2-7
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翌朝、ぎちぎちに縛られた男とベッドの上で何事もなかったかのように熟睡する女子高生を家族の誰かが発見して武藤家史上最大級の家族会議が開かれる……という事態は起こらなかった。明朝に日羽鳥が解放してくれたからだ。寝起きの彼女は昨晩の記憶をすぐに思い出せず「ふ、不審者です! なんかヤバイ人が私の部屋にー!」と叫んでいた。
こうして奇妙なお泊り会は幕を閉じ、僕らはいつも通りの生活に戻った。
昼は学校に通い、部室に用があるときは寄り、家に帰って寝る。
変わった部分はと言うと、就寝前の金縛りが日課になったこと。
そして……
「『説得』がもう必要ない?」
「はい。先週末以来、先輩から悪意ある霊障は感じられません」
五月三十日水曜日――お泊りの二日後。やはり学食において、僕はそう宣告されたのだった。
「以前はコロコロクリーナーのホコリ並みにくっついてた霊さんたちですが、今ではスッキリですね。この調子なら、不意に屋上からフライアウェイする恐れもないでしょう」
「で、でも僕、この間の週末あたりとか滅茶苦茶大変だったんだぜ!? 気分はすこぶるブルーだわ、カラオケ行けなくなるわでさ!」
あの時から霊の影響が無くなったって? そんな意見が間違っていることは、他でもない僕の経験が証明している。
日羽鳥は水を一口含んでから答えた。
「あの時点で先輩に霊さんは憑いていませんでしたよ。テンションが低かったのは単に、先輩の中に霊障が残っていたのが原因です。その証拠に、今では全然自殺したいなんて思わないでしょう?」
た、確かにその通りだ。
週明けから僕の心に巣食っていた得体の知れない闇は消え去り、僕は『一日中普通のテンションで過ごす』という当たり前のことを久しぶりに経験していたのだった。
「で、でも! だったら何で先に教えてくれなかったんだよ! おかげで僕は今の今まで幽霊にとり憑かれているものとばっかり――」
テーブル上のもの全てを倒さんとする勢いで日羽鳥に詰め寄る。
すると彼女は不敵な笑みでこう言った。
「いやあ楽しかったですよ。ありもしない恐怖に怯える滑稽な姿♪」
ぷつん、と何かが切れたような音がした。
「あ?」
それが自分の口から出た音だと気付くのに、少し時間がかかった。
楽しかった……だって? こっちは必死で頑張ってきたのに? 死ぬかもしれないって思いを、どうにか、どうにか鎮めながら……!
この発言に対しては、さすがの僕も激情を抑えずにいられなかった。
「ふざけんなっ!」
時が止まったかと思った。
周りの生徒たちの声が一瞬だけ止み、すぐにまた何事もなかったかのように喋りだす。
僕は目の前にいるやつの顔も見ずに立ち上がった。
焼きもやし定食を残したまま、僕は振り返ることなく食堂を出る。しばらくしないうちに昼休み終了のチャイムが鳴った。
*
こうして僕は、日羽鳥に会う理由も、会いたいと思う気持ちも失った。
でもこれでいいんだ。何の不都合もない。
昼休みにわざわざ会いに行かなくたって、見えない霊はもういない。
一々余計なことを言われずに済むし、理不尽な中傷で気を悪くすることもない。
どうして急に霊媒体質が無効になったのかは気になるけれど、そんなのは早急に知りたいことじゃない。終わり良ければ総て良し、だ。
それに……日羽鳥との交流が絶たれたからといって、僕は一人ぼっちになるわけじゃない。
「こんばんは、真っ暗さん」
「こんばんは」
電気の消えた真っ暗な部屋の中で、僕は真っ暗さんと談話する。
「赤ちゃん、今日も見つからなかったよ」
「そうなの?」
「ああ。近所の公園を見ても、交番に行ってもダメだった」
「なんで?」
「そう言われても、僕の努力と行動範囲と時間の限界だったって言うしかないなあ……。でも大丈夫さ。いつか必ず見つけてみせるから」
「ほんと?」
「本当だよ」
子供は、ちゃんとその子を愛してくれる親のもとにいるのが一番だ。僕は一人の人間である前に、一人の児童愛好家として心からそう思う。
真っ暗さんは大体いつもテキトーな返事しかしてこない。会話が成り立っている分、今日の彼女は比較的聡明な方だと言えるだろう。だから未だに、赤ちゃんについての詳細な情報は得られていない。
でもこれでいいんだ。真っ暗さんが生霊である以上解決方法なんてない。赤ちゃんを見つけようが見つけまいが、彼女の出現には関係ないのかもしれない。そう考えるとこの金縛り生活からどう脱するかではなく、どう慣れるかが重要になる。出現時間を予測し、夜やる予定をそれに合わせて調節する。
昨晩が早めの出現だったら、今日は少し遅めになるとか。
まあこんな予測なんて気休めみたいなもんで、実際は完全にランダムなんだけど。そういうところが生霊らしい特徴と言えるのかもしれない。
前に日羽鳥が例えたように、真っ暗さんは本体が寝静まったあとに現れるのではないかと僕は考えている。もちろんオカルトに関しては素人同然の僕だから、こんな分析は的を外れているのかも……いや、きっと外れているんだろうけど。
ともかく、僕は毎晩の談話に恐怖することはなかった。
生霊の怖さが生きていることだとするなら、生霊の魅力もまた生きているということなのだろう。
子供を愛する者同士だ。会話が成り立たなくても、僕は真っ暗さんを一人の友人とみなしていたのかもしれない。