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義務教育制度が徹底された日本において「質量保存の法則」を知らない者はあまりいないだろう。それを習ったのは中学校だったか、それとも小学校だったか、とっくに忘れてしまった。だから、わざわざ説明するまでもないことなのだ。質量のないものが物質的な影響を与えるわけがないし、不思議な力で心臓が止まることもないはずだ。
だから俺は幽霊を信じていない。
人間の脳は電気信号の交換で動いているという。脳が電気で動くということは、体も電気によって動かされているわけだ。初めて遊園地に行った記憶や大事な人を失った記憶だって、電気信号様のおかげで保存できている。ここで幽霊の正体が電磁波の一種だと仮定すると、全部とはいかないまでも、ある程度の超常現象を説明できることになる。
だから俺は幽霊を否定はしない。否定は。
以前はこのようなスタンスだった。なにしろ怪談というのはどいつもこいつも「うちの部の先輩が~」とか「私のお祖母ちゃんが若いころ~」とかいう出だしであり、「私が体験したことですが~」という話はテレビやネットにしか転がっていない。その内容もテンプレに毛が生えたようなものばかり。リアリティのある話だって『そう演出している』だけという可能性は捨てきれない。
だから俺は、心の奥底でそういう現象の正体をハッキリさせてくれる人間を待っていた。……といってもそれは小学生くらいの頃に抱いていた願望であり、空想が妄想へと変貌していく中で自然と薄れていったのだが。
日羽鳥。
彼女との出会いによって、俺は無邪気だったころの知的好奇心を思い出してしまった。
それに稲井川先輩との遭遇も大きかった。『世界の所有者』に『爆弾』。こんな突拍子もなく小学生にも笑われるような存在よりは、幽霊の方がよっぽど信憑性が高いだろう。……というか、あんな設定がこの世にあることに比べれば幽霊ぐらい可愛いものだ。こう思った俺は、非現実受け入れ態勢を整えた状態で学食へと向かった。
もちろん、走って。
「待ってましたよ」
日羽鳥は既に席についていた。テーブルにはあまり手をつけていない焼きもやし定食が載っている。
「昨日、先輩が私の話もろくに聞かずに無我夢中で食べていたので味が気になったのです。これはまごうことなき絶品ですね」
と言って箸を進めている。あざやかな箸裁きでもやしとキャベツが小さな口の中に交互に運ばれていく。俺も同じ定食を頼んで、席へと向かった。
「……堪能するのはいいが、あまり風評するんじゃないぞ。需要が増えれば供給が追いつかなくなる。それが世の常だ」
「え? もうツイートしちゃいましたけど?」
「おいっ!」
日羽鳥はスマートフォン――言うまでもないが爆発物ではない――の画面を見せた。『隠れた絶品発見! みんなも一度食すアル!』と画像付きでアップされてる。アルってなんだアルって。
「語尾には特に意味はありません」
向こうから答えてくれた。会話しながらも手は止まらない。ヒョイヒョイと、もやし山が一つずつ丁寧かつ迅速に削られていく。昨日の俺もこんな感じだったのだろうか。
「『塵も積もれば山となる』とは言いますが、もやしが積もればポトシ銀山です。西欧諸国もビックリの価格革命再来です」
日羽鳥はここでいったん箸を置き、お茶をすすった。ようやく落ち着いたみたいだ。
「ちなみにポトシ銀山とは一五四七年にラテンアメリカで発見された銀山で、この新大陸から輸入した大量の銀が」
「価格革命を引き起こした。知ってるよ、俺も世界史選択してるから」
俺はまだ食事に手をつけない。四時間の授業を経て胃袋がサイレンを発しているが、ここで定食に手をつけたら止まらなくなるはずだ。そうなる前にこの幽霊談義にケリをつけなくてはならないのだ。
「日羽鳥。食べる前にお前の言っていた話とやらを聞こうじゃないか」
「……なんかそのセリフも悪のカリスマっぽくて寒いですけど、まあツッコまないでおきます」
グ~、と胃袋が悲鳴をあげる。クソっ! こっちは真剣なんだ、邪魔するな。
「お腹を満たしてからでもいいのでは?」
「いや、大丈夫だ。俺はそう簡単に三大欲求に屈する男じゃないんだよ」
「……でしたら、わざわざこの定食を頼まなくてもよかったのでは?」
…………。…………俺の馬鹿!
しかし男には意地というものがある。男性は意図的でなくとも大言壮語を口にしてしまう生き物なのである。
「……本題に入ろう」
「……無理しないでくださいね」
心の内は完全に見抜かれているようだった。俺は見た目だけでも平常を装うことにした。
「確かに、私には叙霊等の技術はありません。しかし霊さんを見、聞き、感じることはできます。この平凡な能力を使って、先輩の『診察』をさせてもらいたいのです」
「『診察』?」
日羽鳥が昨日言ったことを思い出した。俺には『霊障』つまり『傷』があると。
「はい。霊障は物理的に現れる場合もありますが、ここで服を脱ぐわけにもいかないので、今はやめておきます」
『今は』ということは、いずれ脱がなければならないのだろうか。年下の女子に裸を見せるなんて、変態以外にとっては屈辱的だ!
「では先輩、ちょっと左手を貸してください。精神的な霊障を調べるので」
「『精神的な』?」
「霊さんとは魂です。霊さんが見えるということは魂が見えるということです。ですから私は先輩の魂を『感じる』ことができるのです」
見事な三段論法だ。怪しい宗教勧誘に騙されるように俺は左手を差し出した。
「目をつむってください」
「……了解」
左手が柔らかい感触に包まれる。女の子の手はこんなにも温かくて、こんなにも優しいものなのか。女子の手を触る機会なんてないから知らなかった。カイロは手だけを温めるが、異性の手というものは心臓を温める効果も付属しているようだ。……率直に言おう。俺は少なからずドキドキしていた。薄目を開けて日羽鳥を見ると、俺の手をギュッと握ったまま下を向いている。表情は分からな……。
「先輩、目を閉じてください」
「え?」
日羽鳥は下を向いたままそう言った。その顔は見えない。つまり俺の顔も見られていないはずじゃ……。
「早く」
「え、ああ、すまん」
慌てて目を閉じた。どうして目を開けたことが分かったのだろう? 体温の変化? 脈拍の上昇? いや、だとしても「薄目を開けた」ことを瞬時に当てるなんて不可能だ。まさか額に第三の目が付いているわけでもあるまい。
その疑問が晴れぬまま、しばらくして日羽鳥は俺の手を解放した。何も言われなかったが、それが『診察』終了のしるしだと分かったので、俺も目を開けた。周囲の人間が奇異な眼差しでこちらを見ていた。……客観的に見たら、男女が妙な儀式をしている異様な光景だったのだろう。
「先輩。結果から言わせてもらいます」
日羽鳥はどこか落ち着かない様子で言った。
「私の予想通り……いや、予想以上でした。やはり精神的な霊障があります」
「さっさと言ってくれ。そろそろ俺の空腹も限界なんだ」
「……ええ」
やはり日羽鳥の様子がおかしい。冷や汗。緊張。震え。明らかに動揺している。軽く深呼吸をして落ち着いてから、こう言った。
「今の先輩は先輩ではありません。先輩は先輩でなくなっているのです。なくなりつつあるのです」
――意味が分からない。それは俺の成績がピンチで留年の危機が迫っているということだろうか。だから俺は学年が下がり『先輩』でなくなる、と。
違う違う。何を考えているんだ。自慢じゃないが俺の成績はそんなに低くないし、第一そんな個人情報を日羽鳥が知っているわけがない。個人情報保護法万歳だ。
「先輩、慌てるのはまだ早いです」
日羽鳥にそう言われた。慌てるのはまだ早い。普通はポジティブな意味で使われるこの言葉が、俺には絶望的に聞こえた。
「精神的な霊障には大きく分けて二つの種類があります。障害型と憑依型です。圧倒的に多いのは前者。これは霊さんが人に害悪をもたらすパターンです。例えば自殺や事故の多発地域。精神の穴につけ込み、自殺を後押ししたり幻聴などを聞かせたりします」
「け、けっこう専門的な話なんだな。どっかの師匠にでも教えてもらったの?」
「いえ、これは持論です」
障害型も憑依型も造語らしい。感心してしまったじゃないか。
「そして後者。これは霊感が非常に強い人がかかる場合が多いです。イタコが一番分かりやすい例ですね。霊さんが生きている人に何かメッセージを残すのも、このタイプにカテゴライズされます。ちなみに私は意図的にはできません」
「憑依型、ねえ……」
「シャーマンキング型とも言います」
「前者とテンションが違いすぎる!」
ふむ。だが意図的にできるようになりさえすれば漫画のような超能力者に仲間入りするわけか。そう考えると夢のある話だと思った。だが、話を聞く限り俺のタイプはおそらく……、
「先輩は後者です」
「えっ?」
なら大丈夫じゃないか。日羽鳥によると、幻覚を見るようになるわけでも死にたがりになるわけでもないらしいし……。
と、ここで先ほどの言葉を思い出す。
「……確かに、先輩は狂い死にすることもなければ早死にすることもありません。しかし先輩の精神は『先輩でない誰か』へと移行しつつあります」
「移行しつつあるって、どういうことだ?」
「分かりやすく言うと、『浸食』されているんですよ」
浸食。それは俺の不安を煽るのに最適な言葉だった。鉄が錆びていくように。食べ物がカビで覆われるように。俺の精神は上書きされているのだというのだ。
「……浸食って、一体どのくらい?」
恐る恐るそう訊いてみた。日羽鳥はジッとこちらを見据えて、答えた。
「見たところ、四割ほど」
もったいないことだが、それから焼きもやし定食は一向に喉を通らなかった。
*
今日は部活を休むことに決めた。ここ最近起きている日常の崩壊を忘れるために安藤の顔を見ておこうとも思ったが、それより先に俺にはやることがあった。
稲井川先輩だ。あの人に会って、このことを相談したかった。昨晩は結局、あの妙な能力を使ったのか家族の前を堂々と横切って帰っていったが、ここ二日の経験からして今回も会えるに違いない。この際先輩が何者であろうがどうでもいい。医療の世界でもセカンドオピニオンという制度があるのだ。一人の判断を安易に信じるのではなく、別の方角からも意見を取り入れるのが賢いやり方だ。
授業がすべて終わって放課後が訪れた瞬間、俺は教室中の誰よりも早く教室を出た。そして走り出した。部活に行く生徒。早々と帰ろうとする生徒。群衆の間を縫うように走った。ぶつかる危険? 後ろからの怒号? 変な奴を見るような目? 知るか知るか知るか! 俺の抱えている『不安』はそんなもんよりずっとずっと大きくてデカいんだ!
思えば一昨日、安藤と文化祭の話をしたところで俺の日常は終わってしまったのかもしれない。廊下を駆ける俺の脳裏に、先ほどの日羽鳥の言葉の続きが思い出される。
『先輩の精神は既に四割が霊さんのものになっています』
『これは推測ですが、霊さんは肉体を手に入れて第二の人生を歩みたいのでしょう』
『輪廻転生、ですか? それに関しては何とも言えません。私は霊さんが生まれ変われるかどうかまでは分かりませんから』
『先輩が自分自身の変化に気づかないのも無理はありません。六割の精神と「記憶」が先輩の魂を繋ぎとめているからです』
『もし五割を超えたらどうなるのか。これが一番重要です』
『先輩の精神は、恐らく霊さんと接触するたびに「交換」されています』
『それが半分を超えると、いわゆる「臨界突破」と言いますか、魂や意識までもが精神につられて「交換」されてしまいます。そうなればもうジ・エンドです。よほどの能力者でも先輩を元に戻すことはできません』
『あ、あと、昨日放課後を使って近場にある霊能関係のお店を回ったんですけど』
『全部インチキでした』
もしかして俺は騙されているのか? テレビのドッキリのように。仕掛け人は稲井川先輩と日羽鳥。安藤や母さんも協力しているのかも。今もどこかにカメラが仕掛けられていて、俺の姿が全国のお茶の間で放映されているとしたら……。
「くそっ! くそっ! 何で俺がこんな目に遭ってるんだよ!」
ブツブツと言っているうちに、靴箱の前まで来ていた。
武藤武道。
この名前が俺のものでなくなるかもしれない。嫌いな名前だが、これが俺の象徴であるのは事実だ。いや、事実『だった』と言わなければならないのか。
「おいおい、お前さんよ。理由もなく部活動をサボタージュするのはルール違反だぜ。ちゃーんと部長様に了承してもらうんだな」
「…………思春期特有、アイデンティティ崩壊のため帰宅します」
「ならんっ!」
制服を着た稲井川先輩が俺の後ろに立っていた。振り向いた俺の瞳の中に、無邪気に笑う先輩の顔が飛び込んで来た。
「あの、先輩。ちょっと相談したいことがあって……」
「おお、奇遇だな。アタシもお前さんに訊きたいことがあったのさ」
先輩が、俺に? いったい何が知りたいというのだろう。
「お前さんが自分の名を嫌いな理由を教えてくれよ。そしたらアタシも可愛い後輩の悩みを存分に聞いてやろうじゃねえか!」
俺の名前、武藤武道。この名を嫌いになった理由。それは……、何故だ?
俺は記憶を過去に飛ばした。もはや俺が信用できるのは自分の記憶だけだからだ。――思い出を、歴史を、昔を。全部記憶の海から引っ張り上げて、手探りで探す。どこだ。俺の名前はどこだ。――いつの間にかその作業は俺自身を探す作業へと変わっていた。小さいころ見たアニメ。好きになった女の子。嫌いだった動物。どうでもいい会話。俺の部屋。人との出会い。退屈な中学生活。テストの点数。第二次反抗期。痛かった怪我。書き上げた小説。高熱にうなされた夜。期待はずれの修学旅行。初めて行ったカラオケ。携帯を買ったこと。得意科目。お気に入りのガム。理不尽だったこと。売ったゲーム。高校入試。何度も見た映画。よく遊んだ公園。苦手だった漢方薬。失くした財布。去年の文化祭。眠たい授業。いろんなニュース。サンタからのプレゼント。隠された靴。連続ドラマ。図書室の匂い。忘れた宿題。怒られたこと。諦めた可能性。長年の疑問。壊したおもちゃ。
――嫌いな名前。
「俺は自分の名前が嫌いです。何故かって、ほら、苗字と名前の両方に『武』って入ってるじゃないですか。名前だけは強そうなのに、俺、勝負事ってめっきり弱くって。スポーツもゲームも喧嘩も、他人に勝った例が無いんですよ。だから――」
「だから、なんだい?」
声が震えている。気付いたんだ。俺は気付いてしまったんだ。過去の記憶と今の自分の不連続性に。俺以外の誰も理解できないくらい小さな、しかし重要な誤差に。
「だから――俺は自分の名前が嫌いなんですよ」
「くだらねえな」
「……ですよね」
そう言って自分の顔を触る。口角は上がり、ニヤニヤと笑っている。しかし俺の顔は、何故か濡れていた。
*
稲井川先輩と一緒に文芸部室までやってきた。いよいよだ。俺が扉に手をかけたとき、稲井川先輩が言った。
「あー、そういや例の爆弾について、まだ話してないことがあるんだよなー」
「ええっ! 何ですかそれ、早く言ってくださいよ!」
「んー、明日じゃダメかい?」
「今で」
先輩は少し困った顔をして、腕を組んだ。
「じゃ、部長権限だ。明日までは教えない」
「……職権乱用って言うんですよ、それ」
これ以上言っても無駄な気がしたので、構わず扉を開けた。
中にはいつもどおり安藤が座っていた。――『いつもどおり』過ぎるほど、いつもどおりだった。
「よう安藤。連れてきたぜ、部長を」
安藤は俺を見、そして稲井川先輩を見た。眼鏡のズレを直し、体をこちらに向ける。
「とうとう頭がおかしくなったか? 本の読み過ぎは文芸部員としては勲章モノだけど、君はあのライトノベル以外の本も読んだほうがいい」
「なんか顔色悪いぞお前。働きすぎじゃねえの?」
「君よりは正常だと思うけどね」
「いや、ここにいるんだって。本当に見えないのか?」
しつこく思ったのか、安藤は語調を荒げた。
「だから! 僕にはそんなの見えない!」
「嘘だな」
間髪入れずに稲井川先輩が言った。安藤の体が一瞬だけ痙攣する。
「いやー、アタシも久しぶりに後輩に会えて嬉しいぜ。『会えるはずのない』後輩に会えてスゲー嬉しいぜ。元気にしてるみたいだな、お前さん」
「…………」
沈黙。安藤は口を真一文字に結んで沈黙していた。スッと先輩が机の上に手を伸ばし、安藤の前にあった書類を奪い取った。出会った時の事といい、人の物を盗むのが好きな人だ。
「えーっと何々? 『部活動 生徒会予算案』、『文芸部 部費予算申請書』。お、これはちゃんとした『文化祭参加申し込み用紙』じゃんか。……去年のだけど」
先輩はおどけた子供のようだった。ごっこ遊びのヒーローみたいにも見えた。対して安藤は黙ったまま、何かを噛みしめるような顔をしていた。アイツの口の中にあるのは苦虫か敗北か、あるいはそのどちらもか。
「いやー、懐かしいな去年の文化祭。あまりにも売れないから三人で仕事ほったらかして出店行きまくったよなあ」
「……あなたの食費を負担したのは僕でしたけどね」
安藤が諦めて口を開いた。言葉を発した後、深い溜息が床を覆うかのように出てきた。
ちなみに俺はその出来事を覚えていない、否、思い出せていない。ただ「そんなことがあったような気がするなあ」という感覚があるだけだ。
「まあ気にすんなよ。お前さんの金は、他でもないこのアタシのものなんだからさ」
「いい加減、返してくれませんかね」
「お前さんにゃ必要ないだろう。もう死んでんだから」
もう死んでんだから。その言葉はすぐには消えず、部室の中に残留していた。しばらく沈黙が続く。室内にはかすかな鼻息が聞こえるのみだ。先ほどの言葉が大気に混じって薄くなったころ、安藤はゆっくりと立ち上がって窓の傍に行った。外からはいつもと変わらない運動部の声が聞こえてくる。
「で、今のお前さんたち二人は、『どっちをどう呼べば』いいんだい?」
ヒヒッと、先輩はイタズラっ子のようにそう笑った。
「僕はまだ安藤弘貴ですよ。……連休初日、あそこの交差点の、不幸な事故で命を失った、ね」
安藤も先輩につられたのか、自虐的に笑う。俺はただポツポツと交わされる二人の言葉を聞くだけだった。
「そういやアタシ、ここ来るまでの間に話は武藤から大体聞いてるんだけどさ、お前さんにもちょっと質問があるんだ。いいかい?」
「構いませんよ」
「そうか。サンキュな」
俺も安藤に訊きたいことはあった。『ちょっと』どころではない数の質問を。なんで死んじまったんだとか、幽霊になるってどんな感じだとか、こうまでして生きたかったのはどうしてだとか。しかし、どれから尋ねるべきか迷って躊躇した。そうしているうちに稲井川先輩が訊いた。
「幽霊って、いると思うか?」
それに対する安藤の答えは簡潔だった。
「いえ」
幽霊を信じない幽霊。なんて滑稽な姿だろう。しかし今の俺も安藤のことをとやかく言うことはできない。なにせ俺自身も『自分を信じれない自分』に違いないのだから。
「その理由はなんだい?」
「見たことがないから、ですよ。僕は自分以外の幽霊という奴を生まれてから一度も見ていないんです」
「そりゃあ、もっともな理屈だ」
先輩は望んでいた答えが得られた、とでも言うようにクルリと背を向けて入口の方へ歩いていった。
「え、先輩、もういいんですか?」
急な退場だったので、俺は思わず大声で言った。先輩は首だけをこちらに向けて答える。
「アタシは懐かしい顔を見れただけで満足さ。――ああ、そうだお前さん。こいつを返さなきゃいけねえんだった。危ねえ危ねえ、忘れるとこだったぜ」
先輩は制服の中に手を入れ、いくつかの文庫本を取り出した。
『僕の妹は背後霊! 壱!』
『僕の妹は背後霊! 弐!』
『僕の妹は背後霊! 参!』
「そして……ほらよ。太っ腹スレンダーのお姉さんからの差し入れだ」
そして新刊の『僕の妹は背後霊! 四!』を出して、俺に手渡した。発売日は明日のはずだが、どうやって手に入れたのだろう。それより、その三冊だって貸した覚えはない。……まあ気にしても仕方ないか。稲井川先輩だもんな。
俺は帯を付けたまま本を読むタイプなので、発売直前の新刊はもちろん全巻に帯が付属している。そこにはこう書かれていた。
『ロリコン=「年端も行かない少女に異常な愛情を覚える人」にご注意を!』
『肉親同士の恋愛を「肉体」という殻を破ることによって無理やり合法におさめた革命的革命児登場!』
『税込六〇九円でこの二一世紀に新たに誕生した伝説を体感できる!』
他にも、表紙の折り返しや巻末の解説にも、以前俺が語った言葉がそっくりそのまま載っていた。この本に書いてある文章だけが、俺の語った言葉だった。
「読みやすかったから一気に読んじまったぜ。けっこう面白いなあこの本。……だけどよお前さん。本好きって輩は普通、同じジャンルの本を読むもんだろ? それに反して異様だったぜ、お前さんの本棚は。夏目漱石に谷崎潤一郎、星新一ときて急に妹モノのラノベが並んでるんだからなあ!」
ハッハッハッハ! と高笑いをしながら、先輩は部室を出ていった。ほんと、笑い声がうるさい人だ。
窓辺で黄昏たままの安藤に声をかける。
「安藤。いわばこの部屋はお前の陣地だったってわけか。お前が俺をタッチできても、俺はお前をタッチできない。小学校の時よく遊んだよな……って、その時お前とは会ってないか」
この部屋で俺は、安藤と精神を繋げていた。……それを自覚している分有利だった安藤は、精神の交換をコントロールすることで俺の記憶や言動を操ることができた。俺が稲井川先輩のことを忘れていたり、安藤の死を忘れていたのはこういう理屈だろう。俺たちは繋がったままであるため、記憶はまだ戻ってきていない。そして俺はこの現象に気付きもしないから、部室で書き換えられた事実を『当然のこと』として受け入れる。
「最初のころ、君は違和感を感じているようだった」
安藤は外を見つめたまま言った。
「だけど、その違和感も三割を超えたところから消えたみたいだった。意識的か無意識的かは知らないが、恐らく君は違和感に対して折り合いをつけたんだろう。僕もそのころから君を僕に近づけようとし始めた」
「安藤」
「なんだい」
安藤の真後ろに立って俺は言う。日はだんだんと暮れて、狂気的なオレンジ色が目に染みた。
「お前って、ロリコンだったっけ」
「ああ、そうだったよ」
意識しなくても過去形で言ってしまう自分がいた。
「きっかけとかあるのか? いや、ほら『俺』ってネットとかの影響でロリコン名乗り出す奴とか滅茶苦茶嫌いだからさ」
「妹」
傍から見れば、俺たちは夕日に照らされながらバカな話をしてるバカな高校生にしか見えないだろう。それも全然違っちゃいないが。
「妹が、……ほしいんだ」
「それだけか?」
「妹が、…………元気でいてほしいんだ」
――それから安藤が語ったのは、幼くして離れ離れになった兄妹の話だった。悲しい悲しい家族の話。それは赤の他人に聞かせるべき話じゃないし、聞かせたい話でもないので内容については割愛する。聞き終えた俺はなんとも言いようがなかった。図々しく「可哀想だね」といってどうなる。同情して何になる。偉い人の公演会じゃないんだ。とてもじゃないけど感想なんて言いようもない、そんな話。だから、ただ何も言わずに聞いてくれることを安藤も望んでいただろう。下手に涙を流されるより「俺にはどうでもいい」と思ってくれる方が楽なんだろう。
唯一分かったことは、安藤に『願い』があったことだ。たとえ不可能性に満ちてようが、『願い』は『未来』を生むらしい。畜生。
俺には安藤の背中しか見えなかったので、その表情は分からない。
裏を返せば、安藤も俺の行動が分からないわけだ。
――やったことはないが、俺にだって出来ないことはないだろう。
もとから俺は自分自身が嫌いなんだよ。だから、きっとこれが正しいんだ。
記憶を根元から掘り出したように、今度は精神を、意識を、魂を引っ張り上げる。そして目の前にあるこの背中に向けて放出する。
脳裏に浮かんだ。俺の『俺自身』が記憶を置き去りにして去るのが。
俺の中に空いた穴。そこに吸い込まれる『安藤』と一瞬だけ目が合った。
五割一分。
俺が俺でなくなった瞬間だった。