11:極上の中年紳士
知子が機嫌良くスキップして玄関に入ると、玄関の中にまた別の男が立っていた。
知子の母は玄関先で正座をして男と話していたが、帰って来た知子に気づいて、視線を知子に向けた。
「あ、おかえり」
母は早速目の前にいる男に言う。
「この子は、うちの娘の知子です」
突然でも紹介されたら必ずしなければならない事がある。
知子は母に躾けられたとおりにお辞儀をする。
「こんにちは」
「こんにちは」
振り返って挨拶をした男も目が青かった。しかも青年と同じ日本語。
身長も先ほどの青年と同じくらい高い。年齢は自分の親より年上そうだが、腹は出ていなくてスマート。綿ズボンをはいてカッターシャツをラフに着こなしている姿は、青い目が手伝って極上の中年紳士の雰囲気が漂っている。
もう知子は先ほどの青年で免疫ができているので、目の青い人を見ても驚きはしないが、代わりに心の中に淡い期待が膨れあがる。
その知子の期待に母が答える。
「知子、こちらはお隣に引っ越してみえた相馬さん」
みえたと言うのは、東海地方特有の方言で、いらっしゃったと同格の意味になる。
母が正座している横にきちんと包装された箱がある。中味はタオルだろうか。
相馬は引っ越しの挨拶に来たようだ。
母は更に続けて説明をしていく。
「相馬さんの奥様は、おばあちゃんの看病で実家に行ってみえて、今は息子さんと二人暮らしなんですって」
「息子と二人暮らしといっても、妻の母が入れる老人ホームが見つかるまでの間だけですが」
相馬は知子に説明をしてから、知子の母に向き直って頭を下げた。
「妻が不在で何かとご迷惑をお掛けすると思いますが、どうか宜しくお願い致します」
「こちらこそ宜しく」と母が頭を下げているうちに、知子は靴を脱いで上にあがった。それでも相馬の身長のほうが高い。髪の色は青年より茶色がかっている。顔も日本人離れしていて、明らかに外国人だと分かる。
相馬は頭をあげて「バイバイ」と知子に手を振ってから玄関を出て行った。
母は立ち上がりながら知子に言う。
「ハーフなんですって」
「ハーフ?」
「あの人のお母さんがイタリア人なの。お父さんは日本人。国籍も日本。それで青い目なのに、苗字が相馬なのよ」
知子はランドセルを下ろすのも忘れて、隣人の話を始めた母にくっついて、台所まで歩いて行く。
「ねえ、そうまさんの名前は?」
母はハッと気づいた表情をする。
「あ、聞いてないわ。もしかするとカルロとか、サルヴァトーレとか、向こうの国の名前かもしれないわね」
母は先ほどの中年紳士の事を言っているのだが、知子の頭には青年の姿しかない。
白馬に跨った白雪姫の王子様。名前は相馬カルロ。もしくは相馬サルヴァトーレ。
知子は、あの青年に合わない名前だと思った。
青年の名前が分からないまま、知子の妄想は膨らんでいく。
白雪姫の姿をした知子は、身に降りかかる不幸にもめげず7人の小人と健気に暮らしていくが、悪い魔女に毒を飲まされて知子姫は倒れてしまう。
そこに王子の姿をした青年カルロが登場。知子姫はカルロ王子に助けられ、カルロ王子と見つめ合い、手を取り合った時、
「知子、宿題は?」
母の声が聞こえ、知子は現実に引き戻された。台所に立っている知子の目に、使い古されて表面が茶色に変色した冷蔵庫が映る。そう、ここは借家。7人の小人もいない。
青年王子が引っ越した隣の家も、同じ大家が管理している借家。やっぱり相馬家にも使い古された冷蔵庫があるのだろうか。
姫でもないだたの小学4年生の知子は、家に帰って来たら宿題をやらなければならない。知子は母に視線を移す。
「ある。漢字を10個、暗記するのだけ」
「だったら、そんな所に突っ立ってないで、早く宿題をやりなさい」
「はぁーい」
知子は暖簾を潜って隣の部屋へ移動した。
テレビとちゃぶ台と、背の低い本棚がある部屋。
知子はランドセルを下ろして、中から国語の教科書を出してちゃぶ台の上で開く。
畳の上にある新聞紙の近くにあった折り込み広告の裏を見て、何も印刷されていないのを取り出すと、そこに漢字を書きながら暗記を始めた。
漢字の暗記は集中すれば2、3回書いただけで頭に入ってしまう。この頃からノーベル物理学者としての素質があったのかもしれない。
30分もしないうちに漢字を10個覚えてしまった知子は、書き込まれた漢字の隣にひらがなで「そうま」と書いた。
また知子の脳内に疑問が浮かぶ。「そうま」は漢字でどう書くんだろう? と。
とりあえず本棚の辞書を引っ張り出して調べてみる。
そうま【相馬】福島県北東部の市。姓氏のひとつ。
辞書とは便利なものだ。
そして知子は広告の裏に「相馬」と書き込んで青年の苗字も暗記してしまった。