018
沈黙。
綺麗に片付けられたリビングダイニングで、俺と佐伯、それから律穂は、神妙な顔で向かい合っていた。先程まで状況を語っていた律穂が、どう?と目線で問いかけてくる。
「……正直に俺の意見を述べさせてくれ」
重苦しい声で、佐伯が口を開く。眼鏡が光を反射し、その奥は良く見えない。ゆっくりと一呼吸。俺達は、ただ彼の言葉を待つ。
そして、彼は言った。
「いや、ふつーに家出じゃね?」
「やっぱり〜〜〜〜???」
「しかありえないでしょ〜〜〜〜、だって律華だぜ???」
へにょっと眉を下げた律穂は、「私もそうは思うのよ」と、深々とため息をつく。
「問題は、どうやって、どこに家出したかなの。一日待てば連絡があるかと思ったんだけど、それもなし。律樹も放っとけば?の一点張りだし、私、困っちゃって」
「それで風邪ってことにして休んで探してたってわけか。そこまで気にかけてやらなくても、ひょっこり帰ってきそうだけどなー、あいつなら」
「それでも心配なの。どこで何に巻き込まれるか分からないんだもの。……春休みだって、合宿でちょっと目を離したら、あっという間に入院騒ぎになっちゃったんだもの。未だにあの時何してたのか教えてくれないし」
ぎくり。それは半分ぐらいは俺のせいだな。
流石に馬鹿正直に謝るわけにもいかないので、俺は心の中で両手を合わせて謝る。そんな俺の心境を知ってか知らずか、律穂は小さく口を尖らせながらつらつらと愚痴を吐き出す。
「話したくないこと、聞きすぎたのは申し訳ないと思うけれど。でも怪我をして帰ってきたなら、理由を聞きたくなるのが家族ってものじゃない?そして省みていないなら、それを咎めたくなるのが、愛ってものだと思うの。律華のことが大切だもの、無茶して欲しくないのよ。……なのに、またあの子ったらいなくなって!」
プリプリと怒る様は、まさに子供のおてんばに手を焼く母親そのものだ。律穂の怒りに、同調するように佐伯は頷く。
「風律さんがいなくなってから、箍が外れた感じあるもんな。まぁ気持ちは分かるけどさ」
お前、風律さんって話聞いたことある?と朗らかに笑う佐伯は気がつかなかった。さっと青ざめた律穂の表情に。
「かなり落ち着いてて、人当たりのいい人なんだけどさ、どシスコンなんだよな。今は確か、海外にいるんだろ?」
「えぇ、そう。海外に、仕事で」
「話聞いた時驚いたぜ。あの人三つ子と離れて生活できるんだーって。それぐらいのどシスコン。今回のことも、話したら即日帰国してきそうだよな」
震える唇。揺れる視線。俺は、佐伯に対して反射的に口にしようとしていたはずの言葉を、ギリギリで飲み込む。
だって佐々木風律は、行方不明のはずだろ?なんて、彼女の努力の前で言えるはずもない。
佐伯が律補の方に視線を向けたときには、すでに律穂は笑っていた。いつもと変わらない、気丈で柔らかな笑み。
「さすがに、お兄ちゃんには伝えてないの。お兄ちゃんには仕事に集中してほしいから。私たちだって、自力でなんとかできるって証明しなきゃ」
「バレたらまた過保護こじらせそうだしな」
「本当に。悪い人じゃないんだけど、そこは面倒くさかったんだよね……」
二人の談笑を、俺は苦々しい気分で眺める。
律穂は、佐々木風律が失踪したことを隠している。しかも割と親しく情報通でもある佐伯がそのことを知らないということは、かなり広範囲の人間に対して嘘をついているということだ。
何故か。ーーおそらく、その理由はこの家族の特異性にある。
そもそも、佐々木兄弟は兄がいなくなる以前から子供達だけで暮らしていた。恐らく形式上の保護者はいるが、その保護者と接触することなく暮らしていたと思われる。
『これは佐々木風律――三つ子の兄が生前親権を預けた、とあ る人物からの依頼だ。この依頼に関することは、依頼主の意向で依頼主の存在ごと三つ子には伏せてある』
その保護者役とコンタクトを取っていたのは、恐らく佐々木風律一人だけだった。そのため、彼の失踪によって、三つ子は自分達が誰に保護されているのか、自分達はこれからどう過ごして行けばいいのか、分からなくなってしまったのだ、と思う。
律穂は、この問題に対して、兄が生きているということにしてごまかすという方法をとったのだ。恐らく、少なくとも成人を迎えるその日まで。
兄が確実に亡くなった訳ではなく、生死不明の失踪ということも大きいのだろう。
(これは、予想していた以上に難しいな……)
ふと、視線を感じて俺は意識を引き戻す。そろりと視線を動かせば、ぶつかったのは律穂だった。怪訝そうに、彼女は俺の顔色を伺っている。
「大森くん、もしかしてーー律華から何か聞いた?」
言葉に詰まった。言葉を吐き出せない口を一度閉じ、不器用に笑顔らしき表情を貼り付ける。
「ん、名前だけは聞いてた。シスコンってのは初耳だけどな。……それより、律華が消えたっていう場所が気になるんだ。少し見せてもらうことできるかな」
「あ、うん。大丈夫よ」
律穂の視線を振り切って、俺は席を立つ。三人暮らしの割に、あまり広い間取りではない。律穂の案内に従い、俺たちはこの家をぐるりと見て回った。
集合住宅らしい狭めの玄関の正面に、真っ直ぐに伸びた廊下。右手に扉が二つ、左手に扉が三つ、正面に一つ。右手手前は今俺たちのいるダイニングキッチン、右手奥は律穂と律華の寝室で、ダイニングキッチンとも扉で繋がっている。
正面突き当たりは、律樹と失踪中の風律が使っていたという男部屋。左手の扉は、手前からトイレ、風呂場に通じる洗面所、物置となっている。
「昨日はね、きーくん……律樹と律華が喧嘩して、律華がこの寝室に閉じこもっちゃったの。私はダイニングで食器を洗ってて、それから寝室に戻ったの。けれど、その時にはもう律華はいなくなっていたの」
案内された寝室は、やや狭苦しい印象のある八畳間だった。奥の壁に沿って二段ベッドが置かれ、本来廊下に面して開かれるはずの扉の前には、二人分の勉強机が窮屈そうに収まっている。ダイニングに通じる扉の脇にはクローゼットに姿見が並び、残された右手の窓だけが、唯一塞がれずに残っている。
「廊下への扉は……内開きか。机どかさない限り開かないな」
試しに廊下側に回った佐伯が扉を押してみたが、机にぶつかり数センチほどしか動かない。ダイニングに通じる扉を通れば律穂が気づくはずなので、律華の逃走経路は残る一つ。……その姿を想像して、俺と佐伯は苦笑する。
「よほどヤケになってたとしか思えねぇな」
「でも律華ならやりかねない。ちょっと窓、開けるぞ」
声をかけ、俺は窓際に寄る。窓を開ければ、丁度手を伸ばして届く場所に隣のアパートの壁が見えた。
向かいの壁に手を突っ張り、窓から半身を乗り出す。予想通り、壁面には凹凸も多く、手足で突っ張りながら下ることは可能だろう。問題があるとしたら、何年もかけて溜まった汚れのせいで、少々ザラついているのが気になる程度か。
「どーよ。降りられそう?」
「やろうと思えば、そこまで難易度は高くないはずだ。幸いここは二階だし、」
「でもね、窓、鍵がかかってたのよ」
ポツリ、と吐き出された小さな言葉が、俺の言葉を遮る。
「……え?」
「鍵、かかってたの。律華なら、どこかの漫画か何かで密室トリックでも考えたのかもって思ったけど、でも、そこまでするほど私達律華を怒らせちゃったのかしら」
俺は、窓枠から上体を起こす。壁に伸ばしていた掌が、握り締めた拍子にざらりと嫌な感覚を残した。
「それ、本当か?」
律華は家出だと思う、と言いながらも俺達を呼びつけたのは、律穂が不安だったから。すぐ家出しそうな、無鉄砲が消えただけなのに。
俺は窓の外を振り返った。窓の外の、汚れた外壁を見るために。
「佐伯。おまえ、ここの壁に手をつかずに降りられるか?」
「いや流石にそれは……、おい、嘘だろ。それじゃ律華、どこから出たんだよ」
「律穂が見逃したか、或いは、この密室で神隠しが起きたか……」
俺達は、それ以上言葉を紡ぐことができず、ただ壁面を注視する。
汚れた壁面には、今しがたついた俺の手形だけ(・・)が、くっきりと残っていた。