2-8
*
梅雨に入って一週間が過ぎた、六月七日木曜日の早朝。
先日到来した梅雨前線は町を濡らし、窓から見える景色にモザイクをかけていた。
ざあざあという音で僕は目を覚ます。と同時に、右手に何かが握られているのに気付いた。
寝転んだまま右手を上げるとピントの合わない視界に見慣れない紙片が映り、僕は覚めきらない思考でそれが何かを考えた。
レシートほどの大きさだから、学校のプリントとかじゃない。ピントが合うにつれて、紙片に薄い罫線が引かれているのが見て取れた。つまりこれはメモ帳だ。
軽く伸びをした後、それをひっくり返す。視界はまだぼやけている。ゴシゴシしてパチクリすると涙が滲んできて、寝間着の袖で拭うと、ようやく元通りの視覚を取り戻せた。
『赤ちゃん見つけた 放課後 駅前広場』
「ふぇ! ……~っふぁ!」
驚嘆の声と欠伸が続けて出た音。
って、いったい何の冗談だこれは?
もちろん昨日は誰もお泊りになんか来ちゃいないし、寝ぼけて自分で書いたとしても筆跡が違いすぎる。全体的に小さくで角が丸っこい字だから、きっと女性が書いたんだ。
母さん……じゃないよな絶対。
ということは、消去法的にこのメモの主は……
「ま、真っ暗さん?」
ということになる――のだろうか。
日羽鳥と仲違いして以来、昼休みは購買でパンを買って教室で食べるようになった。
彼女は今日も学食のいつもの席で、いつも通り焼きもやし定食を食べているのだろうか。
一人で食事する日羽鳥が脳裏に思い浮かんだが、カレーパンを齧って情景をかき消した。
放課後。僕は不安と猜疑心を抱えたまま駅前広場へと足を運んでいた。
いくつもの傘が四方を行き交い、緩やかな傾斜を描くタイルの上を雨水が勢いよく滑っていた。
真っ暗さんが夜中に手紙を書いて、眠る僕に握らせた。確かに真っ暗さんは物に触ることもできるし、僕の部屋にいて不自然じゃないから可能と言えば可能なのかもしれないけど……。
「うーん。なんか納得いかないんだよなあ」
そもそも真っ暗さんに手紙を書く知能が備わっているのだろうか? たしかに手紙の文章(というか単語の羅列)は知的とは言い難いものだった。だけど、どうしても違和感がある。
「それに手紙を書くこと自体、意味が分かんないんだよなあ。見つけたのはいいとして、なんで僕に報告してくるのさ。親子の仲でも自慢するってか?」
何にせよ、幼女が見られればそれでいいんだけどさ。
そんなことを考えながら、全身真っ黒の子連れ親子を探す僕だった。
雨のせいで視界が悪い。学ラン姿の学生やスーツのサラリーマンでさえも真っ暗さんのように見えてしまう。黒い傘を差しているからなおさらそう見えるのだ。
十五分ほど探していただろうか。広場の左端――駅の方角から駆け足で走ってくる人影が見えた。
今日は朝から雨が降っているので、傘を差し忘れている人は滅多にいない。なのにその人影は学生鞄を頭に乗せ、一心不乱に走っていた。足元からピチャピチャという小気味いい音が鳴る。
その人が僕の数メートル先を通過したところで、いきなりバシャン! という音がした。水溜まりを踏んでしまったのだ。しかも運悪く、近くにいた男性のスーツの裾に飛沫がかかってしまった。
男は「おい!」と呼び止めた。
走り去ろうとした人が「ご、ごめんなさい!」と頭を下げた。
びしょびしょのショートカットが揺れ、濡れたうなじが露わになった。
男は舌打ちをして立ち去り、ぐしょぐしょになったソイツはゆっくり顔を上げた。
「……日羽鳥?」
制服を着ていなかったから一見しただけでは気付かなかった。シックな色調で統一されたパーカーもジーンズも、雨のせいで黒く濁ったものになっていた。
それでも、見慣れた顔を見間違うわけなんてなかった。
日羽鳥は僕の声が聞こえたのか「せ、先輩?」と驚いたような声をあげた。
「お前なんでこんなとこ……てか学校は?」
日羽鳥は慌てて僕の方へ駆け寄ってきた。濡れたタイルに足を取られて、小さな体がぐらりと揺れる。
危ない! と瞬間的に感じた僕は無意識のうちに手を伸ばしていた。
バシャア!
と音を立てて、僕は地面に転倒した。背中にびしょびしょの大きなものが乗っかっている。
上に覆いかぶさった彼女が退いてから、僕も起き上がる。
「先輩、鼻血出てます」
「え、マジで?」
「あ、私ハンカチ持ってますから」
そこは普通ティッシュだろと返答する前に、鼻腔にずいっとハンカチが突っ込まれた。「ふごっ」と豚みたいな声が出る。なんつー乱暴なやり方だ……。
息を整えて、僕らはいったん広場の屋根の下に移動して話をすることにした。ベンチは濡れていたので、立ったままでだ。
日羽鳥は僕のハンカチで髪を拭いてから語りだした。
「単刀直入に言います。もう一度先輩に霊視をさせてください」
鋭い上目づかい。まつ毛についた小さな水滴が光を反射する。
その静かな迫力に気圧されそうになったが、僕は自分の言いたいことを言うことにする。
「何のつもりだ。どうせまたお笑いネタにするんだろ。もう『説得』も要らないんだし、関わってくるなよ」
日羽鳥は唇を噛んで俯いた。けれど、すぐにまた向き直してきた。
「お願いです。これは先輩のためなんです」
「その前に学校はどうしたんだよ。駅から出てきたよな? じゃあサボりか。まあお前が何しようが勝手だけどさ」
「先輩っ!」
日羽鳥の両目からは露が溢れそうになっていた。
雨だ、雨のせいだ。僕はそう思った。
「先輩は! 先輩の中に何がいるのか、知りたくないんですかっ!」
普段は蓋をしている感情が、その叫びに乗って僕にぶつかってきたように感じた。
日羽鳥の感情。
日羽鳥笹那の激情。
彼女は肩で息をしていた。走ってきたせいか、慣れない大声を出したせいなのか。
「僕の中に……何がいるって?」
そう尋ねると、日羽鳥は倒れるように僕の体に寄りかかってきた。
「お、おい! 大丈夫か?」
「……平気です。それより先輩、目を閉じて、心を空っぽにしていてください」
そう言われても、往来で男女二人、こんな恰好をするというのはちょっと抵抗があるんだけど……。
慌てているうちに日羽鳥の両手が僕の背中に回されて、恥ずかしさとか意味不明さとかいろんな感情が急上昇してくる。
「先輩…………お願いですから」
……はあ。
腹をくくることにした。騙されたと思うことにした。
通行人からの奇異の眼差しを受けるのなら、目を閉じた方がマシだから。そう言い訳してまぶたを下ろす。
何も考えないようにする。
日羽鳥のことも真っ暗さんのことも……。
何で日羽鳥がここにいるのかとか、手紙のこととかは考えない……考えない……。
「先輩」
う、そうだ。心を無にしなきゃ。
無に。無に……。
……。
…………。
……………………。
しばらくして、背中の手が解かれるのを感じた。
目を開けるとどこか安心したような顔をする日羽鳥があった。
「ふう。やっぱり私の思った通りです」
何がどうなっているのかさっぱり理解できない僕にも分かるように説明してくれ。
「やっと分かりましたよ。どうして先輩が霊さんの影響を受けなくなったのか」
彼女はうんうんと頷いている。
「待て待て! じゃあ日羽鳥、今までその理由が分かってなかってことなのか?」
「そうですけど。だって私、専門家じゃありませんから」
けろっとした様子で日羽鳥は言った。
僕は今の彼女の台詞を聞いて、一週間前のことを思い出す。
僕が、霊媒体質が無くなったことを何故早く言わなかったのかと尋ねて、日羽鳥が「面白かったですよ♪」と答えた時のことだ。
ええっと、じゃあ日羽鳥は面白さ目的で「言わなかった」のではなく、得体の知れない現象だったから「言えなかった」?
それはつまり、分からない事象を無責任に伝えるのを避けて、それが何なのかハッキリさせることを優先したってことで……。
要するに、僕は日羽鳥を誤解してたってことか。
「すまん、日羽鳥」
頭を下げる。深く、深く。
「え? 珍しいですね、どうしたんですか先輩」
「どうしたんですかって……僕が誤解してたってことだよ。お前は専門家じゃないかもしれないけど、自分のやることには責任持てるやつだったんだな」
「私は気にしてませんでしたけどね。『この人は冗談を本気にして何キレてんだろ』って。…………よかった。」
「ん?」
最後の部分が雨音でうまく聞きとれなかった。
許しが出たところで僕は頭を上げた。日羽鳥が手に持つハンカチを取って、彼女の髪を拭いてやる。
「それで、今の霊視で分かったことって何なんだ?」
「ええと、それなんですが先輩」
日羽鳥は少し困ったような笑顔で
「明日学校サボりません?」
と提案してきた。