9:青色の水
2008年。4月半ば。
日本の空は今日も晴れていた。
その日本のほぼ真ん中に、加藤知子は住んでいる。
場所は岐阜県。
関が原の戦いで加藤清正が武勇をあげた地域として有名である。
そのためなのかは分からないが、岐阜県がある東海地方は実に加藤姓が多い。
知子は10歳になるまでに、家族親類縁者、血の繋がらない者も含めて、いろんな加藤さんを見て育った。
テレビ番組でも、俳優の加藤さん、医師の加藤さん、スポーツ選手の加藤さん、と様々な著名人を眺めてきたから、それぞれの加藤さんがどんな人なのか自然と頭に入っている。
そんな毎日を過ごしている知子は、大人になったある日、自分がノーベル物理学賞を受賞する加藤さんになるなんて全く思っていなかった。
ある男に出会うまでは。
知子の一日は、納豆をかき混ぜる事から始まる。
箸もお椀も家族揃って同じ柄。どれが自分のものなんて決まっていない。
おかずはイワシの煮付け。昨日の夕飯の残り。
その隣はホウレン草のお浸し。スーパーの見切り品で母が買ってきたもの。
味噌汁はワカメが入った赤出汁。家計に余裕があるとタマネギが加わる。
朝食のメニューを見ても、とてもノーベル物理学賞を受賞するほど、脳に栄養がいっているようには思えない。
知子は朝食を終え、歯磨きを済ませて学校へ出かける。
背負っているランドセルは、従姉妹のお下がり。
知子の父は、加藤姓の親戚縁者がいっぱいいるので、服でも勉強机でもゲームでもお下がりが知子に回ってくるのだ。
お陰でおこずかいを使わずに済むという利点はあるが、友達と並んで歩く時、傷が多い自分のランドセルが、まだ艶が残っている友達のランドセルの横に並ぶのは恥ずかしい。親に新品を買ってもらえる友達が羨ましいとさえ思う。でも、知子が卑屈になるのは短い間だけ。教室でクラスの仲間と遊んでしまえばなんてことはない。
授業中は至って普通。知子が優等生という訳でもない。読めない漢字もあるし、計算だって間違える。理科の実験なんて男子に任せっきり。こうして知子の1日の学校生活は過ぎていく。
下校も決まった時間に帰る。塾には通っていないので寄らない。
一緒に帰る友達は2人。一人は安田佳枝。同じクラスだが学校の近くに家があるので、すぐに別れてしまう。もう一人は山田美里。クラスが同じだったのは1年生の時だけ。帰る方角が同じなのでクラスが違ってもずっと一緒に帰っている。
美里はフリルのついた服を好んで着る。今日はシャツの袖口とスカートの裾に白いフリルがついている。
「体育のなわとび嫌い。50回飛んだら、足がだるくなっちゃった。明日筋肉痛になっちゃう」
長い髪。手足の細い美里はお嬢様タイプ。4年1組の美里のクラスは体育でなわとびをしたようだ。
「それ最悪。2組はまだ跳び箱だから、なわとびの授業になったら私も筋肉痛だ。イヤだぁー」
知子は4年2組のようだ。ショートボブにブラウスとミニスカートを着ている姿は普通の女の子に見える。
帰り道の会話はもっぱら授業内容の情報交換。
知子は美里との会話を楽しみながら、青葉に紛れて咲いている遅咲きの里桜の下を歩いて行く。
通り過ぎる家は2階の一戸建てが多い。たまに畑や田んぼもある。少し視線を彼方に向ければ、河の堤防がありその上で犬の散歩をしている人が見える。都市近郊にありがちな風景だ。
そして、知子が美里と別れたあとにたどり着く自分の家は、庭付き平屋の借家だったりする。3LDK。知子は一人っ子。自分専用の部屋は無い。
知子は、いつも何事もなく我が家へたどり着くのに、今日に限っては、自宅まで残り約100メートルという所で呼び止められた。
若い男に。
「あの、すいません」
後ろから声を掛けられて、知子は振り返る。
知子の目に一番に飛び込んできたのは、見上げるほどに、そう今までに見た背の高い人よりずっと高いだろうと思う青年の姿だった。
知子の脳内にある「ギネスブック知子版」の記録が更新されデーターが書き替えられている間、青年を見上げている知子の口がゆっくりと開いていく。
次に知子の目に入ったのは、青年の青い瞳。知子は青年の青い目をじっと見る。
知子は、この青色をどこかで見た事があると思い、それがいつで、どういうものだったのか、記憶の底を探っていく。
そう、あれは白い筆洗い箱の中の、青色の水。青い絵の具がついた絵筆を一番最初に洗った時のように、青色が水に溶け込んで、でも水は少し透きとおっていて筆洗い箱の底がちょこっとだけ見える。青年の青い瞳は、そんな青い水のようだ。