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水守町怪奇事件簿  作者: 猫柳
Case.1 鳴声遠く
8/28

008

March18, 7p.m.


私の手を引いていた背中が、ゆっくりと地面に吸い込まれていく。

つんのめって、私も転んだ。肩をしたたかに打ち付けて、一瞬息が詰まる。

プンと血の匂いがした。キリは動かない。慌てて助け起こそうとしたキリの背は、ぬるりとした感触がした。

「キリ」

遠くで人の怒鳴り声が聞こえる。力の抜けたキリの体が重い。

「ねぇキリ」

立って。逃げなきゃ。まだここは危険だ。逃がさなきゃ。死んでしまう。私も彼も。

(やはり、あの靄の向こうまで逃げるべきだった)

今からでも逃げる。逃げる為には走らなきゃ。キリを連れて。でもどうやって。

「――――ろ」

辺りの音すらまともに聞こえないのに、その囁くような声だけは、不思議と私の耳に届く。

「逃げてくれ、りつか……」

 分かってる。逃げるよ。一緒に。

 キリの腕を肩に回し、キリの体を担ぎ上げる。足元がふらつけど、動くことさえできれば逃げられる。

足音がする。私はキリを連れて歩く。数歩歩くごとに濡れた手が滑り、キリの体を落としそうになる。

「おやめなさい」

歩く。逃げる。

(大丈夫、まだ靄は出ている)

再び足がもつれた。キリの体もろともアスファルトの上に崩れ落ちる。

呻きながらなんとか体を起こすと、目の前には脚があった。細身のパンツを履いた脚、質の良さそうな革靴。ベージュのジャケットは紅い華で半分塗り潰されていて、袖口、指先から血が滴っている。

知らない男性だった。銀縁のメガネをかけていて、その奥の表情は窺い知れない。

「その少年を置いていきなさい。そうすれば、貴方のことは見なかったことにします」

「……それは、できない」

 私はキリに協力している。故にキリがいなければ意味がない。

 優先すべきは彼の救出である。

 

 私の生死は『私』の優先事項に含まれていない。


立ち上がる。キリと男の間で手を広げると、男の声に少しだけ苛立ちが混じった。

「退いてください。貴方には用がない」

「どかしたいなら撃てばいい」

 真正面から男の顔を見上げる。少しだけ、男がたじろいた。

「彼は逃がす。けれど彼は歩けない。だから私は助けを待つ。貴方達は多く銃を撃った、やがて誰かが来る。それまで私は彼を守る」

「……なるほど、勇気があるのか、それとも極度の緊張でまともな思考回路が飛んだか。けれど確かに、あまり時間もなさそうだ」

 男、一歩踏み出す。時間を稼ぐためには。こちらの攻撃手段はない。致命傷を避け。攻撃を受け続ける。

 腰を落とし、動く準備をする。銃は構えられていない。銃を出すタイミングで動く。音が立てば、人が来る。

 たとえ死んでも。

 私の耳に、足音が届いた。右頭上、金属の階段を駆け下りる音。ダン、と一際強く床を蹴る音、――そしてすぐ傍で、重い着地音。

 腕を引かれた。小さな舌打ちの音。視界に割り込む背中。大人。新たな男。

 この人は知っている。

「そこまでにしてくれ大森さん。こいつぁうちの所員だ」

 少し掠れた低い声。語尾は弾み、息は切れている。

「最後にあんたが倒したやつ以外もう敵はいねぇが、じきに野次馬が来るぞ。靄が出てるうちに移動した方がいい。他の奴らもさっさと引き上げたってのに、あんたは何ちんたらしてんだ」

「嫌だったんですよ、余計な一般人を巻き込むのが。まぁ仕方ない、貴方に免じて連れて行きますか」

眼鏡の男が私達を避けてキリの方へと歩いていく。動こうとした私、腕を掴まれたまま道の端へ移動させられて。

腕をつかんだ男がようやく振り返る。短い赤茶の髪、左半面を覆う火傷の痕が、月明かりの中うっすらと、見える。

「……所長」

「いろいろ説教してぇことはあるが、今は良く逃げ切った、律華。もう大丈夫だ」

 逃げ切った。もう、大丈夫。男の言葉を繰り返して口にする。

 じゃあ、十分だ。


 そこで私は、目を閉じた。






March19, 7a.m.


 子供っぽいねと、よく他人に言われる。

 他の兄姉に比べてわがままで、末っ子気質だと。実際、私もそう思う。

 人は皆、我慢をする。感情を閉じ込めることが、他人の為だという顔をする。それはきっと八割の場合は正しい。多数の意見に従い、秩序を保ち、そして世界は回っていく。

 けれど時には、誰かが反対を押し切ってでも、動かなければならない時があると私は思う。

 最初から、私が動かなければ良かっただろうか。

 もっと他の大人に相談していればよかっただろうか。

 自分の分をわきまえて行動すべきだっただろうか。

 それでも、あとから「あの時動いていればよかった」と思うことだけは、したくないのだ。


『お悔やみ申し上げます』


あの時。二年前、兄の消えた日。

 あの日も、雨の日だった。音を吸い込むようなじっとりとした雨の中、長い赤毛の外人は、傘もささずに立っていた。そして、流暢な日本語で、ただ一言そう告げた。

 呼び止めて、その意味を問えば。その後すぐにその男の足取りを追いかければ。或いは、自分の力で兄の身に何があったのかを調べれば。

 たとえ死体でも、再び兄に会うことが出来たのだろうか。

 後悔している。あの日からずっと。


 しかしだからといって、私の行いは、正しいのだろうか。


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