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涙爆弾  作者: 藤本乗降
第3章 はっきりしない自己相談
25/26

六月十六日


【六月十六日 土曜日 雨ニモファインディング、の巻】


 どみどみっ! マチです。

 お兄ちゃんが海沿いの堤防でぶっ倒れたという知らせを聞いてから、ちょうど一週間が経ちました。

 最初はひどく動揺した(だって海に一人で行って病院送りなんて、普通に過ごしてたらあり得ませんよ)私ですが、幸いお兄ちゃんは単なる立ちくらみでしかなかったらしく、一日だけ病院に泊まって、ちょっと検査を受けただけで済みました。

 お母さんとお父さんに理由を問い詰められても、「気分転換に海を見たかっただけ」というだけです。明らかに何かを隠していることは丸わかりですが、その時のお兄ちゃんの顔を見て私は深く追求するのを止めました。

 あれ以来お兄ちゃんの表情には、何かをやりきったという解放感と、あまりにも重い重責を背負わされたかのような苦悩が度々見られるようになりました。

 そして同時に、影女の気配もぱったりと消えてしまいました。

 お兄ちゃんの行動と影女の消失……やはり、あの手紙が起因しているのでしょうか?

 分かりません。しかし、あの手紙を書いてからわずか二日後にお兄ちゃんが海に行ったことを考えると無関係だとは思えません。

 ……でもなあー。手紙に書いた場所や時間とは合致しないしなあー。

 まあ、こうやって頭を悩ませていても何の解決にもなりはしません。頭を悩ませる前に必要なのは情報収集です。その次に必要なのが情報整理です。

 ひとまず、今の時点でで手元にある情報をまとめてみましょう。

 まずは先ほど述べた手紙の件。これは影女撃退に関係していると思われる。

 そしてその手紙の内容は先輩から教わったもの。先輩のことはここ数日間色んなところを回って探し続けているけど、手掛かりはまったく掴めない。

 次に影女消失とお兄ちゃんの気絶。これは同じ日に起こったことで、関係性がありそう。

 最後に、マホちゃんの行方。

 ――これはつい昨日手に入れたばかりの情報ですよぅ旦那ぁ……(逆に言えば、この件しか成果らしい成果を上げていないというのが本音です。でもパーフェクト。私は完璧少女)。

 お兄ちゃんは土曜の夕方から日曜日まで病院で過ごしたわけですが、その翌々日、つまり火曜日になって私は気が付きました。いつもお兄ちゃんの心臓辺りに住んでいたマホちゃんの気配が消えてしまっていることに。

 私は先輩探しとマホちゃん探しという二つの任務に東奔西走していたのですが、そのマホちゃんの行方がなんと昨日、お兄ちゃんの口から飛び出してきたのです。

 私はその時例のごとく、お兄ちゃんの部屋の前で聞き耳――いや、聞きパーフェクトイヤーを立てていました。

 お兄ちゃんの電話相手もやはり例のごとくヒワなんとかいう人で、この日も漫才のようなやりとりをしていました。漫才と言ってもツッコミしか聞こえないので非常に反応に困りましたが、聞き耳を立てている身としては逆に助かりましたけど。

「僕はアメリカンクラッカーか!」と、またしても意味不明なツッコミが部屋から飛んできてから、お兄ちゃんは息を整える動作を合間に入れて、こう言ったのです。

「で、その……マホちゃん? はそっちの方で面倒を見てくれるんだな」

 はっきりとその単語が聞こえ、私はその意味を理解するのに手間取ってしまいました。

 え? お兄ちゃんはマホちゃんを知ってるの? そっちって……ヒワなんとかもマホちゃんとコミュニケーションを取っちゃってるってこと? あれ、ていうかコミュニだっけ、コミニュだっけ、どっちが正しいの? やばい私としたことがさっぱり糸口が掴めないよう!

 そう思ってる間にも、断片的に聞こえる会話は止まりません。

「そっか。メグちゃんと友達に――――大人の女性は、ああ、念のため近づけさせない方がいいだろうな――――え、僕はいいのかって? ……そりゃ寂しいさ。でも僕じゃお喋りしてやることもできないし、友達になんかなれっこない。確かに僕はロリコンだけど、そこんとこは分かってるし、割り切れるくらいには大人なつもりだよ。――――ん? え、そういうことじゃないって? ――ああ、体質の問題か。結局これ、霊媒になった直後と同じ状態に戻ったってことだよな。……うん。また迷惑かけることになるかも。悪いけどまた明日もよろしく頼むよ――――だからそういうことサラッと言うなっての! いいのか、今ここで死んだら絶対呪ってやるからな! 将門とか道真とかがカス同然に思えるほど呪ってやるぞ!」

 よくもまあコロコロと感情が切り替わるものです――ってそうじゃなくて!

 この少ない情報からも分かる通り、マホちゃんはお兄ちゃんの電話相手の元へ引き取られたようなのです。養子縁組? 親権獲得? 大体そんな感じで間違ってないでしょう。

 後半の内容はちょっとよく分かりませんでしたが、それだけ聞ければ十分と思いました。

 影女のようにこの世から消滅してしまったという考えが……時間が経つごとに私の中で大きくなっていましたから。

 でも生きていた。……や、生きていたっていうのは違うんだろうけど、でも消えてはいなかった。

 マチにはそれだけで十分なのです。


 さて。

 ではここで問題です。

 さっきから説明ばかりでアレでしたからね。気分転換といきましょう。

 それはズバリ【なぜ日記の日付が今日なのか?】です!

 マホちゃん生存ニュースだけが目玉なら、昨日のうちに書いておけよ! って話ですもんね。

 さあさあ考えましょう考えましょう。

 十秒くらいでタイムアップですからね。

 じゅー

 きゅー

 はーち

 なーな

 ろーく

 ごー……ヨンサンニーチゼロ!

 はい時間切れー。

 答えは…………うーんと。

 答えを言うより、私の今の状況を説明すべきでしょうね。その方が分かりやすいと思います。

 さてと、それじゃ気分転換ならびに場面転換といきましょう。


 六月十六日土曜日。

 私は今日も先輩を探し、自宅から半径五キロ以内を目安に、二本の足だけを頼りにして右往左往しながらせっせと捜索活動に精を出していました。

 そして午後三時。つまり今、私はとある公園に足を運んでいました。

 遊んだこともなければ来たことすらない、馴染みの薄い公園です。馴染みの薄い公園というのはこの年齢になっても何故だか居心地が良くない場所で、ブランコにも滑り台にも水飲み場にも木の上にも先輩の姿がないことを確認すると、私はすぐに立ち去ろうとしました。

 クルリとターンするパーフェクトガール。しかしその背後から幼い声に呼び止められます。

「ね、ね、おねーちゃん」

 はじめ、私はその『おねーちゃん』が私だということに気が付きませんでした。

 私はあくまで妹です。

 ですから、その声をきっぱり無視して先を急ごうとしました。変に反応すると親御さんから不審者扱いされることもありますからね。関わることと関わらないことを瞬時に正しく判断する、それこそ現代人の賢い生き方という奴です。……なんかこう言うと、私すっごく冷たい女みたいですね。

 そんなことはありませんよ! 目の前で人が倒れてたら救急車呼びますし、悪漢に襲われてる、私ほどは可愛くないけど世間一般で見れば十分可愛い女性がいたら助けます! 全然可愛くない、イグアノドンのような方でも当然助けます!

 それに、後ろから呼びかけられて、その声の主が明らかに私の方へ近づいてくる足音が聞こえたらもちろん振り返りますとも。

 そんなわけで後ろを見ると、綺麗なブロンドヘアの、幼稚園児くらいの女の子が私のすぐ後ろに立っていました。

 とっても小さい子なので、感覚的には『後ろに立っていた』というより『足元に立っていた』という方が正しいんじゃないかと錯覚してしまうほどでした。それに加えて絹のような髪の毛に透き通るような碧い瞳をしていますから、声をかけられなければ私はその子をビスクドールそのものだと思っていたでしょう。服装もちょうど、フリルのついた『不思議の国のアリス』を彷彿とさせる衣装でした。

 先輩が『全人類が憧れるような神様』だとすると、彼女は『全人類が溺愛する偶像』と言うべきでしょうか。私や先輩とはまた別の、儚げな美しさを秘めた女の子でした。

「わあ、きれい……」

 思わず私は溜息交じりの感想を漏らしました。

 女の子は照れる様子もなく、てへへと柔らかな笑みを浮かべました。

「お姉ちゃんのこと、呼んだの?」

 私はしゃがんで訊いてみました。女の子は首を小さく縦に振ります。

「お姉ちゃんはマチって言うの。あなたは誰さん?」

「メグだよ。五才!」

 手をパーに広げ、訊いてもいない情報まで教えてくれました。

 メグ……その名前にはどこか聞き覚えがありましたが、どこで誰の口から聞いたかは覚えていません。忘れっぽいのがマチの癖ですから。

「ね、ね、おねーちゃん。きいてもいい?」

「ん? 何かな、私はなんでも答えてあげるよ! なんてったって私は完璧でパーフェクトな女の子ガールだからね!」

「おねーちゃんは、ひと?」

「…………え?」

 ひと、っていうのは……人間と解釈していいのでしょうか?

 哺乳類霊長目ヒト科ヒト目の、我々人類ってことでいいのでしょうか?

「それとも、ゆーれーさん?」

「へ?」

「そうじゃなかったら、いきりょー?」

「え、えーっと、ちょっと待ってね。そんな一気に訊かれてもお姉ちゃん困るから……」

 ゆーれーさんって何!? ゆうれいさんとかいう人と勘違いしてるの私を?

いやいや、常識的に考えろ私。ゆーれーと言ったら幽霊しかないじゃないか。……じゃあ私

幽霊と勘違いされてるってこと? それってどう考えても常識的じゃないよね!?

「どれ?」

 ガラにもなく焦る私の顔を見てメグちゃんが無邪気に催促します。子供ってのは残酷です。

「えっとね、お姉ちゃんはもちろん、メグちゃんたちと同じヒト、人間だよ。……もう、冗談でもそんなこと言ったら失礼でしょ? めっ、だよ。めっ!」

「めっ――はアンタの方だろうがよ」

 え?

 すぐ後ろ、吐息がかかるほどの距離から声がして――振り返ったときには私の目の前にデコピンの構えがありました。

 さすがの私も避けることなんてできず――

 バゴンッ!

 と、とてもデコピンとは思えない音を立てて吹っ飛ばされました。

 しゃがんでいた体がおでこを起点に宙へと浮きます。

 瞬間の無重力を私はその全身で味わい――

 またすぐに重力に押しつぶされます。

 いったい何メートル吹っ飛んだのか分かりません。私には青空しか見えないですから。

「ゴフッ!」

 背中から地面に打ち付けられて、一拍後にそんな咳が出ました。

 あまりの唐突な出来事に、頭脳がろくに回りません。

 前にはメグちゃんの瞳のような空が広がり、背中には硬い土の感触があります。その地面から大きな足音と小さな足音が聞こえ、近づいてきます。

「子どもの疑問に嘘言っちゃあいけねえぜ、お前さん。言っていい嘘はサンタクロースとコウノトリだけだ」

 高い影が私を見下ろします。

 角度を変えると尖った顎と高い鼻筋を持つ、先輩の顔が現れました。

 そこから遅れてヒラヒラのスカートが視界に入ってきます。メグちゃんでしょう。

 メグちゃんは私の頭のすぐ横でしゃがみました。パンツにはピンクのリボンとフリルがついたイメージ通りのものを履いているようです。

「だいじょうぶ? ……ええっと、ゆーれーさん?」

「いや、幽霊じゃないし……」

 幼い子に心配をかけるのもなんですし、私は砂を払いながら上半身を起こします。

「そうだ。このお嬢ちゃんは幽霊じゃあない」

「おばさんだれ?」

「お、おば――!」

 先輩の赤面を、私はこの時はじめて見ました。

「おばさんじゃねえって。アタシは確かに長生きはしてるが、だけど稲井川非としてはまだ十八歳なんだからよ」

「おばさんだ」

「……そうか、お前さんに言わせりゃ十八歳はまごうことなきおばさんだと」

「うん」

「うんじゃないが」

 もしかすると、この子なら先輩に勝てるやもしれません。

 がんばれメグちゃん! ぎゃふんと言わせてやれ!

 しかしそんなエールも届かず、先輩はメグちゃんとの会話を切り替え、私の方に向き直りました。

「さて、じゃあさっきの問いにもう一度答えてもらおうか」

「さっきの問い?」

「お前さんはお前さんを何者だと思ってんのか、ってことさ」

 そんな質問ではなかったと思うけど……まあいいか。

 私は迷わず答えます。

「私はパーフェクトガール、マチちゃんです! やることなすこと全てが上手くいく、完璧すぎる完璧少女! ちょっとお茶目な部分もあって、そんなところも可愛くて、可愛いからこそ完璧な超絶自賛女の子! しかも妹!」

「そうだな。だがそいつはアタシが求めてる答えじゃない」

 ……せっかく決めポーズ付きで自己紹介したというのに、空気を乱す先輩です。

「アタシが訊いてんのはお前さんの名前じゃないんだ。お前さんが何者か……もっと言えば、お前さんがどこの誰なのかって話さ」

「……そう言われても、マチはマチですけど? 完璧で、可愛くて、妹属性付きの」

「『妹』」

 先輩はビシッと指を突き立てました。

「妹ってことは、兄貴がいるってことだよなあ」

「そりゃまあ……って知ってますよね、先輩」

「いいから、その兄貴の名前を言ってみろよ」

「はあ、分かりました。言えばいいんでしょう言えば。私のお兄ちゃんは―――――――――」

 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あれ?

「どうした? 早く言ってみろよ」

「おねーちゃん、わすれんぼさん?」

 違う。

 覚えているんです。

 忘れっぽい私ですけど、たしかにお兄ちゃんが誰なのかは分かっているのです。

 こんな質問、いとも簡単に、朝飯前にパーフェクトな回答を出すことができるのです。

 ですが……


 私のお兄ちゃんは、●● ●●


 知っているのに。

 忘れてなんかいないのに。

 なぜか私は、その名前を声に出すことも、思い浮かべることもできずにいました。

「武藤武道」

 先輩の口からその名を聞かされても、そこに謎解きの爽快感なんてありません。

 だって分かってるんですから。私はその名を答えなかっただけで、決して答えられなかったんわけじゃないんですから!

「それがお前さんの兄貴の名前だろ? 違うか?」

「違い……ません」

 敗北感。

 先輩に負けたというより、自分自身に打ちのめされたショック。それがこの敗北感なのです。

「なあメグちゃん。だったらこのマチ姉ちゃんの苗字、なんだか分かるかい?」

「うん! それくらいかんたんだよー」

「や、やめ――」

 何も分からないまま、私は耳を塞ぎます。

 でも私のパーフェクトイヤーは、指と指の隙間からしっかりと音を拾ってしまえるのです。

 私はそんなことも忘れてましたが、覚えていても結果は同じだったでしょう。

「『むとう』でしょ。『むとうまち』!」

「おう、そうなるな。えらいぞーメグ」

「でしょー」

 ち……ち……ち、ち、ちちちちちちちちちちちちちちちちち

「ちちちちちがうッ!」

 私を見る四つの目。

 ピタリと止んだ土曜日の音。一秒も待たず訪れる車の走行音。風の音。

 そして――雨粒。

 ぽたり、ぽたりと降り出したそれはしばらくしてから夕立へと変わりました。そのスパンは一分のようにも、一時間のようにも感じたけど、きっと私の感覚がおかしいんでしょう。

 その間、私は二人の視線だけを感じていて、その顔を見ることはありませんでした。

 私は、私らしくもなく、俯いていたのです。

 雨脚が強くなってきたころ、一人の女性がこちらに向かってきました。足元と、その声だけで判断したので、よく顔は見えませんでした。

「あー! メグ、探したんだからね!」

「あ、ささなおねーちゃん」

「どうしてずぶ濡れのままなの!? 風邪引いちゃうでしょ。ほらタオルタオル」

 そんな会話を交わして、メグちゃんは公園から去り、私を見る目玉は二つになりました。

 ささなおねーちゃん、とかいう人は私たちの方を気にも留めていなかったようなので、今の私としては正直助かったような気分です。

「日羽鳥笹那は霊感少女だ」

 唐突に、先輩が頭上から語り始めました。

「彼女には幽霊が見える。どんな小さな精霊も、どんな凶悪な怨霊も、彼女に見えない霊はいない。加えて彼女の霊力は業界内でもトップレベル。どんなにひどい悪霊が、それも十人以上とり憑いていても、昼休み程度の時間があればあっさり除霊できちまうほど、そんなとんでもねえ霊感少女だ」

 いったい誰の話をしているのでしょう。その人は私に関係あるんですか?

 私は、私のことだけしか考えられないんです。そんな何とかさんの話なんて聞かされても、どうしろというんでしょう。

「だから彼女には、物質として存在するものと幽霊の両方が見える。だが逆に言えば、物質でも幽霊でもないものは見えねえってわけだ。……例外として、その『どちらでもねえもん』が物質化することがある。こういうときは日羽鳥笹那に限らず、どんな奴でもそいつの姿を認識することが可能ってわけだ。影をもとに現出した安住愛の生霊がいい例さ」

 また知らない名前。

 だからそういうのは、私がいないどっか余所でやってくださいよ。うるさいです。迷惑です。不快です。

「お前さんは日羽鳥笹那から見えない」

 雨がよりいっそう、私の頭と背中を打ちつけます。

「安藤弘貴は幽霊だ」

 先輩だけには雨が降っていないような――その分余った雨が私の頭上から落ちてくるような、そんな錯覚。

「彼は生前、幽霊が見えなかったし、死後も自分以外の幽霊を見ることはできなかった。彼は日羽鳥笹那とは違い、まったく霊感がなかったんだ。だが彼には一つの願望があった。それを叶えるためにも彼は生き返らなければならず、武藤武道と『精神の交換』を行った。結局彼の願望は願望のままで終わってしまったが、結果として彼は純粋な『安藤弘貴』でなくなり、武藤武道もまた純粋な彼自身ではなくなった。」

 安藤さんが幽霊?

 それもまた、私が幽霊だって言うのと同じくらい馬鹿げています。

「そんな安藤が見えるものは自分の姿と物質のみ。だが、見えるもんだけが全てじゃない。星の王子様だってそう言ってる。彼は見えずとも感じることはできた。感じて、そこに意志があれば、それを読み取ることもできた。自分の精神と武藤の精神を。自分自身と、その犠牲となったものを」

 先輩の語り口調は、だんだん物語を読むようなリズムに変わっていきます。もっと言うと、唄っているようにも聞こえます。

「安藤弘貴はお前さんが見えた」

 『雨に唄えば』。そんな映画がありますけど、あいにく私は観たことがありません。

 いえ、映画だけじゃありません。小説も漫画もドラマもアニメも、私はそれらの内容を知っていて台詞や場面も思い出せますけど、肝心の『観た記憶』だけがないのです。

「安住真保は幽霊だ」

 ……ううん。それも違う。観た記憶もある。でもいつ、どこで見たの?

 どんな思いで見たの? 誰と……いや、誰として観たの?

「虐待の末に死亡した彼女は、母の生霊から逃れるための隠れ蓑として稀代のロリコン、武藤武道の内に潜んだ。彼女は武藤の魂とほぼ一体化し、彼の意識が眠っている間だけ表層に出ることができた。言うなれば二心一体。武藤武道はあの時、武藤でもあり安藤でもあり、そして安住真保でもあったってわけだ」

 ダメだ。ごちゃごちゃして思考がまとまりません。ザアザアと鳴っていた雨音はどんどん勢いを増し、轟々と滝のように私に襲いかかります。

「安住真保もお前さんが見えた」

 着物は水を吸って鉛のように重くなり、私を泥だらけの地面へと縛りつけます。もう立ち上がることも、体を起こすこともできません。する気もありません。

「真っ暗さんこと影女は生霊だ。あれは安住愛の実体化した欲望・執着・夢。何とでも呼ぶことはできる。ただ一つ確かなのは、あの影はお前さんが見えてなかったってことだ。金縛りがきかなかったからな。だがお前さんも霊感を持たない以上、影をどうにかすることはできなかった」

 降り注ぐ。怒涛のように。

「メグミ・ステイン。通称メグ。彼女もまた霊感少女だ」

 濡れたティッシュペーパーみたいに皮がふやける。

「彼女は親戚である日羽鳥笹那とはまた少し違っている。単純な霊感だけでは日羽鳥笹那の方が上だろうが、メグにはまた違ったモノが見える。人の感情。生霊。死んでないのに、実在しないモノたちが」

 ドロドロと流れる泥たちが私の足の裏を撫でる。

「メグもお前さんが見えた」

 ああ……

 どうしようもなく汚れきって

 脳みそまで浸透する雨が思考をも霞ませて

 音も、視界も、においも、全部が全部狂ってしまっているのに

 どうして――――

「最後。武藤武道は人間だ」

 どうしてこんなにも――――

「安藤と混ざった結果、性格の変貌、および霊媒体質を発症。一時期は安住真保に寄生されていた。にも関わらず彼は常に武藤武道であり続けた。自分を自分たらしめるものが、彼の中から失われなかったからだ」

 私は

「さて、じゃあここで問題だ」

 私が

「武藤武道はお前さんを見ることができるか? 今まで出くわさないようコソコソしていたお前さんが兄貴と対峙したとき、いったいどうなるんだい?」


 ……好きなんだろう




次回更新日は未定です

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