017
これは私が友人の友人から聞いた話なんだけれども、その子の同級生に恋に悩んでいる少女がいた。彼女には好きで好きで仕方ない相手が居たんだが、内気な子で、なかなか自分の気持ちを打ち明けられない。好きな相手と話す機会すら掴めないでいるうちに、彼は他の女子生徒と付き合い始めてしまった。
恋人ができてしまったのだから、もう身を引くしかない。けれど少女は諦めきれなかった。諦めきれないけれど、恋人達の間に割って入れるほどの豪胆さもなかった。そんな覚悟があるなら、とっくに告白をしていただろうからね。
思い悩んだ彼女は、小さい頃祖母に聞いたおまじないを思い出した。
深夜二時、誰も居ない部屋で、綺麗な鏡と、お米と塩をひとつまみずつ乗せたお皿を用意する。そして、「ミツバ様、ミツバ様。どうぞお越しください」と唱えるんだ。そうするとミツバ様という神様が現れて、望む夢を見せてくれる。
現実では、彼にはもう別の恋人がいる。けれど夢の中でなら、自分が彼の恋人になったって許されるはずだ。彼女はそう考えた。
その日の夜、早速彼女は鏡と皿を用意して、強く強く祈りを捧げながら呪文を唱えた。「ミツバ様、ミツバ様。どうぞお越しください」ってね。
するとなんとびっくり、鏡の中に写っていた自分の顔が、見る間に好きだった彼の姿になった。
鏡の中の彼は言う。「君の願いは何?俺は君のために何ができるかな」
少女は、ドキマギしながら答えた。「私、あなたのことが好きなんです。あなたと一緒にいたいんです」
本人には言えないのに、同じ顔をした鏡の中の人物には素直に気持ちを伝えられる。それはきっと、そこにいるのが本物ではないと分かっていたからなんだろうね。それでも彼女は彼が好きだった。だから、鏡の中の彼が言う言葉に抗えなかった。
「じゃあ、君もこっちへおいでよ」と、彼は彼女に言った。彼女は言われるがままに、鏡の中へと手を差し伸べた。
その日以来、彼女の姿を見たものはいない。けれど時折、鏡の中で幸せそうに笑っている少女と少年の姿を見た、という人もいるんだってさ。
君も、叶えたい願いはあるかい?どうしても見たい夢は、あるのかな。そういう時は、ミツバ様にお願いしてみるといいのかもしれない。
けれど気をつけて。もしかしたら、この少女のように君も、ミツバ様に連れ去られてしまうかもしれないからさ。
◇◆◇◆◇
黒木先輩が完全に口を噤んだのを確認して、俺は録音を止める。
「ノリノリじゃないっすか先輩。なんですか最後の辺り」
「あれ、変だったかな。こんな感じでまとめたら面白いかなって」
「完璧っすよ。俺の仕事なくなりそうなぐらい。むしろもっとたどたどしく話してくれても良かったんですけど、口調も淀みねぇし。ありがとうございました」
これぐらいならお安い御用さ。黒木先輩はすらりと細い脚を組み、椅子の背に体を預ける。
「で?これだけで終わりかい?まだ昼休みは残っているから、もう少しおしゃべりはできるけれど」
「じゃあもう少し。まず、この話誰から聞いたんです?友達の友達から聞いた話、というのは、典型的な都市伝説の導入に則っただけっすよね」
「そうだね、最初に聞いたのは半月前、剣道部の後輩からだったかな。最近流行りの都市伝説があるらしいって話してくれたんだけれど、どうも実際、最近不思議な人影が鏡に映るっていう証言がある。それがこの都市伝説の流布に一役買っているらしいね」
「先輩がそれを見たことは?」
「そんな非現実的なもの見るわけないだろう?……と言いたいところだけど、実は一度だけ見た」
話半分に機械を弄っていた俺は、そこで初めて顔を上げる。黒木先輩は、真剣だった。
「冗談だと思うだろう?私も見間違いだと思ったんだけどね、丁度一週間前、南校舎西側の、二階の踊り場だった。丁度そこの階段だよ。そこに……男が、いたんだ」
えっ、と思わず声が漏れた。だって怪談では、女子生徒と男子生徒だったはずだ。
佐伯は目線だけでこちらを制すと、先輩に話を促す。その手元では、目線を落とすことなく彼の手がメモを残していた。一応、俺はもう一度録音を開始する。
「それは、どんな人?」
「髪は長かった。後頭部で髪を束ねた、ポニーテールで、最初そちらに目がいって驚いたんだ。私はほら、髪が短いだろう?だから鏡にそんなものが映るわけがないって思ってね。けれど視線を落とすと、ブレザーにズボン……いや、あれはスーツのように見えた」
「なぜ、男だと?」
「背が高かったんだ。一瞬だったけど、少し見上げる形になったのを覚えている。顔は見えなかった。その男は鏡の前を横切るように消えて、次の瞬間には自分が写っていた。だから見間違いかもしれない、その日は自分にそう言い聞かせた」
「時間と、その場に他に誰かいたかを教えてください」
「時間は、17時過ぎだったと思うよ。少なくとも真夜中ではない。中間試験前だったから、教室で一人自習をしていて、その帰りだった。自習のために残っている生徒はちらほらいたけれど、その時の階段には私しかいなかった。走り去る音もしなかったし、これは間違い無いと思う」
私の知っていることはこれだけだ。こう言って、今度こそ彼女は話を切る。
「不思議な話だろう。ということで、原因解明頼んだよ、記者の卵君」
「まーじすか。ただの都市伝説で終わると踏んでたんすけど」
心底めんどくさい、という顔をしてみせた佐伯だが、目の輝きだけは隠せていない。好奇心旺盛なやつだ。
「一応私も調べたけれど、ネットにも流されている都市伝説だ。ネットが先か、学生の間で広まったのが先かは分からない。そこらへんは君に任せるよ」
「都市伝説の流布者なんて調べるだけ無駄っすよ。鏡に人影の目撃情報を集めるのと、鏡・米に塩……?宗教ベースっぽいっすね。ミツバって名前も気になる。まずはそこからだなぁ」
ブツブツと呟き、メモ帳にペンを走らせる佐伯。思考整理が忙しそうなので黙っていると、先輩がこちらに話しかけてくる。
「そういえば、大森君、だったか。君、三つ子とも仲が良いんだろう?」
「えっ、あっいや、そこまででは……。律華とは話しますけど、残りの二人とはまだほとんど」
そして律樹の方からは毛嫌いされている気がする……とは流石に言えず、笑ってごまかす。そんな俺の言葉に、先輩は不思議そうな顔をした。
「おやそうなのか。いやごめんね、あそこの三つ子は仲が良いから、全員と関わりがあるかと思って。といっても私は君と逆、律穂ちゃんと律樹君の方しか詳しくは知らないし、そんなものか」
細い両腕で顎を支えながら、彼女は慈愛に満ちた目で問う。
「律穂ちゃんは生徒会に入っていてね、とても真面目な子で、今は書記を務めてくれているんだ。家族想いの、芯の強い子だよ。律樹君は柔道部で、部活現役時代は隣の柔道場で練習していたから、よく話をしたんだ。彼、今は元気にしてる?」
「えぇ、まぁおそらく」
「はは、ごめんね。あまり親しくないんだったっけ。じゃあ佐伯君に聞こう」
話を振られた佐伯は、文房具を片付けつつ顔を上げる。
「あー?うんまぁ、元気っすよ。内面はそろそろやばそうですけど」
「ああ、やっぱり?無茶をしそうな子だと思っていたんだ」
話についていけず、俺は静かに首をかしげる。それを見て、先輩は少し眉を寄せた。
「彼はいわゆる文武両道、って評判だろう?まぁ、私も似たような評価を受けるから、一時期私と彼は似ているのかな、と様子を見ていた時期があるんだ。けれど、彼は私とは違う。私なんかが似ているとか、そんなことを思うのは申し訳ないと思ったぐらい、彼は苦労していると思う。……見ていて、痛々しいぐらいだ」
「そう、なんですか?」
「うん。私が剣道を始めたのは、純粋な憧れだった。興味本位で初めて、偶々大成した。勉強も、それに集中できる環境だったから自然と伸びた、と私は思っている。けれど、彼らは頼れる保護者と別居しているらしいじゃないか。大人に頼らず、生活に関わる全てを高校生だけで取り仕切って、部活もして、勉強もする……しかも多分、彼はどちらも好んで行なっているわけじゃない。優等生になるべくしてなったのではなく、自分をその枠に無理矢理押し込んでいる……そんな感じ。私の思い過ごしかもしれないけれどもね」
言葉を切り、彼女は暗い空気を振り切るように笑う。
「ま、君も彼の友達になるようだったら、ちょっと気にかけてあげてくれ。彼は結構、お茶目でいたずらっ気のある面白い子だよ。あぁ後、律穂ちゃんの方にはあんまりちょっかい出すとそっちの記者が」
「おっとそれ以上は言わせねぇよ?」
ニコニコォ、と笑みを貼り付けながら佐伯が割り込む。青春ですね。いいこと聞いたからそこはちゃんと覚えておこう、主に自衛の際のカウンターネタとして。
「そろそろ時間だし、俺たちは引き上げます。すんませんね、受験生の貴重な勉強時間割いてもらっちまって」
「気にしないよ。まだ六月だ、別にそこまで切羽詰まっていないしね」
それじゃ、と立ち去ろうとしたところで、あっと先輩が声をあげたので、つられて振り返る。
「ごめん、最後に一つ。新聞部に、悠里っていう女子生徒、いたかい?」
「は?いや、いませんけど。何で?」
「いや実はね、少し前に同じミツバ様について調べに来た女子生徒がいて。てっきり新聞部の類かと思っていたんだ。あと、『あまり噂を広げないでくれ』って頼まれてね」
はぁ、と佐伯は気の抜けた返事をした。まったく心当たりがないようだ。
「ま、君と同じことをしてそうなライバルがいる、とだけ伝えておきたくてね」
「あざっす、一応覚えときます。……ちなみにフルネーム、わかります?」
はて、と先輩は顎に手を当てて思案する。
「確か……そう、藍澤悠里という子だったよ」
◇◆◇◆◇
「藍澤、藍澤なぁ……うーん」
教室に戻る道すがら、佐伯は腕を組んで呻き続けている。
「心当たりはないのか?」
「逆なんだよ。藍澤っていうと、とある界隈では有名でさ」
「どの界隈だよ」
冴えない顔をこちらに近づけ、佐伯は声をひそめる。「水守山のマヨヒガ、藍澤屋敷」
「あんだって?」
「迷い家――山中にあるっていう幻の家の怪談のこと。水守山の辺りにそりゃまた豪勢な屋敷があるっていう噂があって、実際そこから通っているらしき同級生もいる。なのに、その屋敷ってやつに誰も辿り着けない。その同級生の後をつけても、気がつくといなくなってしまう。それが藍澤屋敷とそこの娘、藍澤悠里の噂」
「そんな存在が怪談みたいな同級生もいるのかよ……」
げっそりと肩を落とすと、「まぁどうせ8割嘘だろうけどさ」とフォローが入る。
「それぐらい影が薄くて、ミステリアスな女子生徒ってだけさ。友達も少ない、誰とも喋らないから真偽も分からないし広まらない。ただ、都市伝説について調べて回るなんて行動を取るタイプじゃないと思うんだよな。そんな行動的なタイプなら、そんな噂立てられてねぇって」
「もっと別の噂になりそうだよな。実は夜な夜な悪霊を退治して回る化け物ハンター、とか」
「ベタな漫画でありそうなやつな!……っとぉあ??」
不意に佐伯が奇声を上げる。パッと尻ポケットに手をやると、無造作に取り出したのは震えるスマホだ。
「こんな時間に着信かよ、誰だぁ?」
画面を覗き込んだ佐伯が、しばし固まる。
「とらねぇの?」
「待って、今ちょっと心の準備してる」
「は……?……あ」
迷っている間に、着信は切れてしまう。その場に崩れ落ちる佐伯。何だこいつ。
気になったので佐伯のスマホを覗き込むと、どうやらそれは律穂からの着信であったらしい。取られることのなかった通話の代わり、ショートメッセージが次々と画面に浮かぶ。
『ごめんなさい、ちょっと聞きたいんだけど』
『私達が風邪って佐伯君に伝えたのは、律樹?』
『このメッセージを見たら、放課後、家に来て欲しいです。でも、律樹には言わないで』
『助けて欲しいの。私一人じゃどうしようもなくて』
『驚かないで聞いて欲しいんだけど』
『実は、昨晩、律華がアパートの部屋から姿を消したの』