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涙爆弾  作者: 藤本乗降
第2章 発光しない異次元交流
16/26

2-10


       *


 敷地内に入り、一般客用の施設の門をくぐると何人かの職員が訝しげな眼差しでこちらを睨んできた。青臭いガキが付き添いもなしに――そう考えてるに違いない。女子刑務所だからか、職員は受付係を除きすべて女性だった。

 日羽鳥は背筋を伸ばして受付の方にスタスタ進み、一言二言何か告げた。

 すると、それを聞いた黒縁眼鏡の中年男性は

「ひ、日羽鳥!? あの日羽鳥様でいらっしゃいますか!?」

 と、ずれた眼鏡を慌てて直した。

 日羽鳥本人は首を縦にも横にも振らず、ポケットから学生証を差し出した。受付の男はそれを手に取り、目の前にいる自分より二回りほど違う少女をまじまじと見つめた。日羽鳥が少しムッと目を尖らせると男は「やや、失礼」と二歩後ろに下がった。その拍子で男の腰が机の角にぶつかり、書類が何枚も滑るように床へ落ちる。

「……アポは取っていたはずですけど」

 日羽鳥は静かな声で言った。若干呆れが混じった声だった。

 受付の男は、少し離れた位置から見ていた僕にもはっきり分かるほど喉を鳴らし、それから書類上の手続きを行った。

 十分後、僕らは面会室とやらに通されていた。

 プラスチック製の安っぽい椅子に座り、顔の前の部分だけ蜂の巣のように穴があけられたアクリル板の向こうを見つめている。

 僕は目だけを左に動かして、小声で質問した。

「あのー日羽鳥さん。今まで訊かなかったし訊く必要があるとも思ってなかったんだけど、君って一体全体何者なのさ」

 日羽鳥も目玉だけをこちらに向けて答えた。

「私はただのナウいヤングなシクスティーンですよ」

 彼女はそう言って前髪をかき分けた。

 いや、ただの女子高生に刑務所職員があんな態度とるかい。

 霊視能力。複雑な家庭環境。ひょっとして僕が知らないだけで日羽鳥の名は有名だったりするんだろうか?

 そのことについて尋ねようとしたとき、アクリル板の向こうから女性看守に引きつられた囚人服の女が入室してきた。

 髪はばっさりと短く切られ、ベリーショートくらいの長さになっている。顔はやつれ、頬は痩せこけ、両眼は虚ろで生気というものを微塵も感じさせなかった。だがしかし、そんな風貌であるにも関わらず「隈」だけはまったく存在しなかった。

「面接時間は今より三十分です。時間厳守で行ってください」

 四十代くらいの、口紅の濃い女性看守がそう告げた。

 まずは日羽鳥から喋るんだろうか、と思っていたら肘で小突かれた。え、僕から話せって? 日羽鳥の方を向くと彼女は無表情のまま軽く首肯した。

 僕は仕方なく目の前の受刑者――というよりはアクリル板のブツブツ穴に向かって喋り始めた。

「はじめまして、僕は武藤といいます。こちらは後輩の日羽鳥。あなたは安住愛さんで間違いありませんね?」

 彼女――安住は「はい」とも「いいえ」とも口に出さなかった。首も固定したまま、小声で何かブツブツと呟いていた。

 答えが聞けないので看守さんにアイコンタクトをとるが、あいにく無反応。続いて日羽鳥の方を見ると蔑むような目線が送られた。「そんなこと分かりきってるでしょう」とでも言いたげだ。

「では安住さんということで。……えっと安住さん、いきなりの質問ですが、あなた近頃夜中に妙な感覚を得ることがありませんか? 夜中、正確には夜の十一時前後くらいですけど。自分がここじゃない別の場所まで飛んでいくような……」

 反応はない。

 事前に聞いた情報だと安住愛は二十五歳のはずだが、向こうで死人のように座る彼女はとてもそんな年齢には見えなかった。

「夢を見たりはしませんか? 誰かと話したり、暗闇の中で歩き回ったりとか」

 すると安住はこちらを向いた。ちょうどこの内容に心当たりがあるのだ。つまるところ、それは彼女が真っ暗さん本体であることの何よりの証拠となった。

 安住は先ほどの表情が嘘だったように目を見開き、僕を穴が空くほど凝視している。その迫力は恐怖や憎悪といった類いのものではなく、それらを軽く凌駕するほどの『期待』であった。

「安住さん。あなたが去年のこの時期、自らの娘を死に至らしめたことを私たちは知っています」

 気圧され気味になっていた僕に代わって日羽鳥が問いかけ役を担う。

「そして……今でも娘さんを追い求めていることも」

 低い声で日羽鳥がそう言うと、安住は首だけをグリンと回して瞳孔を日羽鳥に向けた。

「あなたが娘さんを愛しているのか、必要としているのか、それとも憎んでいるのかは分かりませんが、とにかくあなたは娘さんを探している。これだけは確かなんじゃないですか?」

「あ……あ……ああ……あ」

 安住の開かれた口からそんな声が漏れ出る。かすれていて、弱弱しい声だが、声だけ聞くと確かに二十代の女らしい感じがしていた。

「今ここではっきり言っておきます。娘さんは確実に死んでいますし、あなたは娘さんと再会すべきではありません」

「や……いや……そんなはずない……ぜったいいる、いるんだから……」

 いる、という意味では間違っていないのかもしれない。そう思いながら手を胸に当てた。

「私はべつに心理カウンセラーじゃないから説得力に欠けるかもしれませんが、あなたは娘さんのことを忘れて、ここの職員の方々の言う通り過ごし、やがて真っ当な生き方をしていくべきでしょう。もし娘さんがここにいたとしても、あなたと会うことは望んでいないはずで――」

「そそそそそんなはずないわあッ!」

 急に安住が勢いよく椅子から立ち上がった。

 頭をアクリル板にぶつけ、穴から荒い鼻息が僕の耳元をかすめる。初夏だというのにその息ははっきりと白い蒸気を纏っている。腕は手錠を千切ろうと、手首に血が滲むまで引っ張っている。そして眼光はギラギラと怒りの色で染まっていた。

「あの子はいるの! 今もどこかにいるの! いるんだから! 私がお世話してオムツを変えてあげないといけない! 私がやらなきゃいけないの! 絵本を読んでおっぱいを飲ませないと、あの子はすぐ死んじゃうんだから! だから、だからだからだから――!」

 看守が急いで安住を羽交い絞めにする。だが、その細腕のどこにそんな力があるのか、安住は仁王のような顔をしたまま必死に抵抗していた。

 看守が応援を呼ぼうと口を開くが

「待ってください!」

 と日羽鳥が制した。

 突然のことにどう反応していいか分からない僕はいきなり髪をつかまれて立たされ、アクリル板におでこをくっつけた。

「その人をこちらへ」

「し、しかし……」

「いいから。一度だけです」

「……許可しましょう」

 日羽鳥の要求は看守の苦々しい表情とともに受け入れられた。

 おでこをぶつけたままの僕の前にフラフラと安住が寄る。

「安住さん。そこに娘さんがいます」

 驚いて日羽鳥を見ようとするが髪を引っ張られる。

 安住の顔がより近くなり、すぐ目の前、アクリル板だけを挟む距離まで近づいてきた。

 ギラギラとした眼光を間近に浴びて、ようやく実感する。

 確かに彼女はあの真っ暗さんだ、と。

 ヒステリックで情緒不安定で子供のことしか頭にない。

 多くの人は彼女を見て「ああ、なるほど。犯人っぽい感じ」と思うだろう。

 しかし僕は逆に、なぜこの人があんな真似をしたのか疑問に思った。

 数日間の交流で情が移ったのか。

 いや、そうじゃない。

 子供のことしか頭にない彼女が、暴力や過度の躾けをすることはあっても、ネグレクトをすることなんてあるのだろうか。

 一介の高校生に過ぎない僕にはそう思えたのだった。

「先輩、彼女の目を見てください。できるだけ何も考えず、無心で」

 言われた通りにする。

 安住の目が僕の目の奥の奥を見つめている。目を開けたまま無心になるというのは存外難しいものだが、僕もその目の奥を見つめるように心がけていたら、いつしか何の雑念も無くなっていたことを感じた。

 一分か、五分か、それとも一時間かは分からない。

 瞬きも忘れてそのままの状態を維持していると、不意に目から涙がこぼれ落ちた。

 同時に怒涛のように湧き起こってくるこの感情は――


『こわい』


 こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいここわいこわいこわいこわいこわいわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい

 出所不明の恐怖が僕の心を覆い尽くす。先ほど無心になった空洞をいいことに僕自身の心が何者かに侵食されるような……。

 そうか、これはあの幼女幽霊の感情だ。

 目を通して認識した母親を見て湧き出た、ただ一つの激情。

 それがこの恐怖。

「先輩、どうでしたか」

 日羽鳥が掴んでいた手を離すと、まるで何事もなかったかのように平静さがよみがえってくる。

 日羽鳥はなんてこともなさそうだ。おそらく彼女も幽霊の心までは視れないのだ。

「ああっ!」

 平静さを取り戻した僕の耳に入ったその声は、透明な壁越しに聞こえてきた。

「赤ちゃん赤ちゃん、私の赤ちゃん! やっぱりいたのね! 信じてた、私信じてたんだから! ねえ今度はどこにいっちゃったの? もう一度姿を見せて! お願いよ、もうかくれんぼはおしまい。ねえ赤ちゃん! 出ておいで私の赤ちゃん!」

 安住は歓声を上げながら――号泣していた。

 ガンガンと額をぶつける度、涙と鼻水、唾液などがアクリル板を汚していく。

 面会室中をびりびりと震動させる、甲高い大歓声。

 鼓膜を破らんとする大絶叫。

 安住の言葉はどんどん支離滅裂なものになっていき、とうとう「あああああああああ」を連続するだけになった。それでも彼女の叫びの中からは、確かに悲痛と喜びの色が感じられたのだった。


 その後、規定の時間には達していなかったものの面会を中断せざるを得なくなり、僕らは来た時と同じ経路で町に戻った。

 感動の再会という言葉が最大限の皮肉になってしまうほど、後味の悪い面会であった。

「日羽鳥、最初は『あなたは娘さんと会うべきではない』とか言ってたくせに、なんであの人に幽霊を見させたんだ?」

 バスの中。往路とは反対側の景色を眺めながら僕はそう訊いた。

「言ったでしょう、私は心理カウンセラーじゃない。生きた人間を説得するのは苦手なんです。だから無理矢理子供と再会させて、心の隙間を埋められないかなあと企てたんですけど……」

「『けど』?」

「その作戦がうまくいったかどうかは正直分かりません。一時の再会で心が晴れたか、はたまた余計に捜索活動に入れ込むか」



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