背中を押していた。
「ごめんね、真」
母は言った。その口元は、たぶん笑っていた。
男の子が帰り、太陽が水平線に呑まれた後も私はまだそこにいた。
だだっ広い砂浜に私だけがぽつんと取り残されている。また風が吹いてきて、遠くの山からヒグラシの声が微かに耳に届いた。
服に砂がつくことなどお構いなしにその場に座ると、太陽の熱がまだ砂の中で生きていた。
あの日、母はなぜこの場所から引き返したのか。一体どんな心の変化があったのか。考えてもいまいちわからなかった。食堂の老人が言っていたように、生きる希望でも貰ったのだろうか。翌日の別れは、その延長だったのだろうか。
太陽のいなくなった空を見上げると、ひとつだけ星が出ていた。油断すると今にもぽろっと海に落下しそうな小さな光だ。思えば、あの日もこんな星が出ていたような気がする。
私はおもむろに立ち上がり、記憶の通りにもと来た道を引き返した。早く引き返さねばならなかった。
何が解決したわけでもなく、何か特別なものを手に入れたわけでもない。だが、その時私の心には何かが増えていた。希望とも焦燥とも言い難い、正体不明の熱のようなものが確かにあった。放っておくとすぐに消えてしまいそうで、急いで持ち帰らねばならなかった。
波の音がゆっくり後ろへ遠ざかる。前にはヒグラシの声が待ち構えている。私はその音を聞きながら、あの日の母もこんな気持ちだったのではないかと思った。