54:存在
それでも智は、笑顔で知子に話し続ける。
「知子さんのお陰で、僕は消えていく今も、諦めずに未来を見続ける事ができる。僕の体は全て金色の煙になってしまうけど、消えてなくなる訳じゃないんだ。知子さんがノーベル物理学者になれば分かる事だけど、物質と時間エネルギーは常に互いのエネルギーバランスを均等に保ちながら同じ場所に同時に存在していてね、濃い時間エネルギーに触れてしまった僕の体は、物質と時間エネルギーのバランスを崩して分子分解を起こし、更に分かれて原子になったあと、原子はもっと細かく分かれて、そこから時間エネルギーは分離し、次の原子の姿になるまで、まるで意思があるかのように時間エネルギーは自由に移動を始めるんだ。過去や未来、別の空間へとね。その後、原子は長い時間をかけて元の状態に戻るけど、時間エネルギーと分離してしまった原子が元に戻るにはかなりの時間がかかるし、原子が元に戻ったとしても、僕の人間としての体が元に戻る可能性はない」
智は、知子をじっと見つめながら一呼吸置いてまた話し始める。
「とりあえず僕の体は時間エネルギーになってしまうけど、今度は知子さんのための時間となって、ずっと知子さんと一緒にいて、ずっとずっと知子さんを見守っていく事にするね」
知子は、頬を流れる涙を片手で拭ってしゃくりながら言う。
「私、絶対にタイムマシンを作るから。時間エネルギーの事も調べて、絶対に智さんを助けるから」
「知子さんは、僕を助けてくれるんだ」
「うん。絶対に助けるから」
「だったら僕は、助からないと思っていた自分の未来を変える事ができたのかな」
智は今も笑顔だが、青い瞳には涙が浮かんでいる。
「知子さんに会えて、とっても楽しかったよ。知子さん、ありがとう」
智は笑顔と言葉を残して消え去った。その下にいたカプリッオも消えていない。
まだ金色の煙は宙を漂っている。
「智さん!!」
知子は散って薄くなっていく金色の煙に手を伸ばす。だが、圭介が知子の手を引くので、知子は煙を掴む事ができない。
「知子さん、まだ危険なのでさがって下さい。時間エネルギーの濃度が、もっと薄くなるまで待って下さい。薄くなって私たちの目で確認ができなくなるまで触ってはいけません」
「智さん……」
どんなに呼んでも、もう智の返事は返ってこない。智の笑顔も見れない。
知子のヒーロー智は、時の王子様になってしまったのだ。
人間の知子がどんなに恋焦がれても、どんなに智を呼んでも、会う事も触れる事も許されないのだ。
知子は泣き続ける。知子の心に開いた穴は、流れ落ちる涙のせいでどんどん大きくなっていく。
そんな知子に、母が近づく。
「知ちゃん、智さんのお嫁さんになるのよね?」
「うん。なる。絶対になる」
知子は、母にすがって泣き出した。
父も知子と同じ背丈になるように腰を屈めて知子の頭を撫ぜる。
「頑張れよ、知子。パパも応援するからな。立派なノーベル物理学者になるんだぞ」
「うん。ノーベル物理学者になる」
知子を慰める両親は博士号を持っていない。物理学の知識は学校で習ったが、思い出せないほど社会の荒波に揉まれてしまっている。時間原理の知識などあまりにも縁遠い。それでも、智は人に戻れない存在になってしまったのだけは分かる。もし知子が智に会えたとしても、それはタイムマシンで移動した過去の智なのだと。
圭介は、もう危険は無いだろうと判断して、知子の手を放した。
「智さん」
知子は智がいた芝生の上に座り込み芝生を撫ぜた。芝生の先端が擦り切れている。どうやら芝生も青い光りを浴びて一部が時間エネルギーになったようだ。知子は静かに泣き続ける。
圭介は知子たちに背を向けた。背を向けても知子の鼻をすする音は聞こえてくる。
「時の摂理は、こんなにも悲しいものだったんだな。博士号を持っている私が今頃気づくとは……」
圭介も静かに涙を流した。