御霊祭《ミタママツリ》
1
小学生のころ、書道の時間に座右の銘を書けと先生に言われた。
座右の銘の意味が分からなかった私たちは、教室に置いてある使い古された辞書を引いて、それぞれ一生懸命考えたものだ。
私はその時、こんな座右の銘をデカデカと和紙に殴り書いた。
『明日の私は死ね』
それを見た頭の固いおじいちゃん先生は、顔を真っ赤にして怒鳴ってきた。
そんな物騒なことが座右の銘になるわけがないなんて言われた。
田舎の、それも全学年合わせてクラスが三つしかないような小さな学校で、これほど怒られたのは私くらいだったのをよく覚えている。
確かに今思い返すと、あの頭の四角い禿げたおじいちゃん先生の前で書く事じゃなかったなとは思う。
だけど当時の私は、それが会心の出来だったので頑なに訂正することを拒んでいたような気がする。
気がするというのも、結局小学生の私は根負けして、同じ意味の別の座右の銘を考えたからだ。
だけど、今でも当時考えて思いついた座右の銘は変わっていない。
ずっとこれを信条にして生きている。
2
鎌倉とか室町の時代から、この村に続く伝統的な行事の一つに、御霊祭がある。
発祥当時の目的は、村長のじいちゃんも知らないと言っていたから私にも分からないが、今では先祖の魂を癒し敬う行事らしい。
先祖ということは、何百年も前に死んだ人の魂も敬うのだろうか。
敬われる魂も、全く見ず知らずの子孫と時代の流れで変わってしまった故郷の風景を見たら、困惑するのではないだろうかと疑問に思う。
といっても私は疑問に思うだけで、それ以上の追求をしようとは思わなかった。
それでその御霊祭は、その性質上八月の中旬に行われるのだが、これが結構派手な祭りで私幼い頃から好きだった。
今日は私が十九歳の夏。
夕日が西の山の尾根に顔を隠し、夕雲が真っ赤に燃える空も徐々にその光を失い始めた午後七時。
小さな村がすっかり薄暗くなる頃を見計い、村の子供たちが篝火に火を点ける。
すると村中央の広場から山の麓の社まで一直線に、まるで導火線に火を点けたかのように次々と火が灯されて、篝火の道が伸びるのだ。
そして直後、社の境内に組まれた巨大な焚き火に火が移ると、天にも届きそうな火柱が上がり、村人たちの歓声に包まれる。
「……やっぱり、すごい」
夜空を煌々と照らす火柱を眺めて私は感嘆した。
力強く燃え上がる火柱は壮大で威圧的に感じる。
だけどそんな自然の猛々《たけだけ》しい炎が、私は好きだった。
村長のじいちゃん曰く、この大きな炎は死者の御霊を導く目印らしい。
なるほど、どおりで空高く火が伸びている訳だ。
火柱が天に届くと、次は村の若い青年たちによる和太鼓での演奏が始まり、篠笛の柔らかな音色が村を包みだした。
篠笛の流れるような緩やかな音楽に合わせて、村の子供たちが思い思いに踊っている。
そんな光景を遠巻きに、私の興味はただただ夜空を照らす火柱に向けられていた。
いつまでも燃え盛る炎から飛び出すやんちゃな火の粉や、落ち着き無くゆらゆらと体を揺らす火柱に目を奪われていると、突然隣から声をかけられた。
「ねぇ、一緒に踊ろうよ。あーちゃん」
声の方を見ると、私と同じくらいの背丈の仮面の少女が立っていた。
一瞬眉を潜めてから思い出す。
幼馴染の春香ちゃんか。
凄まじい火柱に夢中で忘れていたが、この祭りでは村人みんなが目元だけくり抜かれた、陶器製の薄い真っ白な仮面をかぶっていた。
慣れてしまって私自身もつけていることを忘れていた。それほどに軽くて肌触りもいい仮面だ。
よく見ると周りで炎を見上げる大人たちや、境内で踊る子供たちも同じような仮面をかぶっている。
これも村長のじいちゃんの受け売りなのだが、御霊祭が終わった時に仮面を外していると、先祖の霊があの世に帰るときに一緒に連れて行かれるらしい。
そんな迷信を信じているわけじゃないけれど、肝試しや度胸試し感覚で仮面を外すようなことはしなかった。
だけど幼い頃は不気味に感じて、仮面をかぶるのを泣いて拒んだこともあるらしい。
見慣れた今でも不気味な光景に感じることは否定できなかい。
だが、そんなことで春香ちゃんの提案を無下にするほど、私は愛想悪くない。
「うん、行こ。春香ちゃん」
春香ちゃんの差し出した手を取って、大きな焚き火の周りで踊る子供たちに混じっていく。
私が二つ返事で頷いたことが、春香ちゃんは嬉しかったようで、くすくすと微笑んでいた。
そんな彼女の反応がなんだか気恥ずかしくなって、私も思わず表情が緩んだ。
仮面をかぶっていて良かった。そうでなかったらこんなニヤニヤと緩みきった顔を、春香ちゃんの前で晒すなんてとてもじゃないけど出来なかった。
私は赤くなる頬を何とかしようと、深く息を吐いて鼓動を落ち着かせる。
よくよく考えてみれば、仮面をかぶっているのだから、顔が赤くなってようが変顔してようが関係ないのだが、私の頭はそんなこと忘れてしまっていた。
「そうかぁ、もう十三年になるんだねぇ」
突然手を繋いで歩く春香ちゃんがそんなことを呟いた。
春香ちゃんも仮面をかぶっているから、表情までは見えないが、なんのことかは直ぐにわかった。
十三年前、それは私の母が病気であの世に逝った年である。
しかし、私が四歳の頃に死んだ母の顔なんてほとんど覚えていない。箪笥にしまってあった写真で数回見た程度なのだ。
「そういえばそうだね。でも突然どうしたの? 感傷的になるなんてらしくないね」
「あれぇ? あーちゃんがため息ついてたから、お母さんのこと思い出してるのかなって思ったんだけど。違った?」
なるほどそういうことか。
どうやら春香ちゃんは、大きな焚き火の炎を見つめていたのと、緊張をごまかそうとした深呼吸を見て、勘違いしたらしい。
今日は死者があの世から帰ってくる御霊祭。
死んだ母親を思い出してると勘違いしても文句は言えないなぁ。
「違うよ。顔も思い出せないような母親だもん。ほら、そんなことはいいから踊ろ」
取り敢えず春香ちゃんの勘違いは否定しておいた。
でも、全く嫌な気はしなかった。
私は笑い、春香ちゃんと境内の隅で飽きるまで踊った。
今が楽しければ、明日がどうなろうが知ったことじゃない。
私は祭りの熱気にあてられて、春香ちゃんと騒ぎまくった。明日筋肉痛になって動けなくなっても、そんなの明日の私がなんとかしてくれるだろう。
「明日の私は死ね」
ふと昔書いた座右の銘を思い出して、仮面の下で笑った。
「私って、全然変わってないなあ」
あごまで流れてきた汗を浴衣の袖で拭い、長椅子に腰を下ろして休憩する。
肩まで伸びた髪の毛が、首周りや頬に張り付いているのを払っていると、隣に座った春香ちゃんから紙コップを渡された。
ひんやりと冷えた麦茶だ。
煩わしい仮面を頭の上まで持ち上げて、一気に胃まで流し込む。
「ふわぁ~」
夏の暑さと焚き火の熱さや祭りの熱気で火照った体に、その麦茶は最高に心地よいものだった。
帯に指していた団扇を取って、浴衣の胸元を開いてパタパタと風を送り込むと、まとわりつく汗が蒸発して暑さが抜ける。
焚き火から離れ、体を落ち着かせて頭を冷やすと、祭りの騒がしさや篠笛の音色が遠くに感じ、今度は夏の虫たちの合唱が森や田んぼから聞こえてきた。
虫の音に耳を傾けていると、隣に座って手を繋いでいる春香ちゃんが手を上げて伸びをした。
「あ~、もう一年分くらい騒いだ気分だよ。あーちゃん、あたし出店で何か買ってくるね」
「ありがとう春香ちゃん。私はもう少しここで涼んでおくよ」
つないだ手を解いて、村の人たちが集まる境内の出店の方へ駆けていく春香ちゃんを見送ると、長椅子に仰向けになる。
焚き火や篝火の灯りから離れたこの場所は、夜空の星がよく見えた。
星以外も見えた。
空に、霞のように白く存在感の薄い『何か』が浮かんでいた。
つい気になって、私はそれを注視したのだが、ハッキリ見えなくて目を細めた。
その時に、さっさと仮面を付け直しておけば良かった。
麦茶を飲む時にのっぺりとした仮面を外してから、ずっと頭の上に乗せたままだったのがいけなかった。
――仮面を外していると、先祖の霊があの世に帰るときに一緒に連れて行かれる。
別に忘れていたわけじゃないけれど、仮面なんて普段着けるものでも無いし、私は空に浮かぶそれがなんなのか全く見当もついていなかったから仕方ない。
仕方ないのだが、のんきに寝っ転がっていた過去の私を恨まずにはいられなかった。
「はぁはぁ……っ! なんでこんなことになってんのよ!?」
見上げた夜空に浮かんでいた靄の様な何かが、私を目掛けて降りてきたのを見て、ようやくその正体を理解した。
先祖の御霊。
幽霊なんて信じてない。
だけど、目の前に現れたら信じるしかなかった。
私が驚いて、寝転がったまま長椅子から転げ落ちたのはついさっき。
先祖の御霊から逃げるように、背後の森へと駆け込んだ私を、先祖の御霊はユラリと風に流されるままかのような気楽さで追いかけてきたのだ。
あの先祖の御霊は、私を道連れにする気だ!
その時ようやく村長のじいちゃんの台詞を思い出し、頭に乗せた仮面に手を伸ばした。
しかし、なんど頭を触っても、春香ちゃんとはしゃいで乱れた髪しかない。
無い。
無い?
無い!?
仮面が無い!
まさか、長椅子から転がり落ちた時に落としたのか。
あの仮面が無いと道連れにされる。
迷信なんて信じてない。
だけど、先祖の御霊は実際に私を追いかけている。
心臓が飛び跳ねそうだったし、大声で春香ちゃんに助けを求めたかった。
だけど口の中はカラカラで、吸い込む息は頼りない。
取り敢えず、森の中をぐるりと迂回して、元居た長椅子のところに落とした仮面を取りに行こう。
薄っぺらいただの陶器の仮面でも、あるのと無いのとでは違うだろう。
だけど、その目論見はすぐに破綻した。
後ろを追いかけていたはずの先祖の御霊が、長椅子の隣に落ちている私の仮面に手を伸ばしていたのだ。
「いったい何を……?」
私が呆然とつ呟くのを尻目に、先祖の御霊はあまりに人間らしい挙動で、拾った仮面を自分の顔に取り付けた。
その顔が仮面の裏に隠れる直前に、私は先祖の御霊が意地悪く笑ったような気がした。
その瞬間、私は初めて背筋を舐められるような寒気に襲われ、全身に鳥肌がたった。
今までは、夏の暑さと祭りの熱気で玉のような汗が溢れ出していたのにも関わらず、一転して冷たい棺桶に閉じ込められたような錯覚に陥った。
わけがわからず私は両手で体を抱えて震えた。
そこで私はようやく気づいた。
私の体が、消えかかっている……!?
混乱したまま私は、ハッと森の中から、長椅子の方にいる先祖の御霊に目を向ける。
そこには、仮面をつけた私が立っていた。
その仮面をつけた私の元に、サンダルをパッタパっタと鳴らしながら近づいていく春香ちゃんがいた。
「あーちゃ~ん。イカ焼き買ってきたよぉ~」
「春香ちゃんありがとう。あ、このイカ焼き味がしっかりしてて美味しい!」
「でしょ。あーちゃんがイカ焼き好きって言ってたの覚えてたんだぁ。あーちゃんのそういう所、女の子なのに男前だよねぇ」
「そうだったんだありがとう! ねぇ春香ちゃん、お礼になにか私も買ってあげるよ」
「え? いいの?」
「うん! 春香ちゃんのためだもん」
「わーやったぁ。じゃあねぇ、私はあっちのりんご飴がいいなぁ」
「春香ちゃんはホントに甘いものが好きだね。私を迎えに来る前にもわたあめとか食べてたでしょ」
「甘いものはいくら食べてもいいのよ。さぁ早く行こ」
「ちょ、ちょっと春香ちゃん。そんなに慌てなくてもりんご飴は逃げないよ」
仮面をつけた私の手を引いて、春香ちゃんが大きな焚き火の周りを囲むようにして並ぶ出店へと走ってゆく。
仮面で表情は見えないが、声音からは二人共心底楽しそうに出店を冷やかしている。
……なんだ、アレは。
春香ちゃんの隣で、当たり前のように笑っている仮面は一体なんなんだ?
その仮面をつけているのは私じゃない。先祖の御霊だ。
私は暗い森の中から一歩も動けずにいながら、春香ちゃんに叫んでいた。
私はこっちだ! そっちじゃない。
もうとっくに息は上がっていて。
それでも必死に呼びかけた。
でも、春香ちゃんには一言も届かなかった。
そもそもここに私なんか居ないかのように。
そこでもう一度、仮面をつけた私の姿をした先祖の御霊の方を見た。
先祖の御霊は、空に漂い風に流されていた時とは違い、完全な実体を持っている。
そして今度は私の体に目を向ける。
やはり見間違いじゃない。
体が薄らとだが透けて見える。存在が希薄になっている。
先祖の御霊と立場が入れ替わってしまった。
そう気づくのに時間は要さなかった。
私が死人になっていく。
じんわりと事実を飲み込むに連れて、暗く深い水底に落ちていくような冷たい絶望感が、心の奥から溢れ出してきた。
徐々に薄くなっていく指先を見て恐怖に震える。
こうしてはいられない。
私は焚き火の光も差し込まないような暗い森から這い出して、焚き火の光に手を伸ばした。
だけど、手を伸ばせばそこにある篝火や焚き火の灯り、人々の暖かい笑い声が、深い谷の向こう側にあるようで、絶対に触れることの出来ない幻のように感じられた。
嫌でも世界から孤立してしまったのを実感してゆく。
唖然としてしまった私は、土の上にヘタリこんでしまった。
「ひぃ」
うつむいた時、浴衣がはだけて露出した太ももが透けているのを見て、また悲鳴をあげてしまう。
その時私の目の前を、見知った近所の子供たちが騒ぎながら横切っていった。
この子たちなら私に気づいてくれるかも。
「ねぇ! たっくん、まーくん! 話を……ッ!」
――話を聞いて。
そう言おうとしたが言葉に詰まった。
元気よく走り回るあの子たちの視界に、一瞬も私は映っていなかった。
おそらく気配すら感じていないのだろ。私の叫びは誰にも届いていない。
子供たちは私の苦痛など露にも知らないのだろう。
そんな暖かい景色に憧憬する。
子供たちは無邪気にはしゃぎながら、人の集まる光の中に駆けて行く。
「たっくん、まーくん! あんまりみんなに迷惑かけるんじゃないわよ!」
遠くで、仮面をつけている私の姿をした先祖の御霊が、私の声で私の口調で子供たちに注意していた。
……なんだ、これは?
もしかして、春香ちゃんと楽しそうに手を繋いでいる仮面の私が、本物なのではないだろうか?
ここで惨めにうずくまっている私の方が、偽物なのではないだろうか?
絶望した私の脳裏に最悪な可能性がよぎる。
しかし、私にはどうすることも出来ない。
時間は容赦無く過ぎていき、気がつくと社の境内に立てられた時計の針は、もうすぐ十時を指そうとしていた。
そこで思い出す。この御霊祭は十時まで。
十時になると、巨大な焚き火の勢いをゆっくりと沈めていって、先祖の御霊をあの世に還すらしい。
まずくないか?
先祖の御霊に仮面を取られて、私は死人のような存在になっている。
もしかして、村長のじいちゃんが迷信で言っていたように、本当にあの世に連れて行かれてしまうのではないだろうか。
ふいに体が浮き上がった。
正確には、足元が消えたというべきだろうか。
履いていた下駄から脛のあたりまで、完全に消えている。
まるで幽霊――。
「ちょっと待って! 待って!! 私は御霊じゃない!」
あの世に連れて行かれる!
私は直感的にそう感じ取り叫んだ。
理不尽な現実に涙が出そうになる。
その悲鳴を、私の姿をした先祖の御霊が見送っている。
真っ白な陶器の仮面のせいで、先祖の御霊の表情は伺えない。
だけど先祖の御霊が、私の方を見て意地悪く笑った気がして、気が変わった。
仮面のせいで表情は見えないが、くり抜かれた目元から覗く双眸に、邪悪な悪意を感じたからだ。
あの私の姿をした先祖の御霊は、私に成り代わるつもりで追いかけてきたのだろう。
だから先祖の御霊はほくそ笑んでいる。
断じてあんなのは私じゃない。
先祖の御霊は私と入れ替わって生き返ったことに満足しているのだろう。
確かに、私には今の状況を打開する何の考えも無い。
だけど……
それでも……
私は、私の信念を声に出して再確認する。
「明日の私は死ね――、」
小学生の頃書いた座右の銘。
これは当時の担任のおじいちゃん先生は、理解してくれなかったが、もう死にたいとかいう類いの悲観的な意味じゃない。
その逆。
未来のことなんて誰にもわからないのだから、明日にどれだけ面倒事を残そうが、今日を全力で楽しむ。
明日に持ち越した苦労は、明日の自分が死に物狂いで解決すればいい。
日々精進する努力家さんたちには、楽観的だとよく笑われた。
だから、小学生の頃の私は、こう書き直した。同じ意味だ。
「――私は今を生きている」
……だから、先祖の御霊に体を乗っ取られた程度で、あっけなく死ぬわけにはいかない。
やりたいことは、私にはまだ沢山ある。
だから私は、徐々に勢いが萎んでゆく焚き火の火よりも儚く消えそうな体に、全力を込めて叫ぶ。
「こんな短い人生で終わりにされてたまるかぁぁぁ―――――――――ッ!!」
大気が震撼した。
私の全身に活力がみなぎってくる。
あぁ、そうだ。
こんなつまらないところで死んでられない。
生きて明日に繋がなければ、未練しか残らない。
私は叫びながら、先祖の御霊目掛けて走り出す。
もう太ももまで消えていた。
そんなことは関係ない!
先祖の御霊をどうにか出来るのか?
そんなことは関係ない!
どうにかできたとしても、ちゃんと私は生き返れるのか?
そんなことは関係ない!
不確定事項なんて、死ぬかどうかと天秤にかけられたら全部ぜーんぶ関係ない!
「まずはあの気味悪い仮面を、先祖の御霊から引き剥がす!」
先祖の御霊があの世に還らずこの世に残っているのは、あの仮面があるからだろう。
そして、私の絶叫に気づいた先祖の御霊の表情が、驚愕に染まる。
春香ちゃんと繋いでいた手を振りほどき、片手で仮面を抑える先祖の御霊。
その反動で春香ちゃんが突き飛ばされて尻餅をつく。
殴り飛ばす理由がもう一つ出来た。
「こ、こないで!!」
先祖の御霊は、私の形相に悲鳴を上げて後退する。
私の命ばかりでなく、春香ちゃんまで巻き込んでおいて、よく言えたな。
私は奥歯を噛み締めて、出店の横に立っている篝火を手に取り、人ごみの中を突っ切る。
「これはあなたの送り火よ!」
「ッッッ!!」
ズバァンッ!!
我ながら容赦の無いフルスイングだったと思う。
側頭部への強烈な打撃音と共に、先祖の御霊が着けていた仮面の紐が切れ、甲高い音を立てながら土の上に転がった。
仮面が外れたことで、勝負は決まる。
先祖の御霊は、私の顔で失望したような表情を浮かべた。
そして、次の瞬間燃え上がり、あっけなくあの世へ還っていった。
私は肩で息をしながら、地面に転がる私の仮面を拾う。
真っ白な陶器の仮面に付いた土を払い落として、私は丁寧に仮面をかぶりなおす。
そうして、私の世界に光と暖かさが戻った。
消えかけていた体も、すっかり元に戻っている。
仮面をつけたことで、死人ではないと正確に判断されたようだった。
生きてる……。
何とか生き残れた……。
私は安堵でその場にへたり込んだ。
「あ、あーちゃん!? 急に倒れたと思ったら……、大丈夫?」
驚いたあとに、心配するような声をかけてくれる春香ちゃんに、私は苦笑して言った。
「私は、今生きてるね」
私の言葉を聞いて、不思議そうに小首をかしげる春香ちゃんが可愛くて、私は笑った。
今日体験した話をすれば、春香ちゃんはもっと驚いてくれるだろう。
そう考えるだけでなんだか楽しくなってきた。
3
御霊祭の翌日、私は小学生の頃から使っている机の引き出しを漁っていた。
私の記憶が正しければ、ここにしまっていたと思うのだが……。
「あ、あったあった」
端が折れ曲がったノートとノートの間に挟まっていたそれを引っ張り出す。
角が破れているが、まだ使えるだろう。
私は、手のひらで伸ばした和紙を机の上に置いて、文鎮で抑えると、あらかじめ用意してあった筆を取る。
『明日の私は死ね』
やっぱり会心の出来だ。
なんだか殺伐としているところがいい。
生きている感じがする。
そうして、その和紙にふぅーと息を吹きかけて、適当に乾かすと、部屋の壁に画鋲で留めた。
その隣には、小学生の頃書いて、優秀賞を貰ったもう一つの座右の銘がある。
『私は今を生きている』
こうして並べてみると、二つで一つの様な気もしてくる。
それもいいなと思い立ち、今度は縦長の和紙を広げようとした。
ゴト、バシャ。
嫌な音が鳴った。
「ん? ヤバイ!! 墨汁こぼしたぁぁぁ!!」
肘をぶつけて落としてしまったらしい。
私は頭を抱えてテッシュ箱をひっくり返す。
真っ白な部屋の絨毯に致命的な染みがぁぁぁ!!
そうだ水!
水で洗い流さねば!
そうやって、私が慌てふためいているところに、後ろから声がかかった。
「返事がないから勝手にお邪魔するよぉ~。ってえぇ!? あーちゃんそれどうしたの?」
春香ちゃんだった。
なんだかとても恥ずかしい場面を見られたようで、私は赤面しながら自棄になって笑った。
「アハハ、な、なんだろね~? どうでもいいやー、あははははー」
もう真っ白な絨毯は諦めよう。
絨毯が黒くたって、この失敗をネタに春香ちゃんとお喋りするのもいいだろう。
そういえば、まだ昨日の話も詳しくしていなかったっけ。
ならそこから話をしよう。
私は明日死ね……でも、今は全力で楽しもう。
だってそれが一番、有意義だって思えるから。
「あのね、春香ちゃん。実は昨日……」