012
「失礼しました」
おう、気をつけて帰れよ、と職員室の中から掛けられた言葉に、苦笑して会釈をする。
軽い合板の引き戸を後ろ手に閉めると、とたんに薄暗くなる廊下。窓の外は曇天で、部活に励む他生徒達の声も、どこか遠く覇気がない。
静かで、暗くて、遠すぎず近すぎない人の気配が心地良い。放課後の閑散とした学校の雰囲気を楽しみながら、俺――大森霧夜はリズム良く階段を踏み鳴らした。
季節は六月も半ば、過ごしやすかった春も終わり、じとりとした梅雨とともに夏の気配が近づいている。ちょうど学業スケジュール的には定期テストも終わり、空気の緩み始めた時期だ。
俺にとっては、中学卒業をすっ飛ばして高校に入学してから、ちょうど2ヶ月と少し。なんとかテストの赤点を回避し、ようやく一息といったところだった。
「ほんと、ここ2ヶ月勉強してた記憶しかねぇ……」
朝から晩まで、学校以外の自由時間のほとんどを勉強に回してようやく赤点が回避できるほど、俺はバカだった……というわけではない、一応否定。
詳しく説明をすると込み入った話にはなるのだが、俺は約2年、社会から隔絶された場所で軟禁生活を送っていた。まだ、俺が大森霧夜ではなく、霧島悠人であった頃の話だ。その頃のことは、正直思い出したくもない。およそ人の送る生活ではない、という表現があるが、その二年間の大半、俺は文字通り『人間ではなかった』。
自分が、実際どういう事件に巻き込まれていたのか、今だによく分からない。けれど俺は、何者かに誘拐され、人狼にされた。そして、狼犬として飼われ、実験を繰り返されたのち、売り飛ばされようとしていた。
多くの人達の手助けと偶然の末、なんとか新しい生活を得られたのが、今年の3月。それから4月頭までが、正直一番忙しなく、大変だった気がする。
他の保護された子供達は、地方の協力者達に引き取られ、事件と無縁の日常へと戻っていった。しかし、俺は俺達を保護してくれた大森真一さんに交渉し、彼の養子としてこの街に残ることになった。
『君が、未だ行方の知れない君の友人を探したいと思っているのはよく分かりました。けれど、私は君の保護者となる以上、君に教育を受けさせる義務があります。まずは君が本来受けるべきだった教育を受け、他の同年代のコミュニティにも参加すること。そしてもう一つ、私からの頼みを聞いて頂けるようでしたら、私は君がこの街に残ることについて異論はありません』
残ることが決まった次の日には、用意された俺の部屋には大量の参考書が積み上げられ、春休みの集中講義が始まった。
春休みに必要最低限の基礎を叩き込まれ、4月からは全く内容のわからない授業を受けつつ中学分の学習内容の補強。5月になってようやく高校の学習課程に踏み込み、中間試験の範囲に関わる内容だけを重点的に勉強。そこまでして、ようやくようやく、赤点回避ができたというわけで。あ、思い返したらちょっと涙出てきた。
慣れない生活ではあったが、やっと、スタートライン。これからも勉強に関しては手を抜けないが、それでもようやく、別のことに手を出す時間を取れそうな気がする。
「いよっ、大ぉ森ぃ」
たとえば、学生生活に欠かせない友人関係とか。
後ろから肩を叩かれ、振り返るとすぐそばにニヤリと笑った顔があった。鼻周りに散ったそばかすと、レンズの大きいメガネが特徴的な、茶髪の男子生徒だ。
「あー、佐伯か」
「お、やっと俺の名前覚えてくれた?俺嬉しい〜〜」
「悪いな、人の名前覚えるのほんと苦手で……」
肩をすくめて手を合わせると、冗談だよ、と目の前の生徒――佐伯は朗らかに笑う。
「大変そうだったもんなー、特にテスト前。そろそろ学校にも慣れたか?」
「一応。ようやく余裕が出てきたってところかな」
そうかそうか、と笑う彼はとても人が良い。この高校に編入して以降、何度彼に世話になったことか。本人曰く「俺好奇心強くてさ、この時期に編入生とか珍しいから」という話だが、こちらが不快にならない程度に事情を汲み取って世話を焼いてくれる彼は、非常にありがたい存在だ。
「二年近く入院とか、遅れを取り戻すのも大変だよなぁ。ま、余裕が出たなら重畳だ。でもまた体調崩すなよ?」
「大分体力ついたし、それは問題ないさ」
むしろ人よりもはるかに丈夫なぐらいなのだが、と心の中でひとりごちつつ、俺は佐伯の持っている紙束に視線を向ける。
「佐伯の方は?放課後に何してんだ?」
「あぁこれ?取材」
ほれ、と渡された紙束に軽く目を通す。それは、アンケート用紙の束だった。
「……都市伝説に関するアンケート?なんだそりゃ」
「ふふーん、やはり知らねぇか大森氏。実はな、ここ最近流行ってんだよ、オカルト話」
つい目を細めた俺を、佐伯は胡散臭がっていると思ったらしい。ペラペラと紙をめくりながら、取材の主旨について教えてくれる。
「転校生だから、この街のことはあんま知らないと思うんだけどさ。この水守町って、ちょっと変なことが起こりやすいって噂なの。そもそもまぁ治安があんま良くないんだろうけど、若者の家出が多いとか、夜中に出歩いて変なものを見る人が多いとか。で、最近はそのせいか、新しいオカルト話が流行ってるらしいんだよ。それについてまとめて、ちょっとした考察を加えて、我が新聞部の記事として利用させていただこう、という魂胆さ」
「あー、そっか、新聞部だっけお前」
「そなのー。潰れかけの弱小部だけどな。その分制約も少ねぇし、好奇心の赴くままに記事が書けて楽しいんだよな」
「なんか気がついたら俺のことも記事にしてたよな」
「そりゃ転校生は話題性あるからぁ」
ヘラリと笑った後、佐伯はこちらを覗き込んで「大森はオカルト話とか、興味ある方?」と訊いてくる。
「あー、あんま信じてはいないけど、興味自体は人並みにあるかな」
「ほほーう。んじゃんじゃ、もし良ければアンケートの集計とか追加調査、ちょい手伝ってくれねぇ?実はさー、三つ子と浅田ちゃんに手伝ってもらってたんだけど、特に三つ子が忙しそうでなかなか人手が足りなくてさー。……あ、三つ子と浅田ちゃんは流石に覚えた?」
「三つ子は大体分かる。律華、律樹、律穂だっけ。……律華以外は多少話した程度だけど」
うろ覚えの記憶で指折り名前を挙げる。それに対して、佐伯は頷きながら補足を入れてくれた。
「そそ。律華ちゃんとは仲良いよな、大森は。律穂ちゃんはおっとりした大和撫子。んで律樹は文武両道の優等生」
「三つ子の中でも。律華と残りの二人はちょっとテイストが違うんだな」
渡り廊下を通り、教室の並ぶ棟を進む。他の生徒の気配が近づいてくるのを感じながら、俺は相槌を打った。
「律華ちゃんはなんか末っ子気質みたいな感じだよな。残りの二人がしっかりしてる分自由っていうかなんていうか。あ、ちなみにもう一人の浅田ちゃんはアレ、ウチのクラス一のぶりっ子女子」
「……あ、へ、へぇ?」
聞こえていた軽やかな足音が乱れる。思わず泳いだ語尾に、佐伯は首を傾げた。
「あれ、ピンとこない?ほらいただろウチのクラスに、めちゃくちゃ癖の強いやつ。アレアレ。根は悪いやつじゃないんだけどさー、たまにほんとにこいつ高校生かな?って不安になる……」
「それってぇ、もしかして美優のこと言ってる?」
佐伯の声を遮って、甘ったるく高い少女の声が響く。それを聞いて、げ、とバツの悪そうな呻き声。
「見損なったぁ、佐伯クンって美優のことそんな風に思ってたんだね……美優悲しい……」
耳横で束ね、毛先をゆるく巻いたツインテール。爪先だけが覗くダボダボの袖口で口元を覆う計算された女子の仕草。小柄な体を縮め、大きな瞳をうるりと潤ませ、全身で悲しい、と主張してくる。
確かに顔は知っている。二次元から飛び出してきたような、かなり異色の女子生徒だ。
「いや、悪かったとは思うけどさー、毎度言ってるけど三次元で同級生でそのキャラは見ててキツイわ」
「いいの、美優が好きでやってるんだから。他人に何か言われる筋合いはないの」
佐伯の言葉に今度は一転、彼女はぴしゃりと言い放つ。強い。
「ごもっとも。失礼致しました姫」
「良きに計らえ。次そういうこと言ったら、もう美優、こーたクンの調査手伝わないからね」
腰に手を当て、頬を膨らませて怒りを表すと、すぐに破顔して「じゃ、続きにしよ。りつきクンもりつかも待ってるから」と小動物のように教室へ駆け込んでいく。二人して目線でその姿を追いかけつつ、佐伯は小声で呟いた。
「というわけで、彼女も協力者な。名前は浅田美優。三つ子と仲良いし、覚えておいて損ねぇぜ」
「なんか、可愛い系の子だな」
ぽろっと溢れた感想に、歩き出そうとしていた佐伯が、意地の悪い笑みを向ける。
「ん?ああいうタイプが好みなの?お前」
「違っ、そういう話じゃなくて……!」
予想外の話の飛び方に、さっと頬が熱くなる。違う、いやなんかこうウサギみたいだなとかそういう意味での『可愛い』であって、別に異性としてとかそういう目で見てるわけではなくて、というかなんでそういう話になった!?
言い訳じみた反論が頭の中で浮かんでは消えて、けれど舌に乗ることはなく。パクパクと言葉にならない俺に、佐伯はより意地の悪い顔で声をひそめる。
「だよなぁ、どちらかというとお前は、」
「お そ いッッッ!!!」
スパァァンッ、と教室の引き戸がフレームに当たって音を立てる。あまりの音に体を震わせて弾かれたように視線を向ければ、勢い良く開かれた教室の入り口に、緑髪の女子生徒が仁王立ちしていた。
癖の強いボブカット、キリリと吊り上がった意志の強そうな大きな瞳。そこにいたのは、俺の恩人にして友人、佐々木律華だった。
「キリ連れてくるって出かけてって何分経ってるわけ!?あのねー、私だって暇じゃない中時間割いて手伝ってるんですけど!?」
「いやいやいや、弁明させて!?さっき見つけてようやく連れてきただけで別に雑談ばっかしてたわけじゃ」
「私だってキリと話したかったんですけど!?最近ほんとキリ忙しそうなんだもん、ずるい!」
「あ、そういう嫉妬!?ほんと仲良いなお前ら!?」
そりゃもう、と力強く頷いて手に持っていた紙とペンを押し付ける。そこになんの恥じらいもない辺りが、律華のすごいところだと思う。
「ということで、佐伯は私と交代。私は今日はもう終わり。一応、第一学年分は集計終わったよ。内容はまとめた紙見てね。終わった分は輪ゴムで束ねて付箋してあるよ。第二学年分はほーちゃんときっくんが今やってます。第三学年は回収率イマイチだったし、自力でできそう?」
パッパッと作業内容を引き継ぐの手際は良い。流石、毎度お世話になりますと頭を下げる佐伯を脇目に教室の中を覗き見ると、奥に律華と良く似た顔立ちの男女が二人、紙束を整理しているのが見えた。
「オカルト系は私も興味あるからいいけどさー。今回のこれ、ほんとに記事になる?人面犬とか港を這い回る魚人とか、絶対これ目撃例じゃないって。面白がって適当に書いてる人いると思うよ」
席に戻り、筆記用具等を片付けながら律華が愚痴る。それに対して、佐伯もやや渋い返事を返した。
「まーそれはしょうがない。でもざっと目を通した限り、複数人が話してる話題あったろ。そこらへんを上手く記事に書き上げるのが腕の見せ所ってとこ」
「労力に見合ってない気もするけどねぇ。複数人から証言が上がってたのは、ええと……」
「一番多かったのは願いを叶えるミツバ様って都市伝説。これはネット発祥みたいだから、地域性はないかもね。次いで多かったのは水守山の幽霊とか、妖怪とかの話。人面犬、でかい犬が夜な夜な走り回るって噂もちらほら。あとは水面から覗く怪物とか、幻覚、幻聴の報告に、コックリさんやら口裂け女やら定番話の派生系がポツポツと。や、でもよくここまで流行ったもんだよ。全校生徒の半分以上が回答できるぐらいには浸透してたみたいだしね」
言い淀んだ律華の言葉を、奥にいた男子生徒――律樹が引き継いだ。パチン、と紙束に輪ゴムをかけて、こちらを振り返り微笑む。
「俺はいいと思うよ、こういう記事。この街がそういう非科学的なものを信じる空気に包まれてるってのは事実だしね」
律樹の言葉を受けて、そばの席に座っていた律穂も頷く。
「根も葉もない噂って、正直少し怖いし。佐伯君の調査は割と本格的だから、今回の記事も楽しみにしてるの。佐伯君のことだから、噂の元まで調べてくれるんでしょう?そうしたら、ちょっと安心できる気がするわ」
「や、それはちょっと期待しすぎかなー」
「でも、佐伯君は人の恐怖を煽り立てるよりは、事実を解析して淡々と書いてくれる人でしょう?」
柔らかな笑みを向けられ、佐伯がたじろぐ。それを見ていた美優が、弾けるような笑い声をあげて二人の間に割って入った。
「りつほはそこらへんショージキすぎだよぉ。見てるこっちが恥ずかしくなっちゃう」
「え?私、何か変なこと言ったかな」
「ううん、なんでもなーい。でもでもぉ、美優は美優でさっきの議論にちょっと主張があるので言いまーす」
「どうぞ」
ダボダボの袖口に隠れた手を挙げて、浅田はあっけからんと、ぶっ飛んだことを言う。
「都市伝説は非科学的、眉唾物、って決めつけないで調べた方がいいと思いまーす。理由はぁ、美優が魔法使いで、魔法や非科学的なことは実在するって信じてるからです。以上っ」
ここまでの会話でかなり置いていかれていた俺は、ここで完全に思考が停止した。予想以上にキャラが濃い。魔法使いってなんだ。
そしてなんで誰も突っ込み入れないんだ。俺がおかしいのか。なんでああそうだったなみたいな顔してるんだ周りは。
「魔法がどーとか、都市伝説の真偽については私はノーコメント。そこらへんの難しい話題をどうまとめるのか、腕が試されるね、佐伯」
二の腕に何かが触れて、ようやく俺は、ぎこちなく首をひねる。いつのまにか俺の脇には荷物を抱えた律華がいて、佐伯に視線を投げた後、俺に俺の荷物を押し付けつつ教室内に視線を巡らせる。
「私、今日はもう帰るね。食事当番だから夕飯作らなきゃいけないし、キリに補足説明も入れたいし。みんなキリもいるのに、気を遣わずにちょっとぶっ飛んだ会話しすぎじゃない?キリ、まだ慣れてないんだからさ」
律華の言葉に、姿勢を崩した律樹が口の端を釣り上げる。
「そうかな。ここ半月ぐらいは割とこういう会話ばかりしてたと思うけど」
「キリが会話に混じる余裕なかったの知ってるくせに。きっくん性格が悪い」
「ごめんごめん、律華がやたらと熱心に転校生の世話を焼いてるから、ついね」
ベェ、と舌を出した律華は、そのまま俺を廊下に押し出し、「じゃ、お先に!」と教室の扉を閉める。中から笑い声が聞こえた気もしたが、律華は俺の腕を掴み、さっさと歩き出してしまった。
「もー、親切心で手伝ってもろくなことないなぁ!こんなに手伝わされるなんて思わなかった!」
「ええと、お疲れ。大変だったみたいだな」
「ほんとね!」
廊下を曲がって、リズム良く階段を踏み鳴らす。一段飛ばしで階段を駆け下りた律華は、そのままくるり、と踊り場で身をひねって、俺を見上げた。
「でもそれはおあいこ。キリもテストお疲れ様!大変だったって遼さんから聞いたよ」
「あぁあの人な……めちゃくちゃスパルタ教師だったよ……」
遼さん、男相手には容赦ないしねぇ、と柔らかな相槌を打ちながら、再び律華は階段を降りる。ふわふわと揺れる彼女の髪を眺めながら、俺は疲れた溜息を吐いた。
「でも、教え方うまかったでしょ。自主的に教えてくれるタイプじゃないんだけど、あの人頭良いし対人能力も高いから」
「ん。めっちゃくちゃボロクソ言われたけど、あの人の詰め込み授業がなかったら赤点回避はキツかった。……おかげで、ようやく動けそうだ」
「……うん、待ってた」
柔らかかった彼女の声色に、悪戯げなものが混じる。自然、互いに吊り上がる唇。
「お願いしたいこと、やりたいことは色々あるんだけど、まずは情報共有からかな」
昇降口で上靴を靴箱に放り込みながら、「買い出し付き合ってくれる?」と律華は悪戯げな笑み。
もちろん、断る理由もない。薄暗い昇降口でもなお爛々と輝く彼女の双眸を見返し、俺も笑みを返した。
「もちろん、どこへなりとも」