16:上機嫌の鼻歌
薫風がすり抜けていく季節。日本では5月を皐月と呼ぶ。五月と書いてさつきと呼ぶ時もある。
5月2日、金曜日。
岐阜県の空は、今日も晴れていた。
南の方角。空の彼方には、入道雲らしき姿がある。夏は間近に迫っているようだ。
知子は汗がつたう頬を赤らめて帰って来た。今日も圭介が作ったおやつを手に持っている。
「ママ、またくれた。梨のパイだって」
母は、知子の汗を見て言う。
「また庭でジョゼフさんとしゃべっていたの?」
「うん」
「知ちゃんはジョゼフさんと仲がいいわね」
母は言うが、知子としては智と仲良くなりたいと思っている。
「いつもいつも、もらってばかりで悪いから、たまにはうちの夕食に招待しようか」
母は台所の洗い場に手を入れて、そこから毛ガニを持ち上げて知子に見せた。
「ママ、凄い。毛ガニだ」
母も母なりに頑張って作戦を考えていたようだ。
母が狙っているのは、圭介か、それとも智か、もしかすると両方なのか。10歳の知子には知る由もない。
母はいつもより多めの野菜を刻みながら言う。
「もうね、ジョゼフさんには、今夜の夕食にご招待するってお話してあるの」
策略家の母は、知子より先に圭介と会話をしていたようだ。
「知子には料理の準備を手伝って欲しいから、早く宿題を片付けね」
「はぁーい」
知子にとっても、2人のライバル姫から邪魔されずに、智王子と一緒にいられる絶好のチャンス。知子は喜び勇んで隣の部屋に駆け込んだ。ランドセルを置いて、いつものちゃぶ台に宿題を広げる。
今日の宿題は算数。授業で習ったとおりに割り算の筆算を解いていく。いつもはのんびりやる宿題も今日に限っては早い。応用問題もあっさり解いて、知子は母がいる台所へ行く。
知子が母の隣に並んで立った時、母親は一番大きな鍋を出して毛ガニを煮込んでいた。知子の母もヤル気満々のようである。
知子もヤル気満々で、母の手伝いをしてテーブルに器を並べていく。
そうこうしているうちに時は流れ、知子の父が帰って来た。
「ただいま」
「パパ、おかえり」
父はごく普通のサラリーマン。某有名会社の経理事務をしている。
「あなた、おかえり」
母も言う。
父は首元のネクタイを緩めながら、テーブルに並べられた器の数が、いつもと違う事に気づいた。
「なんだ? 子供の日のお祝いにしては、ちょっと早いんじゃないのか?」
母はにこやかな表情で言う。
「今日、お隣の相馬さんをご招待したのよ」
「は? なんで?」
父は何も知らなかったようだ。父の存在は忘れられていたのか。
「今日、姉からの毛ガニが届いたの。6匹入っていて、ちょうどいいから、お隣も呼ぼうと思って。ほらだって、知子がいつもお世話になっているじゃない」
姉とは、北陸へ嫁に行った母の実の姉の事である。
「確かにそうだが……」
父は、知子の事でなぜ野郎2人をうちに招かなければならいのか、と不服そうな表情をしている。
母は父の背中をポンと押す。
「パパの大好きなお酒も買ってきてあるの。明日は土曜でパパの会社も休みだから、お隣さんとどれだけ飲んでも構わないわよ。だから、早く着替えてきて」
「そうか♪ じゃあ、軽くシャワーでも浴びて汗を落とすか」
父は、酒飲み友達が増えるチャンスかもと、気が変わり、喜んで隣の部屋に荷物を置きに行った。酒が鱈腹飲めるなら、野郎2人が増えるくらいどうって事ないらしい。
父が風呂に入っている間に、母が作る料理が順番にテーブルに並んでいく。
料理を並べているのは知子である。
茹で上がった毛ガニ。サラダ。酒のつまみ。どれも彩りよく並べられていて、見ているだけで食欲がそそられてくる。それに付け加え、茹でた毛ガニのうまそうな匂いがするから腹の虫が騒ぎ出して、それを宥めて諭すのが大変だ。
しばらくして、風呂場から父の上機嫌の鼻歌が聞こえてくる。
母は、その鼻歌に耳を傾けながら知子に言った。
「知ちゃん。パパ、そろそろお風呂から出てくるみたいだから、ジョゼフさんたちを呼んできてくれる?」
「はぁーい」
知子は手伝いの手を止めて、玄関へ走って行く。途中、鏡を見て髪型と服の乱れがないか確かめる。チェックOK。知子は玄関を出て隣へ走った。
塀から覗く事しかできなかった相馬家の庭に入る。圭介が手入れしているパンジーが綺麗に咲いている。
知子はパンジーを横切って相馬家の呼び鈴を押した。
「はい」
ドアの向こうで圭介の声がする。
例え相手がドアの向こうにいても言わなければならない事がある。
「こんばんわ」
知子は服の乱れを直しながら声を出した。
「知子さん、入っておいで」
圭介の声だ。圭介の招きに応じて、知子は中に入った。入ってすぐの左にある棚の上に、細工が施された綺麗なガラスの置物がある。隣に置いてあるポプリからはよい香りもする。
奥からキング圭介が歩いて来た。極上の紳士は、今日も綿ズボンにカッターシャツをラフに着こなしていて恰好いい。
「息子が今準備をしているから待っててね」
智は家に帰ってきているようだ。
「うん」
今日の智は、どんな服装だろうか。