001
むっとするような雨の匂い。湿り気を帯びた空気はじっとりと纏わりついて、玄関を潜ってなお、寒さに体が震えた。
途中で折り畳んで腕に引っ掛けていた傘を傘立てに放り込んで、また重みを増した肩にかかる腕を軽く叩く。
「家に着いたけど、もうちょっと歩ける?」
返答は呻き声のみ。それでも少しだけ体を動かして自分で体重を支えようとする努力が見られたので、これ幸いと背負い直し、リビングまで引きずっていく。
それにしても、人間っていうものは重いものだ。人を運ぼうって時点でかなりの重労働なのに、それに加えてお互いびしょ濡れなのだから、尚更疲れる。
ソファに背負っていた人物を投げ込んだ後、私もそのまま引きずられるように崩れ落ちた。怠い。正直私もここで寝てしまいたい。
くしゃみと震えが寒さを訴えて来なければ、多分そのまま私も倒れ込んでいたことだろう。まぁ、そうは問屋が卸さない。冷えた体を抱え、渋々私は立ち上がった。
春先の雨は非常に冷える。風邪をひく前に着替えなければ。
「貴方、着替える元気ある?」
……返答なし。
「とりあえずそのソファは好きに使ってくれて構わないから。乾いた服とタオル
と掛けるものは用意するけど、他に何かいる?」
こちらも返答なし。ただの屍のようだ。
……というか、生きてるよね。不安になってそっとその人物の骨ばった手首に手を伸ばす。私の手が冷たかったせいか、触ると僅かに身じろぎする。お互い冷え切った皮膚越しに、弱弱しいながらも脈を確かに感じ、少しだけ安心。
軽く頭を掻いて、くしゃみをまた一つ。そこでようやく、私は自室に引っ込んだ。
乾いた服に着替えて髪を拭く。ついでに隣の兄の部屋から服を一式拝借、乾いたタオルと共にソファの隣に積み上げる。
「着替え、置いといたからねー」
呻き声とも返事とも取れる、あぁ、という声が微かに漏れた。
クローゼットから大きめのバスタオルを二枚出してきて、ソファの上の人物にかける。この二枚で湿気を吸う。タオルケット系は迷ったが、どうせ明日洗濯すると割り切って兄姉たちのものを適当に剥ぎ取ってきて、バスタオルの上から掛けた。
更に空のペットボトルを洗って水道水を詰め、コップと共に傍のテーブルの上に置く。更に解熱剤と体温計と……と並べてはみたが、そもそもこの人物の体調不良の原因が分からない。
というかそもそも、名前も年齢も、まともな顔も知らなければ正直性別すら危うい。
「誰なんだろうなー、この子」
夜九時、薄暗いリビングで、私は頭を抱える。
厄介事を拾ってしまった自覚はある。自分の人の良さにほとほと呆れ返りそうだ。
理性の私が問う――普通拾う? 帰り道に人が倒れてたからって。流石にどうかと思わない?
良心の私答える――だって救急車断られたし。ヤク中や酔っぱらいにも見えないし。放っておいて明日の朝には仏さん、なんて言ったら寝覚め悪いじゃん。
同居人である、私の三つ子の兄姉は合宿で居ないわけだし、暇で刺激のない春休みであるわけだし。善意とノリと好奇心に従って、人助けしてみるのもまた一興。
言い訳タイム終了。思考、ここまで。
深く考えるのをやめて、私は改めてソファの上の人物を見下ろす。
肩甲骨ほどまで伸びた癖のある黒髪が絡まっているせいで、顔はほとんど見えない。身長の割に肉付きが薄く、身長と僅かな声から察するに中学生前後の男子ではないかと思うのだが、確証はない。濡れていて泥だらけ、それに加えて獣臭い。どこでどう生活してたんだか知らないが、正直今すぐ風呂にぶち込みたいレベルだ。
とりあえず、余分に持ってきたタオルで拭えるところだけ水気と汚れを拭う。それが鬱陶しかったのか、彼(推定)が僅かに身を捻る。使い古されたモップのような髪の間から、うっすらと金色の瞳が覗いた。
「……悪ぃ」
よほど疲弊しているのだろう。掠れた声は弱々しい。
「明日になったら死体になってました、だけは勘弁ね。体調が悪化したらこの防犯ブザー引いて。私隣の部屋にいるから」
「……ありがと。ほんと、ごめん……」
それだけ言うと、再び金色の瞳は閉じられる。しばらくして聞こえてきた規則正しい寝息を確認し、私は小さく息を吐いた。
さて、ここらへんで一度、私自身について紹介しておく必要があるんじゃないかな、なんて思う。
私、佐々木律華!都内の高校に通う、バイト先が探偵事務所ってことと、三つ子の兄姉と三人だけで暮らしてるってことぐらいしか特筆すべきこともない、ごくごく普通(ここ重要)の女子高生!
……なーんて、ね。
他の人に聞かれたら「平凡とは?」と全力で首を捻られそうな気もするが、少なくとも、行き倒れなんてものに遭遇したのは人生初。
もちろん死体どころか怪我人も見たことはないし、探偵事務所で働いていても書類整理と調べ物以外の経験を積んだこともない。
だから今、自分でも思っている以上に、この非日常的事態に精神が昂っているらしい。どうも浮足立ってしまうのを抑え込み、ざっとシャワーを浴びて汚れを落として、早々に自室に引き篭もる。
心を落ち着かせるため、ホットミルクを一杯。甘い温もりがじんわりと体に染み渡るのを感じながら、私は先程の、彼を拾うまでの経緯を思い出していた。