15:王様
「知子さん、おかえり」
低音の声がする。智のパパの声だ。
どうやって声を掛けようかと考えていた知子にとっては、嬉しい低音の響きだ。
さんづけで呼ばれるのも、お嬢様扱いを受けているようで心地よい。
知子としては智がいなくて残念だが、極上の紳士、智のパパと話すのもいいと思い、笑顔で返した。
「ただいま」
さっそく知子は塀越しから相馬家の庭を覗く。
智のパパが何をしているのか、知子としては興味があるからだ。
「おじさん、何やってるの?」
しかし、智のパパの次の言葉は、知子が望んでいたものではなかった。
「おじさんか……」
しかも智のパパは、あまり嬉しそうじゃない。
知子は今になって気づく。おじさんと呼んではいけなかったと。
知子が焦ってどうしようかと考えていると、智のパパは目尻を下げて、急ににこやかな表情をして言った。
「知子さん。私の名前は、相馬・ジョゼフ・圭介です。圭介さんと呼んで下さい」
智のパパは、智より名前が1つ多くついていた。
「圭介さん……」
今度の知子は、名前が1つ多い圭介に驚いて、次にの言葉が浮かばない。
知子が困っていると、圭介は庭に咲いていたパンジーの花を1つ千切って、塀越しに知子に手渡した。
「この花は、知子さんのように綺麗でかわいく咲いているので、差し上げます。お近づきのしるしです」
知子はパンジーの花を受け取る。
「ありがとう」
知子の手にオレンジ色のパンジーが渡る。
極上の紳士から花を手渡された知子は、お姫様気分を満喫し有頂天になる。
知子が笑顔になったので、圭介はしゃがんで庭の土をいじりだした。
圭介は、庭のパンジーの手入れをしていたようだ。
知子は塀に身を乗り出して聞く。
「どうして圭介さんの名前は、ジョゼフがあるの?」
「それは、私の母がイタリア人だからです。母は私を産んだ時ジョゼフとつけたかった。日本人の父は圭介とつけたかった。だから、私の名前は相馬・ジョゼフ・圭介なのです」
圭介は、いじっていた土を手早く均す。
「知子さん、ちょっと待っていて下さい」
スコップなどの道具を片付けて、圭介は軍手から手を抜く。軍手を振って土を落として、道具の上に置いてから、知子に向き直った。
圭介は、智と同じ青い瞳で知子を見る。
圭介の目尻にシワがあるが、それでも圭介は極上の紳士で日本人離れした品のある顔立ちをしている。
差し詰め圭介は、王様だろうか。
「知子さん、もう少しだけ待っていて下さい」
圭介はそう言うと、家の中へ入って行った。
なぜ待っていなければならないのだろうか?
予想外の展開に、知子は大きな?マークを頭の中に浮かべていると、圭介が皿を持って家から出て来た。
皿の上にはカットされたマーブルケーキがあり、埃が被らないようにラップがかけてある。
「私が焼いたチョコのマーブルケーキです。おうちの人と食べて下さい」
知子にとって思いがけない収穫だった。
「ありがとう。おじっ、圭介さん」
今後は絶対におじさんと呼んだらいけないと、知子は思った。
圭介からまた何かをもらうために、そして智王子に会うために。
「圭介さん、ケーキ作れるんだ。凄い。私のママ、作れないよ」
子供は、恨みも罪悪感も無く、自分の親の無能さを隣人に伝える時がある。その親に育てられた自分の印象をも悪くするとも知らずに。
圭介は少し笑い間を取ってから説明をする。
「妻は今おばあちゃんの所にいるから、料理をするのは私か智になるのです」
だからといって、ケーキは普通作れないと知子は思った。
圭介と別れ、圭介が家に入るのを見送ってから、知子は自宅に入って母親にマーブルケーキを渡した。
母は皿を動かして、マーブルケーキを上から横から眺める。
「まあ。これを相馬さんが」
母が驚くのも無理はない。普通、日本人の男はケーキを焼かないからだ。
「もしかして、そのお花も頂いたの?」
「うん」
「もらってばかりで悪いからお礼ついでに何かお返しをしないといけないわね」
知子がパンジーを適当なコップに生けているうちに、母はケーキの上のラップを捲る。
「夕食前だけど、これ食べてみようか?」
「うん」
知子は母の横に並びマーブルケーキを見る。
皿の上にある、カステラのように四角いケーキ。卵色のスポンジ部分にチョコレート色の渦がある。
母親は真っ先にケーキを食べる。
「うん、おいしい。相馬さん、ケーキ焼くの上手ね」
知子もケーキを食べる。チョコの風味があり思った以上にしっとりとしていておいしい。
「うん、おいしい」
キング圭介は、どうやってこのケーキを作ったのだろうか。
知子はオレンジ色のパンジーを見ながら、圭介のケーキを作る姿を想像しているうちに、ある事を思い出した。
「そういえば、ママ。相馬さん、相馬・ジョゼフ・圭介っていうんだって」
「ジョゼフなのね。なんて恰好いいのかしら」
母は、マーブルケーキに続いて、名前の収穫にも喜ぶ。
きっと今の母の心にはジョゼフしかいないだろう。
知子は、そんな母の姿を見て、パパがかわいそうだ、と思った。
こうして、朝は智と一緒に出かけ、帰ってくれば圭介が庭にいたりする。
知子は、青い目の隣人とそんな毎日を送るようになり、そして5月がやってきた。