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水守町怪奇事件簿  作者: 猫柳
Case.1 鳴声遠く
6/28

006

March18, 9a,m,

結局、同じことばかり延々と考えていたせいだろう。次の朝の目覚めは、あまり良いものではなかった。

「眠そうだねぇ、大丈夫?」

「大丈夫だ、多分」

 律華は俺の返事にふぅん、と相槌を打ち、別の部屋から適当な着替えを取ってくる。

「とりあえず、この服なら多分目立たないはず。朝一で電話したら、午後なら見学させてくれるって」

「ありがと。本当に行動早いな」

「ちょっと寄りたいところもあるもんでね。準備ができたら出かけよう」

申し訳程度の荷物のほうり込まれたザックを俺に放り投げ、自らは腰にウエストポーチを巻き、律華は不敵に笑う。

「寄りたい先ってのは?」

「私のバイト先。一応合鍵は持ってるんだ」

ひらりと玄関を飛び出していった律華の後を追い、俺も玄関を出る。

彼女の言っていたバイト先は、そこから歩いて十五分ほどの場所だった。お世辞にもあまりきれいとは言えない雑居ビルの一室に、『東探偵事務所』という看板が掲げられている。

躊躇いなく事務所の鍵を開けた律華は、応接スペースを抜け、やや奥まった場所にあったソファーに近づくと、おもむろにその下を覗き込む。

狭い隙間に手を突っ込んだ、と思った次のタイミングには、彼女は小さなポーチを手にしていた。

「おっけー、回収完了。じゃあ次に行こう」

「……それ、何だ?」

「ボイスレコーダー」

おいおい。

ポーチから取り出したイヤホンを繋ぎ、軽く操作をしながら律華は事務所を出る。本当にこれを回収するためだけにここに来たらしい。

「一応聞くけど、忘れ物、じゃないよな」

「うん。いや実はさ、先輩探偵もうちの所長探してるんだけど、基本あの人はこっちから情報抜くだけ抜いてあちらの手に入れた情報は流してくれないもんでさ。本当は盗聴器がいいんだけど、盗聴器だと送受信の電波で発見されるんだよね。だからボイスレコーダー」

「そーいうのは、かなり良くないんじゃ……」

「まぁ一般の依頼人のプライバシーとかだったら問題だと思うけど、身内の危機に関する情報抜くだけだし大丈夫大丈夫。……多分」

「多分!?」

ここらへんで、俺は悟り始める。

こいつは、普通の女子高生からかなりかけ離れた思考と行動力を持つ、とんでもなくヤバイ奴だということを。

 階段を下っていると、不意にスマホの着信音が響き渡る。慌ててポーチを開き、スマホを取り出した律華がチッと舌打ちをした。そしてそのまま、スマホの電源を落とす。

「やっばー。後丸一日は放置されると思ってたんだけどな。これは何か進展があったか」

「え、何?」

「とりあえず移動! ここでのんびりしてると多分面倒な先輩に見つかる!」

いっそ見つかった方がいいんじゃねぇかな。そんな気にすらなってきた俺の手を、律華が掴んで走り出す。

「とりあえず買い物行こう!それからファミレスで時間潰して会社見学に突撃。今更引かせないからね!」

「お、おー……」

ズルズルと引きずられるようにして、俺は近くのホームセンターに連行される。来るや否やほい、と手渡されたのは買い物メモ。

「ごめん、そろそろ止めさせてほしい。何する気だこれ」

「とりあえず手袋は指紋付けない為にも必須でしょ? あとは万能アイテムガムテープと、頑丈なロープとかがあれば最悪屋上から下るって手も取れるじゃん? あとは懐中電灯と電池と、制汗剤とライターを組み合わせれば火炎放射できるって聞いた気が」

「段々ふざけ始めてるだろお前!」

「試してみたくない?」

「またいつか、もっと安全な場所でな!」

結局、律華が次々と籠に放り込んだ危険物の数々を棚に戻し、小一時間ほどでホームセンターを出る。金がいくらあっても足りないぞこれは。

昼前のファミレスはそこそこに混んでいた。待ち時間を利用し、律華は仕掛けていたというボイスレコーダーの音声を聞き流す。

「何か情報ありそうか?」

「うーん、遼さんのいびきしか録音されてない。役に立たないなぁ……。……あ、待った」

丁度席が空いたようで、店員が俺達を呼びに来る。しかし律華が集中し始めてしまったので、少し迷ってから彼女の手を引いて席まで連れて行った。

律華は無言で、音声の内容に耳を傾けている。

偵察まではまだかなり時間がある。のんびりと待ち続けること数分、律華が顔を上げた。

「ちょっとやばいわ」

「やばいか。とりあえず注文どうする」

「ドリアとドリンクバーで」

店員を呼んで、ドリアとドリンクバーを二人分頼む。その間、律華は取り出した資料に何やらペンを走らせていた。店員が去ったのを確認して、改めて律華に向き直る。

「それでどうしたって?」

「所長の血痕が付着したコートが見つかったって。銃痕があったらしい」

「じゅ……ッ!?」

それはちょっとどころではないだろう。現代日本で、そんな簡単に銃火器が使われてたまるか。

「これは下手に動けないねぇ」

怖気づいた俺に対し、律華の顔色は変わらない。真剣な顔こそしているが、その口調はどこか他人事じみている。

「この後どうするんだ。……引き上げるか?」

「へ? なんで?」

「なんでって、下手に動けないって言ったのはあんただろ。あんたの先輩探偵って人にも相談して、様子を見た方がいいんじゃないか」

俺の提案に、律華は胡乱な目を向ける。

「やーだよ。考えてみてよ、良識ある大人に、自分は二年近く誘拐されてて今からその組織に復讐しに行きたいんですって言ったら、普通どういう対応される?」

 そりゃまぁ、即座に保護されて下手に行動しないように安全な場所へ隔離されるだろうけれども。

「見つかったら止められるのは確実。それに加えて所長が怪我した以上、できるだけ早く助けに行かなきゃ」

「でも相手は拳銃使うんだぞ」

「人目のある場所で撃つほど非常識じゃないでしょ。襲ってくるなら夜、或いは人気のない場所。消音器なんて大層なものを持っているなら別だけど、普通銃声がしたら騒ぎになるし」

 一理ある。しかし、その夜を乗り切るのが難しいのではないだろうか。

 おもむろに俺の顔を覗き込み、律華は挑発的に笑う。

「怖くなった?」

「……そういうわけじゃない」

 いつの間にか、すっかり彼女のペースに乗せられている。俺は彼女に見られないように、そっとため息をついた。


◇◆◇◆◇


ハイビレッジ株式会社の本社は、町からやや外れた場所にあった。儲かっているのか、割と新しい建物は広々としていて、非常に印象の良い建物だ。

「社長の高村はどこだい? 先日の件について話があるって取り次いで」

「申し訳ありませんが、社長の許可を頂いている方以外は社内にお通しできないことになっておりまして」

「だから、何度も連絡はしてるって言ってるだろ?いいから社長に取り次いでくれよ。ボクは気が短いんだ」

 ……閑静なロビーに響き渡る、甲高い声さえなければ。

「そう仰られましても、社長は非常に多忙でして」

「いい加減にして欲しいなぁ。キミ達はずっとその調子でらちが明かない。詳しいことを説明してほしいって言ってるんだよボクは。分かる?」

「はぁ……」

周囲の迷惑そうな視線を一身に受けてなお、カウンターの前にいる少女は全く怯む気配がない。むしろ受付嬢をねめつけ、酷く不機嫌そうな顔でまくしたてる。

「……どーするあれ」

入口の物陰に隠れながら、俺は律華に軽く耳打ちする。

「邪魔だけど、割って入って話しかけたら絡まれるよねぇ」

「とはいえ、いつまでもここにいると俺達も不審がられるだろ」

「じゃあキリ、貴方あのヒステリックそうな子何とか処理できる?」

「正直関わりたくもない」

「同感」

じゃあどうするか。むろん、あの少女の心が折れて撤退するのを待つしかない。

幸いなことに、数分待っていると、少女はどうも状況が好転しないことを察したらしい。

「キミ達の誠意は良く分かったよ。そちらがそうなら、こちらもそれなりの対応を取らせてもらう」

 そう吐き捨てると、少女は受付の前を離れる。これでようやく受付に話しかけに行くことが出来そうだ。

 かがめていた背中を伸ばし、歩き出そうとしたところで、襟首をつかまれ全体重をかけて引き戻される。カエルの潰れるような声が喉から漏れるのを感じた。

 さらに踏ん張りも聞かず、二人揃って物陰に転がる。

「痛ってぇ……! 何だよ!」

「ごめん! でも見つかりたくない人が来た!」

「はぁ?」

律華が顔を引き攣らせ、物陰から受付を覗く。いつの間にか、新たな客が受付嬢に話しかけていた。

若い男性だ。ジャケットにシャツ、細身のパンツの落ち着きのある服装こそしているが、声色豊かに女性に語り掛ける口調は、どこか軽薄さも感じる。ホストが身なりだけは真面目に整えました、と言った印象。

「誰だ?」

「うちの先輩探偵」

「えっ探偵? あれが?」

 だっていつの間にか受付嬢口説き始めてるぞあの人。すげぇうんざりされてるぞ。大丈夫なのかそれで。

「そーいう人なんだよ遼さんは。そんなことより、見つからないようにしないと」

「なんで? 見つかると何かキミ達に良くないことでもあるの?」

「そりゃなんでって、見つかったら連れ戻され……」

おい、今質問したの俺じゃないぞ。

答えている途中で、しまった、という顔で律華も振り返る。

「へぇ、連れ戻されるようなイタズラしてるんだ? キミ達」

いつの間にか。俺達の背後には、先程の少女が立っていた。

肩口で切りそろえられた黒髪に、くりっとした大きな金の瞳。やや彫りが深く、肌も透き通るように白い。もしかしたら西洋の血を引いているのかもしれない。

薔薇色の唇が、いたずらげに吊り上がる。

「ねぇねぇキミ達、こんなところで何してるのぉ~? ボク気になるなぁ~」

あからさまに大きな声で、少女は俺達に話しかける。続いて律華の容赦ない舌打ち。

「キリ、撤退!」

「ん、ん!?」

「あれれぇ? 帰っちゃうの? 何か用事があったんじゃないのぉ~?」

俺の腕をつかみ、律華が一目散に走り出す。僅かに振り返った俺は、受付の前にいた男と目が合う。

一瞬驚いたように目を見開いた男は、律華の方に視線を向けるとサッと怒りをあらわにする。

「――んの、律華ァ!」

「ごっめーん! じゃあね遼さん!」

駆け出した律華は、恐ろしく速かった。いくつかの角を曲がり、横断歩道を駆け抜けて、人の多い街中へと向かう。

十分は走っただろうか。気が付くと、先程昼食をとったファミレスの前にいた。律華は躊躇うことなく、店内に入っていく。必死に走ったおかげで、男の姿はもう見えない。

「いらっしゃいませ、お客様何名様でしょうか」

「二――」

「三名で~す」

余計な奴は振り切れなかったようだが。

鋭い舌打ちと共に、律華が振り返って後ろの少女をねめつける。

「なんでいるの」

「面白そうだったからかニャ~」

語尾が痛々しい。どこの地下アイドルだ。

「まぁまぁ、ここで会ったのも何かの縁、ちょっと話聞かせてよ。今機嫌悪くてさ、おもちゃ……もとい気分転換がしたかったんだよね。あ、その代わり食事代はボクが払うからさ」

「はぁ? そもそも、貴方が来なけりゃ……」

 怒鳴ろうとして、しかし途中で理性が勝ったのか、律華は口を噤む。それでも不機嫌そうな表情を崩さないまま、彼女はさっさと店の奥へと入って行ってしまった。

「ははぁ、さてはキミ、あの子に振り回されてる感じなのかな?素直であることはチャームポイントになることもあるけれど、あんまり感情的なのはいただけないなぁ」

「あんた、本当に肝が据わってんな。こんだけ敵意向けられてんのに」

「子供の癇癪なんて可愛いもんだよ。それよりも、キミはボクを追い払わないんだねぇ」

「ん、まぁ聞きたいこともあるんで」

へぇ、と少女は楽しそうに笑う。

「まぁいいや、席に行こうよ。ボク、ここの料理大好きなんだ」

「……あぁ」

楽しそうに奥へと入っていく少女の背中を、俺は疲れた体を引きずって追いかけた。

 席に着き、申し訳程度の料理を頼んだ後、少女は改めて口を開く。

「さて、そろそろ自己紹介をしておこうか。ボクはニケ、ニケ・バルシュミーデ。名前の通りドイツ人さ。君達は?」

「俺は、あー……キリ。キリって呼んでくれ。それでこっちが」

「律華」

律華はそっぽを向いたまま、名前だけ答える。

「ふーん、キリ君に律華ちゃんか。で?キミ達はあの会社に何の用だったの?」

「……か、会社見学?」

 我ながら下手な嘘だ。

「うわぁ、胡散臭い。まぁいいや、そういうことにしておいてあげよう」

「そういう貴方こそ、あの会社に何の用だったわけ?」

ケラケラと笑うニケに、律華が刺々しい口調で問いかける。

「さっきから随分嫌われたもんだなぁ。ボクは仕事だよ。これでも、一応成人しているんだ」

そう言って、少女(?)は無い胸を張る。残念だが、どう見ても成人女性の振る舞いとは思えない。

 律華も同じことを考えているのだろう。眉間の皺が深くなる。

「さっきめちゃくちゃクレーム入れてたのが、あー、仕事ですか?」

彼女に聞きたかったことは、実は彼女が入れていたクレームに関することだった。あの会社の関係者に、直接会社の評判を聞きたかった。

俺の質問に、そーだよぉ、とニケは間延びした声で言う。

「ボクはね、Twilight Axって名前の珍獣屋をやってるんだ。ハイビレッジさんとは取引相手なんだけど、先日商品が一つ届かなくてさぁ」

呼吸が止まった。

今、俺はちゃんと愛想笑いを保てているだろうか。全身の筋肉が強張り、冷たいものが這い上がってくるのを感じる。

「珍獣屋って、えっと、何の店なの?」

律華の声は、少しだけぎこちない。 それでも、俺の代わりに応対をしてくれるだけでかなりありがたい。

「珍獣屋ってのはいわゆる変わった動物のペットショップかな。ボクが扱っているのは猛禽類とか爬虫類とか、血統書付きの大型犬とかも扱っているかな。その分値段も張るし、世話も楽じゃない。だから一般家庭よりも富裕層を相手にすることの方が多い商売だよ」

「その、届かなかった商品っていうのは?」

律華の質問にニケは不機嫌そうに顔をしかめ、頬杖をついてそれがさぁ、と愚痴る。

「ハイビレッジさんは、世界中から動物を仕入れてきてボクの店みたいな小売店に卸す会社なんだ。でもぶっちゃけ大した商品を扱ってなくてね、ボク自身も名前ぐらいしか知らなかった。でも半月ぐらい前かな、変わった商品を売り出したっていうんで業界でもちょっと話題になったんだ」

 寒気がする。きつく結んだ唇が凍るように冷たい。けれど、握りしめた両手はびっしょりと汗に濡れていた。

「狼犬って知ってる?所謂、狼と犬の交配種のことを言うんだ。狼を買いたいって思っても、基本的に狼は輸出入が禁じられている。それに対して狼犬はペットとして買うことが出来るから、そこそこ取引がある。とはいえ、結構犬の血が濃く出るから、実際の狼とは別物だ。ところがどっこい、ハイビレッジさんは超大型の、非常に狼の血が強く出た個体を売り出し始めたんだよね。――商品名は、『人(were)狼(wolf)』」

あぁ、本当に、奴らは。俺達を売りさばいていたのだ。

「特徴としては、外見はほぼ狼。サイズに関しては狼種の中でも群を抜いて大きくて、百センチから百五十センチ程度。正直何の血を混ぜたのか気になるレベルだから、とりあえず一匹発注したんだ。……ちょっと、キリ君、顔色悪いけど大丈夫?」

「……大丈夫、大丈夫。続けてくれ」

テーブルの下で、律華が俺の手を握ってくれる。その温かさが有難い。

「ええと。それでまぁ、発注して二日前に本来なら届くはずだったんだけど。先日トラックの横転事故の話がニュースに出ただろ? ちょうどあのトラックに積荷が載ってたんだ。商品が届かないのはまぁいいよ、事故だからね。でもその後何の連絡もない、積荷がどうなったのかも不明、こちらから連絡を入れても暖簾に腕押し。こいつぁ話にならないと思って、今日本社に乗り込んだってわけさ」

席の背もたれに身を預け、静かに深呼吸を繰り返す。

いつの間にかニケが話を終え、俺の顔を覗き込んでいた。

「酷い顔だ。ボクの話が何か、キミの癇に障ったかな。そうだとしたら謝るよ、ゴメン」

「……いや、大丈夫、です」

「あ、私何か飲み物取ってくる!だからキリ、そこで休んでてね」

 そう言って、律華が素早く席を立つ。それを横目で見送って、「優しい子だね」とニケが呟く。

「だからこそ気になるな。キミ達二人が、僕の店の名前を聞いたとたん顔色を変えた理由。特に君が、そこまで取り乱す理由がとても気になる」

「……それ、聞いてくるんですね」

「うん。ボクが年上って分かった途端ちゃんと敬語を使ってくれるような礼儀正しい子をそこまで苦しめるようなことをした心当たりが、微塵もないってのが納得いかないんだ。知らないとこで人を傷つけるようなことをしていたなら、ボクは改めたい」

「そりゃあ、どうも」

引き攣り固まった表情筋を無理やり動かす。こちらを覗き込む彼女は、心から俺を心配してくれているように見えた。

悪い人ではない、と思う。

「キミ達の目的は何だい? 素直に答えてくれるなら、ボクもある程度の助力はしよう」

「その言葉、二言はないですね?」

ならば一度、賭けてみるか。

「ただいま、……キリ?」

「律華、一度座ってくれ」

 え、あ、うん、と困惑したように律華が俺の隣の席に腰を下ろす。それを、ニケは怪訝そうな顔で眺めていた。

「ニケさん、手、貸してもらっていいですか」

「……うん? 何するんだい?」

「少し握手するだけなんで」

食器と共に置いてあったお手拭きで汗をしっかりと拭い、俺はテーブルの上に片手を差し出す。

少し躊躇った後、ニケが俺の手を取る。

「それで、何?美少女と握手したかっただけってわけでもないんでしょ?」

 そうですね、と口の中で囁くように答える。意識は、繋いだ手の先に注いでいた。皮膚の感覚、服に覆われた手首、緩く曲がった肘の角度。

「ニケさん、もし――――」

 意識する。踵をほんの少しだけ浮かせて立つような繊細な作業。自分の片手だけ、黒い『獣』が覆っていく。

「もし、あんたの買おうとしていた新商品が本物の人狼だったとしたら、あんたはどう思いますか?」

「は……」

 ここまで余裕の表情を崩さなかったニケが、ここに来て初めて、顔を強張らせた。

 衣服すらも剛毛が覆う。指先は太く、掌に肉球が浮かび、爪は鋭く尖り、繋いだままのニケの皮膚をかすめる。

「――そう、俺があんたの逃がした、新商品ですよ」

 微かに浮かべた俺の笑顔を、果たして彼女はどう捉えたか。

ばん、という音がした。勢いよく振りほどかれた俺の手が、テーブルを叩いた音だった。

「――――」

声にならないまま、ニケが俺を見ている。反射的に動こうとする律華を、俺は片手で制した。

「な、え……」

「俺は、あんたに敵意はないです。あんたを信頼したからこそ、俺は今この話をした」

彼女の唇は震えていた。怯えるように立ち上がり、そのままフラリ、と席を離れる。

「ニケさん」

「……ごめん、ちょっとお手洗い」

 席には、俺と律華が残された。両手がしっかりと元に戻ったことを確認し、俺は律華の持ってきてくれた飲み物に口をつける。暖かな紅茶だった。

「ちょ、あれ大丈夫なの……?」

「信頼できる人だと思う。それに、やっぱり俺達二人じゃ危険だ。協力者がいなければまともに動けない」

「や、そうだけど……。今ここで電話でもして仲間呼ばれたら、逃げ切れないよ」

「そうだな。でも、俺はあの人はかなりのお人好しでお節介焼きだと思う」

だから無関係の人を巻き込む。いや、ハイビレッジと関わっていた時点で彼女も無関係ではない。無関係ではないからこそ、味方に引き込みたい。

 俺達は、じっと待ち続けた。じりじりと、時計の針が動くのを見ていた。

 やがて、十五分ほど経った頃。

つかつかと、小柄な少女は席の方へと歩み寄り、向かいの席に腰を下ろす。

「待たせた。詳しい話を聞こうじゃないか」

 こちらにまっすぐに向けられた顔には、ややぎこちないながらも不敵な笑みが浮かんでいた。


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