43:ドロドロ
5月5日の昼。
知子たちは地下室で昼食を摂っていた。もうリゾットもパスタもピザも無い。人質の知子たちに与えられた昼食はパンとシチューだけ。
部屋にミニテーブルはあるが、椅子がないために三人ともそれぞれのベッドに座って食べている。
知子の父は落胆し後悔に苛まれて食事が進んでいない。母も食事のペースが遅い。知子一人だけが黙々と食べていた。
地下室に閉じ込められている知子は、食べるか寝るか、トランプで遊ぶくらいしかやることがない。
そして、父と母は口を開けば泣き言ばかり言い、同じ部屋にいる知子の耳にはうだつの上がらない両親の言葉が否応にも入ってきて、知子の心は重くなるばかりだった。
トランプをしない食事中は智と一緒にいた時の事を思い出す。智とは初めて出会ってから毎日欠かさずに会っていた。智が自分を身辺警護しなければならないSPという必然からなのだが、今思えばあの頃の知子にとっては十分過ぎるほど幸せな時間だった。
それが「ノーベル」という言葉で智の王子としての笑顔は消えてしまう。算数のノートを智に見せた時もそうだ。あの時の智は知子を見る事もなく帰ろうとした。知子はあの智の表情を今も覚えている。そのあとに智を追いかけたのは、智の笑顔が欲しかったからだ。そして智は知子の望みどおりの笑顔を見せてくれた。
だったら、また智を追いかければいい。また智を追いかけて手を握れば、智はきっと王子の笑顔で答えてくれるはず。智王子は、姫である自分を守るSPなのだから。
そのために知子は考える。どうやってこの地下室から脱出しようかと。
とりあえずご飯を食べてしまおう。なんでもいいから少しでも栄養をとらなければ思考は働かない。学校の先生が常日頃から言っている事だ。
知子はパンを噛む。出されたパンは固く、パサついていて飲み込みにくい。シチューも残り物を温め直したようで、煮込み過ぎて気持ちの悪いドロドロ感がある。それでも知子は食べる。シチューを全部飲み干し、器についたシチューもパンで拭き取って食べる。水も飲む。残ったパンもよく噛んで食べる。全部食べ終わり、知子はゲップをした。
食べるものは食べた。これで脳に栄養がいく。知子は考える。脳の隅々まで思考を巡らす。だが智の顔しか浮かんでこない。智の事がこんなにも好きだったのかと改めて思う。
知子は智の事ばかり考えていては目的が達成できないと反省し、圭介を思い出すことにした。激しいときめきを覚える智とは違い、圭介を思い出すといつも安心感に包まれる。
圭介は花をくれたり菓子をくれたり、場合によっては知子の事をかわいいとか綺麗だと言って嬉しい気分にしてくれる。正直なところ、リップサービスは智より圭介のほうが上手だ。
智も言葉に詰まるとなんだかんだいいながら圭介を頼ったりしていた。圭介は智にとってもキングだったんだなと知子は思う。
そして父と話をしている時の圭介は、未来の自分を知っているような口調だった。過去と未来は常に影響し合っていると圭介は言っていたが…………。
知子は過去の自分を思い出し、そこから未来の自分の姿を想像する。大人になった自分はどういう人間になっているんだろうと。
そして気づく。過去と未来が常に影響し合っているという事は、未来の自分も10歳の時、この部屋にいたんだ。と。
知子は立ち上がって空になった食器をテーブルに置いた。そのあとトイレに入る。トイレが終わり手を洗う。
トイレから出ても、父の食事は終わっていない。母もパンが食べにくいようで残している。知子は歩いて父の前に立った。
「パパ、ちゃんと食べて」
「知子、すまない。パパがバカだった」
父は昨日から謝るばかりで話にならない。
「ママも残さずに食べて」
「無理よ。こんなまずいもの」
知子たちのために毎日の食事を作っている母は残り物を出されたと分かるようで、なかなか食べようとしない。
父と母は昼食を残すつもりでいるようだ。自ら犯した過ちで食事が喉を通らない両親。
知子は自分の両親がこんなにも頼り甲斐のない存在だったのかと思い、両親の肩幅を小さく感じてしまう。
「二人ともダメ。全部食べて。いつも残したらダメって私に言うじゃない」
母は力のない声で言う。
「知ちゃんも残していいから」
母はもう、知子がどこへ行っても恥ずかしくないように躾ける気がないのだろうか。