009
紙をめくる音が聞こえて、私の意識は浮上する。
滑らかなシーツの感触。知らない香りの布団。私は、ゆっくりと体を起こす。
知らない部屋だ。ビジネスホテルのような最低限の家具しかない部屋。私の寝ているベッド、無地のカーテンのかけられた窓、ベッドサイドのチェスト、壁際に小さな机と椅子。
「おう、起きたか」
机の前には所長が腰かけていた。短く切り揃えたややくすんだ臙脂色の髪、顔立ちは険しく、左半面を覆う火傷の古傷が痛々しい。どこぞの組の者と言われても納得してしまいそうな強面だが、こちらにかけられた声は、いたわるような優しい響きがある。
「ここは……」
「大森さんの所有する隠れ家の一つだ。怪我人の治療の為、昨夜はここに引き上げた。覚えてるか?」
記憶を辿ってみるが、どうもイマイチ思い出せない。というか。
「え、何でいるんですか所長……撃たれたって聞いたんですけど……」
「かすり傷だ。三日も経ってんだぞ、もう治った」
「いや治らないですよ普通。ていうか治ってないでしょ明らかに。何してるんですかどこにいたんですかめっちゃ心配したんですよ私も遼さんも」
「あー、いつもの調子に戻ったな」
いつもの調子に戻るとは。私は首を傾げたが、所長は苦笑するだけで質問を繰り返す。
「どこまで記憶があるか話してみろ、律華」
「えっ、あー……。ファミレスで三人で話してて、そこを出た時に遼さんと会って、あっこれは怒られるなーと思って逃げて……。そう、そこで遼さんが撃たれた。所長、遼さんは」
「大丈夫だ、大した怪我じゃない。それで? 続けてくれ」
「ええと、それでキリと一緒に逃げたことまでは覚えてます。その後、所長と合流した……?」
「そうだ。じゃあ大森さんと会ったことも忘れてんのか。ま、混乱してたんだろ」
そうだろうか。そうなのかもしれない。緊張で頭が真っ白になるとも言うし。
首を傾げていると、おもむろに所長が拳を固める。
「さて律華、覚悟はいいか」
「ほへ?」
所長が立ったのが見えた。反射的に身を引こうとして、でもまぁ、逃げ切れず。
「てめぇはなんで大人の制止振り切って毎回毎回危険な事件に首突っ込みやがるんだ分かってんのか律華――――ッ!!」
「あいたぁ――――ッ!?!?」
今回二回目、保護者からの鉄拳が降り注ぐのを、私は甘んじて脳天で受け止めた。
「私の頭がイカれたらどうするんですか!? 説教に暴力挟むのは古臭いと思います!」
「うるせぇやっぱり反省してねぇなてめぇは。それ以上痛い目に遭わなくて良かったな」
「……ごめんなさい」
際どかった。あと少し間違っていたら、取り返しのつかない事態になっていたのだということは、分かっている。だから、私は素直にうなだれた。
「俺が撃たれたことを分かったうえで、お前は独断でした。結果として遼と、お前と同行していた青年はそれぞれ撃たれている。その責任をお前は取れるか」
「……」
「お前が、未だお前の兄貴の件を引きずっているのは知っている。だが、俺達がお前を止めるのには理由がある。それをそろそろ理解できるようになれ」
分かっている。それが正しいのだと。
けれど。ただ一つだけ、私の心に残る棘がある。
二年間、ずっと心の中に突き刺さる、小さな棘。
「じゃあ、お兄ちゃんの捜査を打ち切った理由、教えてよ」
顔を上げると、所長が目を逸らすのが分かった。そのまま背を向けて、部屋から出ていこうとする。
「それよりも今は今回の事件のこれからについて話す。体調に問題なければロビーに移動するぞ」
「答えてよ所長。ねぇ、誠路さん。担当刑事だったんでしょ? お兄ちゃんは何処に行ったの? 最後に何してたの? ねぇ」
何度聞いても、この人はすぐに話を逸らす。まるで後ろめたい何かがあるかのように。
「何でお兄ちゃんは死んだって貴方は言うの!?」
「話せることと話せないことがある」
「誠路さんがそういう態度だから! 私は、自力で調べるしかなくなる。貴方が知っていることを教えてくれれば私は満足するの! ねぇ、教えてよ誠路さん!」
「先に行く。後から来い」
「ちょっと待ってよ、ねぇ!!」
私がいくら呼び止めても、所長は振り返りもしない。――ずっと、いつもそう。
扉の閉まる音を聞きながら、私は一人、残された部屋で唇を噛んだ。
分かってる、所長は正しい。私に話せない理由があるから黙っているだけで。だから全部私のわがままなんだ、本当のことを知りたがるのも、その為に勝手な行動を繰り返しているのも、全部。
カチャリ、と、恐る恐る扉の開く音がした。ぼんやりと顔を上げると、部屋を覗き込むキリと目が合う。
「……大丈夫、か?」
「……あはは、大丈夫、大丈夫。それよりキリ、撃たれたって聞いたけどそっちこそ大丈夫なの?」
私の言葉に、一瞬キリは変な顔をした。けれどすぐに軽く笑うと、部屋に入ってくる。
「人狼ってやつの特性らしくて、怪我が治るのが早いらしい。もうピンピンしてるよ」
「……つい数分前にも撃たれたはずなのにピンピンしてた人がいたんだけど、まさか所長も人狼に」
「いやさっき包帯巻き直してもらってるの見たから、そっちは普通に強がりかと」
良かった。流石に知り合いがたった数日で人狼にされましたってなるとかなりショックを受けるところだった。
「それより、さっき大きな声がしてたけど、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。……いつものことだから」
キリに笑い返したつもりだったが、それを見たキリは眉を下げた。
「あれが、今回俺に手を貸してくれた理由か」
「うん。自分で調べれば何か分かるんじゃないかって。でもごめん、私の身勝手で、キリを危険な目に遭わせた」
「別に」と、少しだけキリが視線を泳がせる。
「たしかに言い出したのはそっちかもしれないけど、乗った俺も同罪だろ。律華の行動力は、欠点でもあるけど美点でもあると思う。どんな理由にせよ、俺はあんたの行動力に救われた、励まされた……から。その」
段々と声が小さくなり、ごにょごにょと呟くような口調に変わる。少しだけ覗く耳元が赤い。
自然、私も口元を緩ませた。少しだけ、心が軽くなった。
「ありがと、キリ。……ロビーでみんなが待ってるんだって? そろそろ、行こっか」
「おぅ。ちょっと変な造りの建物だから、案内するよ」
扉をくぐって、廊下に出る。しばらく歩いて、なるほどキリの言った『変な造り』という意味がよく分かった。
私達がいた辺りには、廊下に面する形で等間隔にドアが並んでいた。恐らく私のいたような個室が並んでいるのだろう。廊下の片方はベランダにぶつかる形で折れ、もう片方には玄関らしき扉と靴箱が置いてあった。私達はベランダの方へと向かい、廊下を曲がる。するとまっすぐに伸びた廊下に、等間隔でベランダが並んでいるのだ。更に、そのベランダの向かいに廊下が伸びて、その先にはやはり玄関がある。
「何でここ、こんなにベランダと玄関があるの?」
私の素朴な疑問に、キリが笑う。
「俺もさっき聞いたんだけど、単身用のアパートを丸ごと改装して、中の壁ぶち抜いてあるらしい。外から見ると五、六室ある普通のアパートにしか見えないのに、中は三階建ての全室、外を通らなくても移動できるようになってるんだとさ」
「なにそれ、変なの」
笑っているうちに突き当りの広い部屋に辿り着き、笑いながら二人でその部屋に入る。部屋には数人人影があり、こちらを見て苦笑した。
「なんだー、楽しそうじゃん若人達。先輩が喧嘩して逃げてきたって聞いたから怒ってると思ったのに」
「うるせぇぞ遼」
「まぁ箸が転がるだけで面白い年頃って言うしぃ? 楽しそうなのは良いことだとボクは思うよ」
備え付けのソファに座る所長と遼さん、向かいにニケさんと、眼鏡をかけた二十代後半ほどの男性。
彼はこちらに視線を向けると、軽く笑って会釈をする。
「どうも、お嬢さん。一度お会いしましたが、記憶にないそうで」
「ごめんなさい、偶に記憶が飛んじゃうんです。佐々木律華と言います、どうぞよろしくお願いします」
どうもご丁寧に、と男は少しだけ目を細める。
「大森信一と申します。お会いできて光栄です、と言いたいところですが、私の場合は会う機会がないぐらいの方が良かったでしょうね」
どこか含みのある言い方で、大森さんは自嘲する。周りの大人達も苦笑いだ。
「ええと……?」
「まぁつまり、私もこういう者でして」
一瞬大森さんの髪が揺れた、と思った次の瞬間には、輪郭が変形し、鼻先が伸び、三角の耳が覗く。人の体に、狼の顔。一瞬大きく肩を揺らしてしまったものの、一拍置いて理解する。
「大森さんも、人狼、なんですね」
「ええ。といっても、霧島君の事件とは無関係ですが。人狼自体は昔から、ひっそりと存在しているんですよ。私はそういった隠れて暮らす人狼達の相互扶助を目的としている組織の代表のようなことをさせて頂いています。そういった存在ですので、まぁ、縁の無いぐらいの方が平和でよろしい」
「関わってしまった以上は仕方ねぇし、むしろ心強い協力者だと思うがな」
「協力する気はなかったんですけどねぇ。拳銃持った男達相手に大立ち回りしてるのを見かけたらさすがに放ってはおけなかったというか……。貴方、お嬢さんの説教する前に我が身を顧みた方が良いかと」
「耳に痛いな」
そう言いつつも、所長に反省の色はない。大森さんは軽く肩をすくめ、それから人狼について軽く話をしてくれた。
人狼――それは人と狼二つの姿を持つ、伝説上の存在とされていた怪物。満月の夜に変身するとされているが、大森さん達は基本新月の夜以外であれば変身出来るらしい。
また、唾液に人狼ウィルスとも呼べるような成分が含まれており、それが傷口から入ることで普通の人間が人狼に感染する場合もある。感染した人間は人狼となるが、最初はその能力を使いこなせず、半人半獣の怪物の姿をさらす。肉体の変化には苦痛が伴い、下手すると正気を失う。故に人狼は恐ろしい怪物とされ、昔から忌避されてきた。
感染して人狼となった者もいれば、生まれた時から人狼であった者もいる。そういった人狼達は、人間の姿でひっそりと隠れ暮らしてきた。大森さんがリーダーを務める組織『銀の月』も、そう言った人狼達を保護する為の組織なのだという。しかし、今回それらの人狼の一人を捕獲し、人狼ウィルスを分析した人間が現れた。
「人狼から人に戻ろうと研究をした者はあれど、その逆の例は珍しい話です。ですが、だからといって放っておくわけにもいきません。人狼は不治の病のようなもの。これ以上の犠牲者を増やすわけにはいかない、その為に被害者の子供達を救出する、というのが私達の今回の目的です。今は別室に控えていますが、今のところ十名程度の人狼が集まっています」
ここまで言うと、大森さんは一度言葉を切る。遼さんが「質問なんですけど」と軽く手を挙げた。
「ここ数日巷を騒がせていた、ハイビレッジの社員ばかりを狙っていた大型動物の被害。貴方達の仕業ですね」
「そうです。敵に容赦できるほどの余裕はありませんので。人狼を侮辱した罪は命であがなって頂く。社員の方にも、そしてその主導者にも」
その時の大森さんの瞳は割れた氷のように鋭く、冷え冷えとしていた。一見優しそうに見えても、一度敵になれば殺すのすら躊躇わないような人達なのだ。
「いんがおーほー。諸手を挙げて賛成とは言えないけどさ、他人の人生弄んで商売始めた時点で碌な死に方できないことぐらい覚悟の上だと思うよ。そんなことより、この後どうするの? 正直あんまり時間はないよ」
ニケが肩をすくめた後、真剣な顔で言う。
「元々は今晩、ハイビレッジのビルを襲撃する予定でした。が、あのビルでは人狼は非常に不利でして」
「不利?」
「人狼対策でしょう、銀イオン水をミストの形で散布する機械がビル中にありまして」
「銀イオン? って、除菌効果があるアレ? それを受けるとダメなの?」
「少なくとも私達にとっては、恐ろしい刺激臭を放ち倦怠感を引き起こす、毒薬のようなものですね。人狼にとって銀は唯一の弱点のようなものですから」
なるほど。ならきっと、今回私や所長達を大森さんが助けてくれたのは、その人狼対策と関係があるのだろう。
「なるほどね。それなら狙うはビルより船だ。社長の大村はたび重なる社員の不審死でかなり追い詰められている。数日前に所有している貨物船をこちらに一隻呼び戻しててね、そろそろ逃げ出すんじゃないかって話が出てたぐらいだ」
「それは初耳です。もう少し詳しく調べられますか?」
「いいよ。全力で調べてみせる」
ニケがスマホを弄り始めたのを尻目に、大森さんは私達の方に向き直る。
「先程述べたような理由から、私達には人狼ではない突撃要員の人手が欲しい。東さん、畔柳さん、ご協力願えますか」
「あぁ、俺達は構わない。ただ……」
ちらり、と所長が私を見る。所長が口を開く前に、私は強引に割り込んだ。
「私も協力させてください」
「おい」
「ここまで来て、今更一人抜けるなんて嫌です。迷惑はかけませんから」
「それならぜひ、協力を頼みたい。良いですか、東さん」
「……仕方ねぇな」
大森さんの援護射撃のおかげで、所長も渋々頷く。
「それでは、新たに動きがあり次第お呼びしますので、それまでは各自休息をとっていてください。建物の中は自由に動き回ってくだっさってかまいませんので」
大森さんのその一言で、解散の流れとなった。大森さんは他の人狼を呼んでくる、と一度席を立ち、ニケはパソコンを借りるため別室へ。探偵二人は打ち合わせの為か、まだこの部屋に残るつもりのようだった。
私は、未だ頭がぼんやりするため、先程ねていた部屋を借りてもう一度寝ることにした。布団にもぐり、自分のスマホでアラームをかけようとして、画面に並ぶ着信履歴に目を剥く。
「あっ、あー……そっか、ほーちゃん達帰ってきてるんだった……」
ずらりと並ぶ三十件近い着信は、どれも私の兄姉、律樹と律穂からだった。
遼さんから逃げ回っていた辺りで電源を落として以降ずっと放置していたので、さぞかし心配をかけたことだろう。慌てて折り返し電話をかけると、数回コール音の後、電話が繋がる。
「もしも……」
『律華のバカぁ! どこにいるの? 無事? 大丈夫なの? なんで電話繋がらなかったの? 律華にまで何かあったら、私、私……ッ』
「えっちょっ、ご、ごめんて……」
これはやばい、ガチ泣きだ。そのまま言葉にならない嗚咽を漏らす律穂の声がいったん遠ざかり、誰かが電話を持ち変える音がする。
『あー、律華? 今電話大丈夫なのか?』
「うん、大丈夫。ごめんね、連絡入れ損ねちゃってて」
『何してんのか知らないけど、一晩家を空けるレベルならまず一本連絡入れること。ほーちゃん宥める俺の苦労も考えろよ』
「ごめんね、あ、でも今晩も帰れないかな。事務所の方の用事で今出かけてて、明日には帰れると思う」
『おー、泊まりの依頼? バイト代弾みそうじゃん』
電話越しに「違うでしょそうじゃないでしょ」と叫ぶ律穂の声が聞こえた気がしたが、とりあえず聞かなかったことにする。
『まぁほら、お互い高校生だからあんま口出しはしないけどさ。帰ったら詳しい話聞かせろよな。俺の着替えが一組減ってることとか』
「あー……おっけーおっけー。あの、不純な話じゃないんで」
『分かってる分かってる。じゃ、また明日な』
電話を切って、ベッドの上に転がる。眠気はすぐにやってきて、私は早々に、意識を手放した。