1-3
*
「たしかに俺はロリコンだ。ロリータコンプレックスだ。少女趣味とも呼ばれている。その特徴は『年端も行かない少女に異常な愛情を覚えること』。……うん、そうだ。その通りだ。だが我々の信念は一言で説明できる代物ではないということを今からお前に教えてやろう。まず、昔からこのような人々は自分たちの嗜好を隠して生きてきた。さらけ出した途端に犯罪者扱いされて人生が台無しになってしまうからだ。しかしアニメや漫画、ネットの影響でロリコンを名乗る人は近年爆発的に増加した。かくいう俺もアニメの影響を受けなかったといえば嘘になる。特にネットの影響は絶大だ。匿名性をいいことに、これまで表立って出てこなかった『需要』が明らかになった!」
その日の放課後。
部室に設置されている黒板の前で演説しているのは他でもない俺である。
そしてもう一人の文芸部員、安藤弘貴は文化祭関連の書類とにらめっこしている最中だ。
「需要にこたえるためライトノベル業界は新たなターゲット層に狙いを定めた! そしてここ数年、激流のごとき勢いで成長をとげた『妹モノ』ジャンル。その流れの中でひときわ美しく照り輝く傑作こそがこの『僕の妹は背後霊』シリーズなのだ! この作品の魅力として真っ先に挙げられるのは既存の属性二つを合わせ持ったヒロインだろう。しかし作品の特徴はこれだけではなく、なんとこの作者は太古の昔よりタブーとされていたテーマである肉親同士の恋愛を『肉体』という殻を破ることによって無理やり合法におさめた革命的革命児なのだ!」
ここでやっと息を整えた。おでこに浮かんだ汗を拭い、話を再開させる。
「詳しい内容については実際に読んでくれと言うしかあるまい。ネタバレこそ愚行中の愚行! 鬼畜の所業というに相応しい行為! それ以前に、あの物語を俺の口で一から十まで説明するなど不可能もいいところだ! あちこちに散りばめられた愛の結晶を詳細に語っているうちに日は三度沈むだろう! さあ読め! 税込六〇九円でこの二一世紀に新たに誕生した伝説を体感できるのだ!」
「君って絶対友達少ないでしょ」
安藤が書類に目をやったまま呟く。
「まあ今の時点で仕上げておかなきゃならない書類は全部片付いたし、今日ぐらいは君の話に付き合ってやろうじゃないか」
安藤は書類の束をトントンと揃え、それを鞄につめながらそう言った。あいつがそんなことを言い出すなんて珍しい。明日は雨でも降るんじゃないだろうか。
「勘違いするなよ。創作のアイデアは日常の会話から生まれることも少なくないんだ。よって、ただの雑談も部の立派な活動に含まれるのさ」
「なんだそのセリフ。お前ってツンデレだったのか?」
「なっ!」
やつの顔が赤くなった。おいおい、まさか図星じゃないだろうな。
「安心しろ。お前のデレなんざ誰も欲しがらねーよ」
そんなもん、俺にとっては百五十円のほうがずっと価値がある。焼き魚定食と比べようものなら月とスッポンだ。
「まあ雑談ってことは、さっきの話の続きでいいだろ。もう一つだけこの作品の魅力を紹介するとしたら――」
「ロリの話以外」
殺気を感じた。一瞬で態度を豹変しすぎだよ、お前。
「…………う、うん。そだね。いざ、文芸部らしく夏目漱石や谷崎潤一郎について語りあかそうじゃないか!」
「君はどちらもろくに読んだことないだろう」
鋭い指摘だ。さすがは『文芸部一の三白眼』と呼ばれるだけのことはある安藤だ。
そう言ってみると
「じゃあ君は文芸部二位の三白眼だね」
と突っ込まれた。せめて何かしら一位になれる称号をくれよ……。って、あれ? 『二位』という響きに少し違和感を覚える。――ああ、そうだ。
「安藤。昨日あの後、部長に会ったぞ」
「え?」
すっかり二人でいることが日常となっているが、この部にはもう一人メンバーがいるではないか。俺はその事実を昨日確認したはずである。
安藤は俺の言葉を聞いてポカンとしている。まるで「こいつ何アホなこと言ってるんだ?」とでも言いたげな表情だ。彼はずっと実質的な部長の仕事をしてきたばかりに稲井川先輩の存在を綺麗に忘れ去っていたのである。まあ無理もない。部活に来たこともない幽霊部員を忘れてたからといって責める人は少ないだろう。
だから俺は昨日の出来事を事細かに話した。小銭を散らかしたところから、家に帰ってあのスマホ爆弾を触ってみたところまで。稲井川先輩がいかにケチで守銭奴であるかについては、少し誇張して語ってやった。
――しかし、話を聞いた安藤は
「それは中々面白そうなストーリーじゃないか。で、オチはどうなるんだい?」
と言った。俺はまず、自分の発言に何か問題がなかったかを疑った。たしかに大げさな比喩を用いて先輩の金に対する執着を説明したが、そこ以外に特に問題はなかったはずだ。
ということは結論は簡単。安藤の読解力不足である。普段から本ばかり読んでるせいで現実と仮想の区別が曖昧になりつつあるのだ。ダメだこいつ、早く何とかしないと。
「おいおい安藤。これはフィクションじゃないぞ。実在の人物・団体・事件とダイレクトリンクしている話なんだぞ。『五体不満足』にひけをとらない程のリアリティあるノンフィクションなんだぞ」
俺は今「こいつ何アホなこと言ってるんだ?」とでも言いたげな表情をしていることだろう。というか言いたい。お前は馬鹿かと。
本気でそう言おうと口を開きかけたとき、俺より先に安藤が言った。呆れたような顔で。
「いやいや、だってさ、稲井川先輩はとっくに亡くなってるんだよ。僕らが一年の頃、トラックに轢かれて」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」
*
自販機前には誰もいなかった。紅く燃える夕焼けは昨日と変わらない色で俺を照らしている。今日は無性に喉が渇いたな。部活で喋り過ぎたせいだろうか。でもここは昨日の損害を考慮してグッと我慢することにしよう。……いや、その分は昼飯を節約したことでチャラになったんだったな。……。
――先輩は、死ぬより酷い目に遭うかもしれないんですよ!
日羽鳥の声が頭の中に蘇り、反響する。
死ぬより酷い目、というのは何だろうか。……いや、幽霊話をまるまる信用したわけではない。テレビの特集は全部作り話とか合成写真とかで、視聴率目的の演出をしているだけなのだ。コンビニの本棚に置かれている体験談マンガも同じ。幽霊とは一部の人間が利益を得るための材料でしかないのだ。霊能力者なんて小説家とそう変わらない。客に架空の幻想を供給して、安心させるか感動させるかだけの違いだ。
百円玉を自販機の口に半分だけ入れる。押し込みはしない。手を離すとバランスを失った硬貨が腹の中に落ちてゆく。
チャリン。ピッ。
コーヒーを飲みたい気分だったが、学食の出来事を思い出したせいで節約をしなければならないような衝動に駆られた。コーラのボタンを押す。もしかするとまた蜃気楼のように現れるんじゃないかと身構えてはいたが、ただそよ風が吹くばかりであった。
――いやいや、だってさ、稲井川先輩はとっくに亡くなってるんだよ。僕らが一年の頃、トラックに轢かれて。
恐怖という感情は一歩遅れてやってくるものだ、と何かで聞いたことがある。いつも見ているはずの夕暮れが、どこか余所からきた異質なもののように感じられて、俺は自分の今の感情が恐怖なのだと知った。
*
「……って何やってんですか先輩」
帰宅して自転車に鍵かけて「ただいま」って言って自分の部屋まで歩いて「とりあえず横になろう」って扉を開けたら何かいた。座敷童ではない。仮に座敷童だとしても新種の座敷童だろう。少なくとも俺はタンクトップと短パン姿でビール飲んでる妖怪なんて見たことがない。
「ういーっす!」
「いや、『ういーっす』じゃなくて」
妖怪……稲井川先輩は軽快にあいさつをした。頬をほのかに赤く染めて、俺のベッドに腰掛けている。足元には大量の空き缶と、いずれ空き缶になるであろうビール缶。
「って、先輩まだ未成年でしょ!」
「ガッハッハ! いつの時代もガキが酒飲むこたあ止めらんねえってことよ!」
気のせいか笑い方も豪快になっている。そういや今日の小テストでこんな感じの四字熟語を習ったっけ。ええと……。
「……プハァ。いいねえ、こう男の部屋で飲む酒ってのも」
「『男の部屋』なんて表現はやめてください」
思い出した、豪放磊落だ。俺の部屋のアルコール濃度を上げながら先輩は言う。
「どうだ? 学業はストレス溜まるだろう? 時にはこうやって発散することも大事だぜ。ほれほれ」
よろよろと立ち上がり、ビールを押しつけてくる先輩。拒んでもグイグイ押し付けてくる。先輩、ビールと一緒にその豊かに実った胸部も押し付けているのはわざとでしょうか。押し売りセールスの一種なのでしょうか。
「い、いりませんって! ストレスケアなら牛乳でまかなってますから!」
「あのなあ、最近の牛ってのはビール飲まされて育ってんだぞ? 家畜の排せつ物から間接的に飲む酒がうまいワケねえだろうが!」
「ビール飲むのは肉牛ですし、ミルクは排せつ物なんかじゃありませんし、何よりそのセリフは全国の酪農農家にケンカを売っています!」
「ああん?」
さらに胸部……もといビールを体に押し付けてくる。缶から中身が飛び出して、ジュワっと音を立てて床に染み込んだ。酒臭い息が俺の前髪を揺らした。
「なんだお前さん、アタシの酒が飲めないってのか? ああ?」
「飲めません!」
「はあ~。法律に縛られるなんて、まったくつまらん男だなあ」
「いえ、九九%俺の意思です!」
というか何でこの先輩は俺の家を知っているのだろう。それにどうやって部屋まで忍び込んだんだ? セキュリティ的対策を打つ必要がある。なるべく早急に。
「いいから飲めよ」
「それ以上しつこくすると学校に連絡しますよ」
「い・い・か・ら・飲めえええ!」
ブガッ! っと妙な音を立ててビール缶が俺の顔面にヒットした。慣れない匂いのする液体が顔面から制服へと伝わっていきシュワシュワと泡を立てる。そして先輩は体当たりするように俺にぶつかってズルズルと倒れこんだ。押し返そうとしたが……う、動かない……。女性には失礼だが、重い! 缶が床にカランと落ちて、大きなシミを作る。ああ……唯一のプライベート空間がどんどん汚されていく……。
そのとき、遠くから聞きなれた声が飛び込んできた。
「武道ー? なんか大きな声がしたけど大丈夫ー?」
「か、母さん!」
まずい! 今の状況を見られたらタダじゃ済まないことは確かだ。飲酒に不法侵入……これだけなら先輩一人の責任だが……。
不純異性交遊。
その単語が頭に浮かんだ。先輩はだらしない格好で泥酔している。押し倒されている俺は完全に被害者なのだが、この状況を第三者が見たら男が女を酔わせてイケナイことをしている図に見えることだろう。……それはまずい。非常にまずい。今すぐ部屋を出て母さんを止めなければ!
「ど、どいてください先輩! この状況はいろいろと問題です!」
「…………Zzz」
寝てやがる。
「起きてください! ほら、母さんの足音がもうそこまで来てるんですよ!」
「…………むにゃむにゃ、グ~」
「今明らかに口で『むにゃむにゃ』って言いましたよね!? 物凄くわざとらしいですよ! 『起こしてください』って言ってるようなもんじゃないですか!」
コンコン、とノックの音が響く。死刑宣告。まさにそう呼ぶにふさわしい地獄からの呼び鈴だ。ガチャリ、と冥界の門が開く。……終わった。とうとう終わった。母さんの背後に鎌を背負った死神の姿が見える。すごいなあ。社会的な死を担当する死神もいるんだなあ……。
「武道、どうかしたの?」
「……いいさ。煮るなり焼くなり好きに――」
途中でトントン、と肩を誰かに叩かれて言葉を止めた。稲井川先輩だ。覆いかぶさった姿勢のまま、いつの間に用意したのかメモ用紙をカンペのように見せてきた。……やっぱり起きてたんじゃないか。
『いつも通りの返事でいけ』
メモにはそう書いてあった。……今更ごまかしたって無駄だということが分からないのだろうか、この人は。
でも、逆境でこそ諦めないのが大切なのかもしれない。とりあえず先輩の指示に従うことにする。
「ええっと……勉強してたら……急にゴキブリが出てきて、それでビックリしてさ。……ハハハ」
いったい何を勉強していればこんな格好になるというのか。保健体育か。保健体育なのか。
「あら、それは大変だったわね」
「う、うん。もう追っ払ったから大丈夫だけどね」
「ふーん。それじゃ、あと二十分くらいしたらご飯にするから」
「うん……分かった」
「……にしても、この部屋なんだか臭くない?」
「え! そ、そうかなあ?」
母さんはそのまま、何事もなかったように去った。……肉親ながら心配になってきたぞ。どこの世界に息子が女性と絡まってる姿を見て眉一つ動かさない母親がいようか。いるわけがない……はずだ。
母さんが離れていく音を確認してから、先輩はやっと起き上がって俺を解放した。顔からは赤みが消え、酔いも冷めているようだった。
「いやー、危なかったなーお前さん。アタシがいなけりゃ大変なことになってたぜ」
「そもそも先輩がいなかったらこんな事態に陥ってませんけどね。……いったいどんな魔法を使ったんですか?」
ハンッ、と先輩は嘲笑した。
「馬鹿言っちゃあいけねえよ。この世に魔法なんかあるわけねえだろ」
「じゃあ……さっきの芸当は何ですか」
「あれは単純さ。お前さんの部屋の映像情報をピッタリ二十四時間前に前に設定し直しただけだよ。だからアタシは喋るわけにはいかなかったし、酒の匂いも誤魔化しきれなかったってわけだ。だからお前さんが昨日この時間に自室にいなかった場合は、母親は誰もいない部屋を見て勝手に『なんだ空耳か』と呟くんだろうぜ」
……それを魔法と言わずして何を魔法と言うのか、是非ご教授願いたい。
「まあ今回はアタシの機転の勝利、ってことだな! ハッハッハッハ!」
「『今回は』って、またウチに来る気なんですか!」
「アタシはそういう女さ!」
「単なるぬらりひょんアピールですよソレ!」
稲井川先輩はその後ひとしきり笑って、今度こそ本当に眠りに落ちていった。俺のベッドで。
俺はビール缶を片づけてシミを拭き取ったあと、リビングへと向かった。先輩には布団を頭までかけているので、誰かが部屋に入っても大丈夫だと思う。……多分。
本当に迷惑な人だ。
――迷惑な、『人』……?
*
夕食をとって、風呂に入る。今日は色々なことが起こった(もとい、起こっている)せいか普段よりずっと食欲もあり、疲れも溜まっていた。酒臭くなった部屋でグースカ寝ている先輩のことを思うと頭が痛くなるが、風呂くらいそんなこと忘れてリラックスしよう。
……と思っても、意図的に考えないということは難しいものである。俺はさっきの会話を思い出していた。
『馬鹿言っちゃあいけねえよ。この世に魔法なんかあるわけねえだろ』
俺はこの言葉に対して、本当はこう言いたかったのである。
――じゃあ、幽霊はいるんでしょうか。
幽霊がいるかどうかなんて、正直俺には判断しようがない。日羽鳥はいると言うが、それを証明したわけじゃない。でも稲井川先輩なら――。
「幽霊? ああ、いるよ。アタシがそうだもん」
とか言ったりして、いとも簡単に、赤子の手を捻るように世界の常識を捻じ曲げてくれそうな予感が――。
……いや、何馬鹿なことを考えてるんだ俺は。幽霊が金盗って爆弾くれて酒飲んで不法侵入して魔法もどきの術を使うなんて、そんな漫画みたいなストーリーが現実にあってたまるか。俺の見てきた世界はこんな奇想天外なものじゃなかったはずだ。
……なんだか、頭の奥からどんどん不安が押し寄せてくる。……俺だけだ。俺だけしか稲井川先輩を認識していない。なら、あの盗られた金は? 床についたシミは?
――妄 想?
なら、今の俺の部屋にいるのは……? いや、本当に『いる』という確証が持てるのか?
「……馬鹿馬鹿しい」
そう吐き捨てる。俺はすでに、何が本当で何が嘘なのか判別できていなかった。ただ、この非日常の流れに身を任せていた。
風呂から上がると、脱衣所に置いていた携帯電話がバイブを鳴らしながら光っていた。知らないアドレスだ。迷惑メールかとも思ったが、一応文面を確認してみる。
『こんばんは先輩。日羽鳥です。知り合いをたどって先輩のアドレスを調べさせていただきました。すいません(それにしても先輩、友達が少ないんですね。こうしてコンタクトを取るのに随分苦労しました)。お昼は途中で先輩が帰ってしまいましたが、まだ話したいことがあるので、明日のお昼もご一緒させてもらって構いませんでしょうか?』
括弧の中は余計だ――とだけ打って返信した。一分もしないうちに携帯が震えた。
『では明日のお昼、今日と同じ席でお願いします。お早めに来てくださいね』
こいつは俺の返事のどこから肯定の意志を読みとったのだろうか。百八台高校の国語教師陣にクレームを入れる必要がある。
どんな返信をしても無駄だと分かったので、俺はそのまま携帯を閉じた。
*
部屋に戻ると稲井川先輩が起きていて、本棚を物色していた。その中から『僕の妹は背後霊! 壱!』を取り出してパラパラと中身をめくっている。
「先輩、単刀直入に訊きます」
反応は無かった。ただかすかにページをめくる音がするだけだった。
「稲井川先輩。あなたは幽霊ですか」
我ながら頭のおかしい質問だと思う。もし俺がこの質問をぶつけられたら、そいつを前と同じような目で見ることは決して出来ないだろう。
先輩は本を静かに閉じて、ジッと俺の目を見つめた。先輩の瞳の奥は、髪の色と同じく深い深い紅色だった。
「あのなあ。普通そんなことよりも先に訊くことがあるだろうに。どうやってここに入ったーだの、昨日のスマホは何なんだーだの、部長の癖にサボらないでくださいーだの」
「やっぱ気付いてたんですね。俺が後輩だってこと」
「ったりめーだ。アタシを誰だと思ってるんだ?」
「そういう先輩こそ、自分が何だと思っているんですか?」
質問に答えろ。俺の不安を解消させろ。思いっきり叫びたい気持ちを抑える。
「アタシはアタシ。稲井川非という一つの存在さ」
その曖昧な表現に文句を言おうとした瞬間、
「で、お前さんはお前さんを何だと思っているんだい?」
先輩のターン、ということらしい。まさか自分の部屋の中で質疑応答をするはめになるとは。昨日までの自分は果たして予想できただろうか。
「俺は俺です。……武藤武道という一人の人間です」
「フーン。……それだけかい?」
やはり自分の名前を言う直前に言葉が止まってしまった。言った途端に背中がむず痒くなる。
「百八台高校二年A組。文芸部所属。その本を見たなら分かると思いますけど、どこにでもいる普通のロリコン野郎ですよ」
次はこちらの番。
「先輩は何者なのか、ちゃんと俺にも理解できるよう懇切丁寧に説明してください」
先輩は勉強机の椅子を俺の真正面まで引っ張り出し、その上に足を組んで座った。なんだか秘密組織の幹部のようなポーズだ。
「アタシは色んな奴から色んな名で呼ばれている。『救世主』『悪魔』『超能力者』『魔術師』『妖怪』『妖精』『天才』『人類の敵』エトセトラエトセトラ……。しかし未だ『神』と呼ばれたことは一度だってねえ」
そう語る表情は妖しげだった。先輩が何を思いながら言っているのか、まったく推察することができない。
「正しくは『世界の所有者』……アタシ、稲井川非はこういう存在さ」
俺は何も言い返すことができなかった。その言葉の意味を理解するのに時間がかかったのだ。――いや、理解するのに時間がかかったんじゃない。先輩はちゃんと、俺の要求通りに説明してくれた。時間がかかったのはそれに対する『納得』だ。俺はまだ納得できなかった。そしてこれからも納得できないだろう。――しかし、同時に俺は先輩の言葉を信用していた。出会って間もない相手の言ったことを、見事に信じきっていた。
先輩はそんな俺を尻目に学校鞄を開いた。もちろん俺の鞄である。ゴソゴソと漁ってから、『それ』を取り出した。
スマホ爆弾。
先輩の細い指が画面に触れると、その表面は明るく発光した。待ち受け画面はあの悪趣味な数字の羅列である。先輩は再びこちらを見つめて口を開いた。
「こいつは爆弾は爆弾でも時限爆弾だ」
そう言って、スマホ爆弾を俺の顔のすぐ前にズイと突き出す。これで画面の数字がはっきりと見えた。
128642235938318451422014911865612128065648819122235561359240049326
数えるだけで酔いそうになる。俺は数学が嫌いなのだ。
「一二不可思議八六四二那由他二三五九阿僧祇三八三一恒河沙八四五一極四二二〇載一四九一正一八六五澗六一二一溝二八〇六穣五六四八なんとか八一九一垓二二二三京五五六一兆三五二九億四〇〇四万九三二六日後に、こいつは爆発する。ラッキーもアンラッキーも、どんな七(運)も作用しねえよ」
待て。待て。濁流のごとく俺の耳に流れてくる非日常の情報が、脳を混乱の渦に巻き込む。なんだこれは、なんだこの展開は。何故こんなことが俺の前で起こっている。
十二不可思議? それは年単位で言うといくらだ? 人間が全部死んで、そのあとナメクジみたいな生き物が地球で発達するアレか? いや、それよりもずっとずっとずっとずっと未来……。
「そう。こいつは何もいなくなった世界を滅ぼす、哀しい爆弾さ」
再び。再び稲井川先輩はそう言った。
「……しっかし、日数は適当に決めたはずなのに不可思議で終わっちまうとはなあ。せめて無量大数までは届かせたかったぜ。アタシもビッグさがまだまだ足りねえなあ」
「先輩って……能力インフレとか好きなタイプですか?」
絞り出すようにして、やっと声が出た。先輩は先ほどの妖しさからは想像もできないような笑顔を二カっと輝かせた。
「おうよ、大大大好きだぜ!」