12:重要な事
次の日。
岐阜県の空は、少し曇っていた。
4月の半ばなので、曇っていても暖かい。
朝、知子は学校へ行くために家の門を出た。ちょうど隣の家でも門が開く音がする。
相馬さんちの門の音が、である。
知子の足は止まり、膨れ上がってくる期待を胸に、知子は隣の家の門を見た。
知子の期待通り、青年が門を閉めているところだった。
手にはビジネスバッグ。服装はネクタイをしたスーツ姿。ショートヘアの頭髪は整髪剤をつけているのか艶々としている。
知子の王子様はビジネスマンのようだ。
青年は、知子に気づいて近づいてきた。
「おはよ。昨日は有難う。助かったよ」
憧れの青年を見上げている知子は、昨日より大人っぽい姿の青年を前にして、緊張して動かなくなった。
それでも出会った最初は必ずやらなければならない事がある。
「おはよう」
知子は朝の挨拶をした。
青年は知子の隣に並び、ランドセルを背負った知子を見下ろす。
「これから学校みたいだね。行く方向も僕と同じみたいだから、途中まで一緒に行こうか?」
青年王子からの願ってもない申し込みである。
「うん」
知子は一緒に歩き出した。
今日の青年からはいい香りがする。知子の鼻の穴は大きく開き、青年の香りを何回も吸い込む。
10歳の知子の頭は、デオドラントという言葉は浮かばない。香水か、それとも整髪剤の香りか。
しかし、いい香りに酔っている場合ではない。少し先には友達の美里が待っている。そのほかの近所の子供もいる。
朝の登校は所定の場所に集合してみんなで学校へ行かなければならない。
青年と二人っきりで歩ける時間は制限つきなのだ。
知子は歩きながら青年を見上げた。
「名前なんていうの?」
集合場所に着く前にこれだけは聞いておかなければならない。
今の知子にとって青年の名前を聞く事は、自分の将来に繋がる、そう思うほど重要な事になっている。
「僕は、智」
「さとる……さん」
知子の同級生にも同じ名前の男子がいるので一応名前の文字も分かるが、王子はイタリアの混血児なので名前がイタリア文字なのか漢字なのか聞いておかなければならない。
「漢字?」
「うん、漢字。知るの下に日付の日がつく漢字だよ」
「そうなんだ」
4年生の知子はまだ習っていない漢字だが、智の説明でなんとなく想像がつく。
カルロでもサルヴァトーレでもなかったのだ。
しかし、悠長に漢字の想像をしている場合ではない。足は進み集合場所に近づきつつある。
知子は次の質問をする。
「彼女いるの?」
これが一番重要なのかもしれない。
智は遠くを眺めるようにして言う。
「今はいない。付き合った人は何人かいるけど」
知子は心の中でガッツポーズをとった。これで知子の恋心に勢いがつく。もう門で智に出会った時の緊張感はない。知子の質問は次々と続く。
「何歳なの?」
「20歳」
「身長はなんセンチ?」
「185。でも、測ったの1年前だから変わっているかもしれないけど」
「なんの仕事をしてるの?」
「それは……」
智が答えようとした時、美里の知子を呼ぶ声がした。
知子と智は、呼ばれた方角を見る。
そこは登校する時の集合場所。美里は知子に手を振っている。
時の流れは無情なもので、知子の緊張がほぐれてやっと会話ができるようになった時に、知子は集合場所に到着してしまったのだ。