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涙爆弾  作者: 藤本乗降
第3章 はっきりしない自己相談
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最終日

【最終日 おーるあいにーどいずらぶ、の巻】


 それは直感でした。

 これが私にとって最後の日になると、そういう直感でした。

 だからリアルタイム脳内日記も今日で終わり。同じ日に二回も日記を記すなんて贅沢かもしれませんけど、最後だから大目に見てやってください、みなさん。

 いいえ、違いますね……。

 私はこう言うべきなのでしょう。

「どうも私、こんにちは」

 私は雨のカーテンをくぐって歩いてきたお兄ちゃんに、そう言いました。

「先輩に呼ばれて慌てて来たはいいけどさ……どういう状況だよこれ」

 お兄ちゃんは傘も差さずに自宅から走ってきたみたいです。Tシャツもズボンも髪もびしょ濡れ。息も絶え絶えで非常に苦しそうです。

「雨に打たれて風邪引きそうな幼女ってどこだよ……!」

 お兄ちゃんは必死で辺りを見回していますが、私にもそれらしい人影は見えません。どころか、いつの間にか先輩の姿さえ見えません。

 雨に融けてしまったかのようです。

 西の魔女か。

 ……とツッコんだところで、私には『オズの魔法使い』を実際に読んだ覚えはありませんが。

 お兄ちゃんは私に気がついてない様子なので、もう少し声を張ってみましょう。

「どうもお兄ちゃん、こんにちは!」

 雨で体温を奪われながらも、なんとか声量を上げてみました。

 これで聞こえなければ、お兄ちゃんは私を認識することができない。住む世界の違う、生物と非生物ということなのでしょう。

 しかし――

「うわっ、ズブ濡れじゃねえかアンタ! 絶対風邪引くぞ!」

 お兄ちゃんはそう言って私の脇に手をかけ、力強くぐいっと引っ張り上げます。水を吸っていて重いでしょうに、そのまま私は公園の脇にある土管まで引きずられていきました。

 ドラえもんに出てくるような小さなものもありましたが、その横には大人でも余裕を持って入れる大きさのものもあり、私とお兄ちゃんはその中で一息つきます。

「ふう……」「はあ……」

 お疲れムードが漂って、しばらくしてからお兄ちゃんは話しかけます。

「えっと……ひょっとして君、コスプレイヤーか何か?」

 今の私がちょっと前までの私のままなら、この二人称や、お兄ちゃんの言動に違和感を感じて再びパニクっていたでしょう。

 でも、そう尋ねるお兄ちゃんの目を覗いたとき、私は自分が何であるか、どういうモノなのかを一瞬で理解しました。

 だから、今の私の風貌がコスプレに間違われることもようやく自覚できたのです。

「コスプレ、とはちょっと違いますけど……多分これ、『僕の妹は背後霊!』のマチちゃんの恰好ですよね」

 水を吸って変色している紫陽花模様の和服。

 前髪ぱっつんの黒いおかっぱヘアーは、キュートな大和撫子そのもの。

 下駄は動きづらいし激しい運動もしにくいけど、慣れればなかなか履きやすい。

 これが客観的に見た、私の恰好なのです。コスプレと言われても仕方ありませんね。

「そうそう! 僕前からファンなんだよ」

 ええ、知っています。

 その『前』というのが、どれくらい前なのかも、しっかり。

「あ、あともう一つ聞きたいんだけどさ」

「はい」

「僕ら、会ったことあるよね?」

「…………はい?」

 会ったこと『あるよね』ですって?

 会ったこと『ないかな』、でも『ある?』でもなく?

 いいえそんなはずありません。私はもう、私がお兄ちゃんと接触しなかった理由もちゃんと分かっていますから、何かの手違いで会うことなんて絶対なかった……はずです。

「あ、違った? ごめんごめん、なんかそんな感じがしてさ。気持ち悪いこと言ってごめんな」

 ……どうやらただの勘だったみたいです。驚かせないでください。

 しかしこの様子だと、お兄ちゃんは私が元々お兄ちゃんの一部だったことを知りはせずとも感づいてはいるようです。

 さすがパーフェクトガールのお兄ちゃん。

 ですがお兄ちゃん、あなたがさっきから本の登場人物ぴったりの美少女と二人っきりだという事実にソワソワしているのもお見通しです。

 私だってここ一か月、だて観察してたわけじゃないってことです。

 だけどその観察も今日で終わります。

「ははは、雨にやられておかしなこと言っちゃったよ。僕は武藤武道って言うんだ。よろしくマチちゃん」

「あ、全然気にしてませんから大丈夫です」

「……マチちゃんってのにはツッコまないんだ」

 だって私、マチですもん。

 ……と、今まで(というか実は今も)名乗ってきた名前も正確には違うんですよねえ……。

 私がこの恰好をしてるのも、私がこの名前なのも、全部『私』を創る上で利用したものであって、本当の私じゃない。

「マチで合ってますから、私」

 だけど、あえてそう名乗りました。

 たとえ本当の私じゃなくても、私はこの恰好も名前も大好きですから。

「そうなんだ。顔だけじゃなくて名前まで一緒だなんて、まさにハマリ役ってやつだね」

「ですね」

 お兄ちゃんの言葉はあまりにも皮肉めいて聞こえました。

「趣味なの?」

「何がですか?」

「コスプレ」

「いえ、別にそんなんじゃないです」

「じゃあ何で……」

「普段着ですから」

「普段着ぃ!?」

「毎日これです。一日中です」

「すごいな……。いったい何着持ってるんだよ」

「一着です」

「年頃の女の子としてどうかと思うよ!?」

「そんなの関係ありません! 私は生まれてから死ぬまでこの服を着ています!」

「その言い方だと、まるで未来を見てきたかのように聞こえるんだけど」

「未来予知ですか。そんなの私にかかればおちゃのこさいさいですよ」

「おちゃのこさいさいって……リアルに言う人初めて見たよ」

「だって私は完璧ですから! 心身ともに傷も汚れも一切持たない、パーフェクトガール! それが私!」

「よくもまあ、そんだけ自信が持てるもんだなぁ」

「私からすれば、お兄ちゃんの方が自信なさすぎなんです」

「……お、お兄ちゃん?」

 あ。

 しまったと思い、とっさに口を覆います。

 今度こそ本格的に怪しまれるでしょうか……?

「なんつーか、本当に『マチ』なんだな」

 そんなことありませんでした。

 ちょっと顔染めてんじゃねーよ。

 私はほっとすると同時に、お兄ちゃんの今後に対して一抹の不安をおぼえたのでした。

 そんな意味のない会話を続けているうちに、雨足はだんだんと弱りを見せていました。

 このまま時を待てば雨も止み、無事に家に帰れるかもしれません。

「あ……」

 そうでした。帰る家なんてもう無いのです。

 というか、最初からそんなの無かったのです。ご飯を用意してくれる両親も、軽口を叩いてくる兄妹も、私にはいませんでした。

 ええ、私には。

「お、そろそろ止みそうだな」

 お兄ちゃんが外の様子を見るために体を動かし、そのびしょ濡れのTシャツ越しに肌が触れあいます。

 濡れて冷たく湿っていても、そこにはお兄ちゃんの確かな温かさがあって――

 私は無意識のうちに、拒絶を示していました。

「あ、悪い。そういうつもりじゃなかったんだ」

「い、いえ。私もその、別にそういう意味じゃないんで気にしないでください」

「お、おう」「……はい」

「……」「……」

 気まずい空気が土管の中に溜まります。

 やがてお兄ちゃんの方から、沈黙を打破してきました。

「雨止んだら、いったん家まで送ってってやるよ。家この辺なの? 僕あんまり詳しくないから、案内はよろしく頼むよ」

「あ、いえ大丈夫です……」

「でも早く着替えないと風邪引くだろうし……」

「だから着替えません。これ一着ですから」

「生き方がストイックすぎる!」

 なんですかそのツッコミ。自分で面白いとでも思ってるんでしょうか。

 まあ何にせよ、このまま話題をはぐらかせ続けて、家まで送られるのを回避すべきでしょう。

 見知らぬ他人が自分の家に行って「ただいま」と言うのを受け入れられるほど、お兄ちゃんも非常識慣れしてないでしょうから。

 だからこのまま、テキトーに話を合わせて……

『本当にそれでいいのか?』

「え?」

 耳元から囁くような声が聞こえ、体が思わずビクンと震えます。

 誰……?

 見回しても、隣にはキョトンとするお兄ちゃんしかいません。

 となれば……こんな芸当ができるのは一人しか思い浮かびません。

 早々と声の主について結論を出した私は、頭を別のことに切り替えました。

 私はこれからも『私』として生きていくのか。

 それとも、あるべき形へと戻るべきなのか。

 どちらにせよ、私はお兄ちゃんと向き合わなければいけません。

「雨、止んだな」

 お兄ちゃんの声。

「こんな狭っ苦しいところさっさと抜けて、あったかいシャワー浴びに行こうぜ」

「待ってください」

 私の右手が、Tシャツの裾を強く掴んでいます。

「お兄ちゃんに、話さないといけないことがあります」


 ――――――――――――


 告白、というか自己紹介に近いものを話し終えて、私はどっと疲れを感じました。

 けっこう簡単に話したつもりだったんですが、それでも誰かに何かを説明するって……思ったより疲れるなあ。

「つまり君は、安藤が『精神の交換』を行った際に生まれた……言いうなれば『残滓』みたいなものなのか?」

 お兄ちゃんが真面目な顔でそう訊いてきます。

「呼び方は何でもいいですよ。『食べ残し』に『欠損部位』に『燃えカス』、半身ならぬ『百分の一身』」

「だったらどうして僕の妹ってことになってるんだ? 君は僕なんだろ?」

「いや、私イコールお兄ちゃんじゃないですよ。それに『交換』前の状態ならともかく、今のお兄ちゃんと私は別人でしょう?」

「純粋な『武藤武道』ってわけか……」

「そうなりますね。ただあいにく私、記憶の方はろくに受け継いでないんですよ」

 私はちゃっかり、普段の忘れっぽさに言い訳をつけてみます。

「実は僕もさっきから妙な感覚――それこそ、生き別れの妹と再会したみたいな感覚をおぼえていたんだけど、ようやく得心がいったよ」

「お兄ちゃんと私の性格があまりにも不一致すぎることも、これで説明がつくはずです」

「なるほどね。僕があの時失っていたものの一部を、君は持ったままなのか」

 お兄ちゃんは腕組みをして、しきりにウンウンとうなづいていました。

 何を考えてるんでしょう。私にはロリコンの思考回路は分かりませんが、おおかた妹に認定しようか、それとも自分自身だから自粛すべきか迷ってるんじゃないでしょうか。

 そんなシンキングタイムを経て、お兄ちゃんは腕組み姿勢のまま言います。

「で、マチちゃんはこれからどうするつもりなの?」

「…………」

 いったん沈黙で答える私でしたが、決して答える気がないわけじゃないのです。

 このまま独立を保ったまま、別々に生きていくこともできます。

 お兄ちゃんの中に戻り、一体化することもできます。

 私は前者の方がいいですし、お兄ちゃん的にはもちろん後者の方がいいでしょう。

 自分を維持しようとする私と、失った自分を取り戻そうとするお兄ちゃん。

 言うなればこれは存在をかけた兄妹喧嘩――ならぬ兄妹戦争。

 私は土管から一歩踏み出て、濡れた芝生をジャブンッと鳴らしました。

 雨雲はすっかり山の向こうに逃げ去り、空には大きな虹の橋がかかっています。平和を体現したかのような朗らかな陽気。

 ……こんな空気の中で対決を始める私たちはどれだけシュールなんでしょう。

「お兄ちゃん、私は私が大好きです。お兄ちゃんと違って私は私を愛しています。だから絶対に……元の形に戻るわけにはいかないんです!」

 宣戦布告。

 鈍いお兄ちゃんでも、それが意図することははっきりと伝わったみたいで

「そうだね。僕も『武藤武道』を名乗る者として、その決闘に臨まないといけないのかもしれない」

 そう言って、自身もまた土管からゆっくり出てきました。

 私は和服をきつく絞り、かき分けた髪の隙間からその様子を細かく観察します。

 足は半開き。体の向きを半身にして重心を少し落とします。上体をまっすぐに保ったまま体重を前へ。右手を胸の前、左手は腰の位置。いつお兄ちゃんが動いても対応できるように、二つのパーフェクトアイが睨みをきかせます。

 絶対に……何が何でも、『私』は私が守ります!

 お兄ちゃんはまだ攻撃する様子を見せません。

「いきますよ」

 お兄ちゃんが首を一ミリほど縦に動かしたのを見て、距離を瞬時に詰めます。

 達人同士の闘いでは後手が有利とも言いますが、この勝負に関しては先手必勝!

 パーフェクトガールの真髄、見せてやろうじゃないですかっ!

 全神経をフル稼働させた左ジャブを顔面へ。お兄ちゃんは咄嗟に反応して上半身を反らしました。がら空きのボディにすかさず右をブチ込みますっ!

「――っぐ!」

 ダメージはあった模様です。

 お兄ちゃんはジャンプで後退し、みぞおちの辺りを抑えながら私を睨みました。

「……女の子とは思えないパワーだな」

「あのですね、年頃の男子のパワーとしてどうかと思いますよ、これ」

 そうです。私とお兄ちゃんは身体能力的に差なんてほとんどないのです。人間でも幽霊でもない私に身体と呼べるものはないかもしれませんが、この対決、同じフィールドに立つ別の形の『武藤武道』同士の対決では、身体的優劣というものは存在しないのでした。

「何を遠慮する必要があるんです? 兄妹同士、一方が倒れるまで続けようじゃないですか」

「なら、僕はもう君を女の子だとは思わないよ」

 今度はお兄ちゃんが突っ込んできます。

 そのあまりに直線的な攻撃を躱します。しかしお兄ちゃんも避けられることを読んでいたようで、すぐに体勢を立て直しました。

 腕を伸ばしてきます。それを払おうとした私の右手首が掴まれ、あ、ちょっとこれヤバイかも……。

 と思いましたが

「……」

「なーに止まってんですか! 素人童貞ですか、お兄ちゃんはっ!」

 うすうす予想はしていましたが、どうやらまだ躊躇していますね。

 でも、私はそんな遊びに付き合うつもりはありません。これは互いを賭けた殺し合い――生き残り合いなのですから。

 無防備になったお兄ちゃんの股間を狙って爪先キック。

「――――ッ!」

 ちょうど下駄の角の部分が急所に当たった感触がして、お兄ちゃんは苦悶の表情で倒れ込みました。倒れた拍子に泥が跳ねます。

 うつぶせで、ビクビクと痙攣するお兄ちゃんの頭を容赦なく踏みつけると、また泥が大きく跳ねて足にかかりました。

「お兄ちゃんの敗因が何か、分かりますか?」

 返事はありません。踏む力を強くして、続けます。

「それは自信がないことです。フィジカル的に差なんてない、正々堂々としたフェアな勝負で負ける理由。それが自信でなくて何だというんでしょう? 私はパーフェクトガールマチ。お兄ちゃんとまったく変わらない頭脳と身体能力なのにも関わらず、それを無条件で肯定すること。それが私らしさで、お兄ちゃんらしくなさだから、たとえ百万回勝負したって私は勝つんです」

 抵抗しない様を見て、私はいったん足を上げ、そして勢いよく踏み潰します。

 ぐちゃり

 という音は、もちろん泥の音ですけど。

「さて。当然百万回もお兄ちゃんを殺すことは無理ですけど、さっそくその一回を消費しちゃいましょう。……いや、私だって正直乗り気じゃないんですけどね。でも私とお兄ちゃんを天秤にかけたら結果は歴然ですから。それじゃあ……」

 私は近くに落ちていた拳の半分くらいの石を手にして

「どうもお兄ちゃん、さような――――きゃっ!」

 いきなり掴まれた足首を引っ張られ、私は背中から地面へ落ちていきます!

 振り下ろす間際、気が緩んだすきをやられたのです!

「ぎゃっ!」

 激突。石も手から離れて転がっていきました。

 お兄ちゃんは鼻を押さえながら立ち上がり、私を見下ろします。さっきまでとは逆の構図になってしまいました。

「マチちゃんさあ……自分に自信があるのはいいけど、無条件に信じるのはどうかと思うぜ。もうちょっと客観的に見なきゃ、自分なんてもんは」

「な……なんで……」

「ん?」

「なんでお兄ちゃんは、立ち上がれるんですか!?」

 自信がない、自分嫌いのお兄ちゃんなら、自分が勝つことも否定するはず!

 勝負に応じはしても、応じた時点で敗北を決めつけていたはず!

 それがお兄ちゃんの最大の敗因であったはずなのに……。

「ハッ!」

 そうか、安藤さんです!

 あの事件によって受容された安藤さんという異物が、この『武藤武道』同士の戦いにイレギュラーとして影響したのでしょう!

「安藤さんが原因で生まれた私が、最期は安藤さんによって敗れるというわけですか……」

 なんて因果でしょう。

 なんという、神様の悪戯なのでしょう。

 思わず苦笑する私の目から、湿った何かが頬を伝いました。

「え?」

 というのはお兄ちゃんの声です。

 何でしょう。まさかやっぱり降参とかぬかすんじゃないでしょうね、と思った私の耳に思いがけない言葉が飛び込んできました。

「何言ってるんだ。そんなの関係なくたって、僕が負けるわけないだろ」

「…………は、はい?」

 私の聞き間違いでしょうか。いや、そんなはずありません。

「僕には何が足りないとか、マチちゃんが僕にない物ものを持っているとか、そんなの関係なくてさ……兄が妹に負けるわけにはいかないだろ?」

 キョトン。

 という擬音はまさに今の私にこそ使うべきでしょう。

 そして一息おいて、堰を切ったような笑い声が溢れてきました。

「ア……ハハ。アッハハハハ! フフフ、アッハッハッハ! そうか、そりゃ勝てないかもね! いくらパーフェクトガールのプリティマチちゃんでも、そんな理屈持ち出されちゃあ敵わないなあ!」

「……なんか、馬鹿にされてるように感じるんだけど」

 実際馬鹿にしていますから。

「それは冗談としてさ……あ、いや別に冗談ってわけでもないんだけど。僕にだって『僕』を譲れない理由はあるさ」

「エヘヘ、ククッ、なんですか? 恋人でも出来ちゃったんですか? アハハッ」

 笑いすぎだろ、とツッコミをもらいますが、私の横隔膜は稼働を止めません。

「そんなんじゃねえよ。僕にはちょっと、守らないといけないものがあるらしいんだ」

「らしいって……ぷぷぷ」

「よくもまあ、そんなに笑えんな。――とにかくさ、いま僕は世界を救うかどうか、その鍵を握っているんだよ」

「ワハハハハッ!」

「笑い死にしちまえ、もう」

「だって、だって、お兄ちゃん高二でしょ? 義務と義務じゃない学校間違えたの?」

「今や、っていうかだいぶ昔から高校って義務みたいなもんだけど……じゃなくて。分かったよ、中二病でも何でもいいから黙って説明を聞け」

 そう言ってお兄ちゃんがポケットから取り出したのは一台のスマートフォンでした。何の変哲もない、普通の。ただ妙なのが、その待ち受け画面にはおびただしいほどの数字がびっしりと映っているのです。

「これは今日、僕をここに呼び出した先輩から持って来いと言われたものなんだが――」

 そういう語り出しで、お兄ちゃんはそのスマホ――遥か未来の世界を終わらせる爆弾の説明を始めました。

 ありえない、なんて馬鹿馬鹿しいホラ話。

 そう思いました。

 ですが、私がその話を信じることにしました。というか、信じざるを得ませんでした。

 『稲井川先輩』。

 その人の特徴や性格は、明らかに私の知る『先輩』と同一人物だったからです。

 スマホ爆弾の件とそれに関わった二つの事件を簡単に語ったあと、お兄ちゃんは言いました。

「――それで僕は考えたんだ。こんな涙で世界が救われてもいいんだろうか、どうせ救うなら、もっと綺麗な方法があるんじゃないかって。……もちろん理想主義なのは分かってる。考えが甘いって自覚してる。でも、でもさ、あんな涙はもう見たくないんだよ。青臭いかもしれないけど、どうせ世界を救うなら、かっこいいやり方で救ってみたいのさ」

 それが出来なきゃ、僕は未来の世界を滅ぼす道を選ぶと思う。

 お兄ちゃんは宙を見ながらそう言います。

 このときのお兄ちゃんは隙だらけの隙隙バーゲンセールでしたが、もう私からはお兄ちゃんを仕留める気力なんて消え去っていました。

「海で先輩に会ってからずっとそれを考えていて、僕はついに答えを見つけたんだ。安藤が僕に生を譲った理由だよ。『小説家になりたい』っていう夢。ほら、小説なら僕が死んだあとも残るし、何十年、何百年後の人がそれを読んで涙を流したなら、それは僕が集めた涙としてスマホに集計されるんじゃないかって」

「……でもそれ、けっこう無茶な賭けじゃないですか?」

 それこそ理想主義、というか楽天主義だと私は思います。

「そうなんだよね……。正直今の僕には、そんな作品を書ける気なんてまったくない。不可能だ。玉ねぎと包丁持って世界中を旅する方がずっと向いてるんじゃないかって」

「だったら――!」

 と口を開いたところで、私は固まりました。

 そうか……今のお兄ちゃんにはある物が絶対的に欠けている。

 そこらのコンビニ店員ならともかく、芸術に携わろうという人には決して欠かすことのできない、『あれ』が。

「うん。僕にはそんな無茶を可能にする『自信』がない」

 お兄ちゃんは私の目、その奥の奥を見透かしたようにそう言いました。

 まるで私の存在の根幹にあるものを見られているような感覚です。

「一つ訊きますけどお兄ちゃん。もしかしてお兄ちゃんって、小説家になりたいなんて最初から思っていないんじゃないですか?」

「……鋭いね」

 私は以前、五月上旬に安藤さんらしき人に会ったときに言いました。


 ――あ、でもでも私、実は小説家になってみたいんです!


 私にその思いが宿っているのなら、お兄ちゃんには……。

「変だと思ったんだよ。『小説家になりたい』という昔の僕と、今の僕はあんまりにも違いすぎてる。幽霊になった安藤にもそんな感じは見られなかったし、あの情熱とやらはいったいどこに消えたんだろうってね」

「それが私、と」

 これはつまり、お兄ちゃんの自己肯定と小説家への想いが強く結びついていたってことでしょうか。

 お兄ちゃんはうなづいて、そしてすべて話しつくしたというように深く息を吐きました。

 そして私の方を見つめてきますが、私の方からもこれ以上言いたいことはありません。

 だって答えはもう決まってましたから。

「お兄ちゃん」

「ああ。来いよ『僕』。成長するかどうかは分かんないけど、たぶん悪い方向に変わりはしないと思うぞ」

「いえ」

「い、家?」

 私は泥だらけになった和服をパンパンと叩き、鼻緒が緩んだ下駄を捨てて裸足になります。

「え? え?」と戸惑うお兄ちゃんに一言。

「まだ決着はついてませんよ」





 何時間戦ったでしょうか。

 日は西の山のてっぺんに差しかかり、頭上にはカラスたちが若干疲れたような鳴き声をあげて飛び交っています。

 体力のすべてを使い切って大の字に寝転んでから、確かに分かったことは一つ。

 これはもう、殺し合いでも戦争でもなく、ただの兄妹喧嘩だったのだろう、ということ。

 同じく疲労困憊といった様子のお兄ちゃんがのそのそと匍匐前進で私の横にたどり着き、また倒れ込みます。

「……負け、だな」

「……ええ」

「……お前の」

「…………ええ」

 勝敗が決しても、私たちはその場から動きませんでした。否、動けませんでした。

 小指一本満足に動かぜず、立ち上がろうとしても筋肉が全力で拒否してくるのです。首と顔面だけが辛うじて言うことを聞いてくれて、あとは全員ストライキ状態。お前らちょっとは経営者側のことも考えろ。

 そして、太陽が山の後ろへと隠れたちょうどその時、ストライキの波が一時的に治まったときを見計らって起き上がります。

「――いッ!」

 それでも激痛。

 お兄ちゃんがうつぶせのまま心配してくれました。私は素直に礼を言います。

「お、お兄ちゃん。そろそろ暗くなってきたので……私帰りますね」

「……おう」

「あ……その前に一言だけ」

「……おう、なんだ」

 お兄ちゃんはそう応じましたけど、私はその言葉を口には出しませんでした。

 何も言わず、うつぶせのお兄ちゃんの背中に乗っかります。

 大きな背中。ずいぶん少女の姿でいたせいか、これが元の自分の体だというのが何だか新鮮です。

 目を閉じると、だんだん自分の存在が薄くなっていく気がします。

 でも寂しくはない、むしろ心地いいような。

 海に潜ったときに塩辛いのと同時に感じる……懐かしさ? たぶんきっとそれなのでしょう。

 ただいま、武藤武道。

 そして……


 どうもみなさん、さようなら









       *


 目が覚めたときには僕一人しかいなかった。

 けれど辺りを探すなんて真似はしない。しっかりと内側に彼女の存在、もとい僕の帰属を実感していたからだ。

 だからといって、僕が以前の武藤武道に戻ったというわけではない。

 武藤武道は安藤弘貴によって精神の一部を交換され

 その最中に零れた僕の魂がマチとなり

 僕は安藤弘貴と混ざり合って、厳密に言えばどちらでもない存在になり

 そこにマチが合流した。

 ……うーん、なんか複雑だな。

 わざわざ頭で整理しようとするとこんがらがりそうになるけど、武藤武道は武藤武道でしかない、と無理矢理納得させた。

 だって『x=武藤武道』に当てはまるものなんて他に思いつかないのだから。

 本好きだから僕というわけでも、ロリコンだから僕というわけでもない。

 僕は僕、という以外に明確な回答なんてなくて、ずいぶんはっきりしないけど、それで構わないんだと僕は思う。

 どんなに変わっても僕は僕、なんだから。たぶん。

 それより深い段階のアイデンティティは哲学者に任せておこう。

 それに、僕にはやらないといけないことがあるんだ。


 翌日僕は包帯と絆創膏まみれのまま、部室の扉を開けた。

 壁に画鋲で刺されているカレンダーには、文化祭の三文字。

 来たる六月二十二日に行われる百八台高校文化祭の原稿を、僕は一文字も書いちゃいないのだ。

 稲井川先輩は……考えるのは止めておこう。期待するだけ無駄だ。

 それにしたって、実質部員一名で部誌なんて出せるのだろうか? しかもこんな短期間で。

 無理だ。普通に考えて不可能だ。

 当日に原稿が書けても間に合わない。今から長編のプロットを練るのは厳しいから……短編だな。昔の部員が書いたやつをうまくオマージュすれば、一人でも結構なページ数が稼げるぞ。

 ――そう思った僕のもとに、ふとある声が聞こえた。


 ――世界中を感動の渦に巻き込もうとする人間が、そんなことでどうするんですか?


 もちろん幻聴だ。仮に幻聴でないとすれば、ただの妄想だ。

 けれどそんな常識にはお構いなく、僕はその言葉に答えてやることにする。

「そうだな。今の僕に、できないことなんてない」

 多分、だけど。

 自己肯定と自己否定を兼ね備えたまま、僕はペンを握る。

 僕と、俺と、私の記憶をもとに、ストーリーを考える。

 彼と彼女、つまり僕自身が体験したことをもとに、テーマを探す。

 世界を救うため?

 ううん、たぶんそうじゃない。

 僕は僕が大っ嫌いだけど、同時に大好きでもあって――

 そんな自分を残したいから。そんな自分にしか創れないもので、自分自身を世界に遺したいから。

 だからペンを握るんだと、少なくとも今の『僕』は、そう考えている。


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