表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
涙爆弾  作者: 藤本乗降
第2章 発光しない異次元交流
11/26

2-5


       *


 部室には寄らずに校門を出て、ちょっと寄り道をしたあと、真っ赤な自動販売機の前を通り過ぎて帰るべき場所へとやってきた。

 まだ春だというのに気温はいっこうに下がらず、家と家の間から突き刺す夕日が僕の顔を横から焼いている。カッターシャツの下の背中はしっとり濡れている。今日は自転車ではなくて歩きだったから? それもあるけれど、それだけじゃない。

 重い足を一歩一歩動かして玄関の前へ。ドアノブに映る歪んだ僕の顔は、ぐにゃぐにゃに曲がっていても困り顔だというのがはっきり分かった。

「どうしたんですか先輩。早く入りましょうよ」

 なんでお前がいるんだ。

 帰路の途中で何回そう思ったことだろう。

 家が近づくにつれ、その疑問は「どう説明しよう……」という焦燥へ変わりつつあった。

「なあ、本当にこうする必要があるのか?」

「うーん、必要があるかないかで言えば、なしですね。そもそも私が先輩を助けるメリットなんてありませんし、嫌なら嫌でけっこうです」

 余計なことを口走ってしまったらしい。

「すまん、今の言葉は忘れてくれ」

「懸命ですね」

 仕方がない、僕も男だ。ここは堂々とした態度でいるのが一番だろう。

 深く息を吐いてから、ドアノブを捻る。

「ただいま」少しして、台所から母さんが顔を出す。

「……まあ!」「こんにちは」

 鳩が豆鉄砲を食らったよう、とは今の母さんみたいな様子を言うんだな。あれ、『食ったよう』だったかな? まあどうでもいいや。

「日羽鳥と申します」

 この場でただ一人普段通りの日羽鳥はぺこりとお辞儀をした。

 つられて母さんも慌ててぺこり。頬や口元をペタペタと触っているが、きっと化粧をしなくちゃとか考えているのだろう。

「あー、母さん」

「武道、あんた――」

「違う。母さんが想像してるようなパターンじゃないから」

「……えー、ホントお?」

 ウザさ満点で言われた。

「一つ訊きたいのですが、先輩のお母さん」

「あら、なあに日羽鳥さん?」

「今夜、この家に泊まらせていただくというのは可能でしょうか?」

「…………」

 あ、固まった。

 と思ったら、母さんはいきなり肩を掴んできて、土足のままの僕を玄関に引きずり込んだ。一センチもない距離で耳打ちされる。

「あんた、明日火曜よ? 何考えてるの? 別にお泊り自体に反対してるわけじゃないの。でもタイミングってあるでしょ? もうちょっと我慢できなかったの?」

「ああもう! こうなると思ってたけどさあ!」

 その後、なんとか理由(両親が明日まで留守なのに合鍵を川に落としてしまった)をでっちあげて、部屋まで上げることに成功した。

 それからしばらくして日羽鳥は我が家の食卓におとなしく座り、矢継ぎ早に飛んでくる母さんの質問を淡々と答えていた。趣味や家族構成といった無難なものから、好みのタイプといった際どいものまで幅広い質問責めに遭いながらも、日羽鳥は眉一つ動かさなかった。ちなみに好みのタイプは「常識的な恋愛観を持っていて、やっていいことと駄目なことの区別がつくことが前提条件ですかね」だそうだ。

 普段よりだいぶ――主に母さんが――盛り上がった団欒が終わると、一番風呂は客人である日羽鳥が貰うことになった。

 こういう状況だと、いわゆるライトノベル的展開として風呂上がりの日羽鳥にバッタリ遭遇するとかいうことがありそうなものだけど

「覗いたら死にますよ」

 という釘が僕を自室に繋ぎとめている。

 いや、いくら年下とはいえ女子高生の裸を覗こうなんて、この僕がするはずないじゃないですか。

 とはいえ、生命線を握られている立場ともなれば下手なことも言えないのだった。

「上がりましたよー」

 そう言って部屋に入ってきた日羽鳥を見ても、僕の心は揺れ動くことなんてあるはずもなく……

「……お、おう」

 なく……

「? どうしたんですか、先輩」

 なく……なく……なく……な――――

「また卑猥なことでも考えてるんじゃないでしょうね?」

「い、いや」

 ホクホクと湯気が立ちのぼる日羽鳥の髪の毛からは嗅ぎ慣れたはずのシャンプーの香りが漂っている。それは毎日母さんが使っているのと同じであるはずなのに、まるで違って香っていた。僕が初めて目にする日羽鳥の制服以外の服は黄色の水玉パジャマ。言い方は悪いけどそのカラーは日羽鳥っぽくなくて、なんだかとても意外だった。

「ならいいですけど。さ、早くお風呂入っちゃってください。私の残り湯は飲まないでくださいね」

 言われなくても、誰が飲むか。

 僕はそう吐き捨てて浴室へ向かった。


「あれ? 気のせいか、のぼせてません? 先輩」

「あー……体質かなんかじゃないのか?」

「どうして疑問形なんですか」


       *


 夜十一時。

 真っ暗さんが現れるのは決まってこの時刻だ。今晩もまた蛍光灯がぶつりと途切れ、僕の四肢はコンクリートでも流し込まれたかのように動けなくなった。

 ただ一つ大きな違いがあるとすれば……日羽鳥笹那、彼女が僕のベッドに鎮座しているということだった。

 日羽鳥がベッドにいるなら僕はどこに寝るのかって? 当然、床に決まっている。

 まるで僕らの上下関係を如実に表しているような構図だが、これしき屈辱も状況打破のためだ。文句を言うつもりはない。

 それよりも言いたいことがあるとすれば……

「あのぅ……日羽鳥サン、どうして僕は縛られなければならないんでしょうか?」

 金縛りに遭う以前に、物理的に縛られていた。

 日羽鳥が鞄からロープを取り出し、質問する間もなく後ろを向かされたかと思えば、一瞬で手首を縛られた。抵抗を試みたが時すでに遅し、日羽鳥の意外な特技を垣間見た瞬間だった。

「自分で言うのもなんですけど、なかなか鮮やかな手際でしょう?」

「ホントにな!」

 そうこうしているうちに闇の中から輪郭が浮かび上がってきた。五回目の邂逅ともなれば彼女も慣れたらしく、スムーズに女性の形を取り戻していった。

 そしていつもの台詞。

「私の赤ちゃんは?」

 真っ暗さんはベッドの日羽鳥の方を向いてそう訊いた。

 日羽鳥の姿は僕の位置からはよく見えない。いったいあいつはどんな表情でこの幽霊を視ているのだろう。

 あ、でも金縛りだから表情自体は変わんない、か。

「……」

 日羽鳥はしかし、何も言わなかった。

「私の赤ちゃんは?」

 真っ暗さんは変わらずそう訊くだけ。

 すべて日羽鳥に任せると誓った僕が言葉をかけるわけにもいかず、どうしたらいいか分からない時間がしばし続いた。

「私の赤ちゃんは?」

「……」

「私の赤ちゃんは?」

「……」

「私の可愛い赤ちゃんは?」

「……」

「私によく似た、可愛い赤ちゃん」

「……」

「私によく似た、可愛い可愛い赤ちゃん」

「……」

「赤ちゃん」

「……」

「可愛い可愛い赤ちゃん」

「……」

「可愛い可愛い可愛い可愛い赤ちゃん」

「……」

「ねえ赤ちゃんはどこ? どこにいるの?」

「……」

「教えてよ。いるんでしょう? ねえ?」

「……」

「ねえったら」

「……」

「ねえ、ねえ」

「……」

 この空気に耐えられないからといって今の僕には退出することもできない。その逃げ場のない感覚が、いっそう居心地の悪さを助長していた。

 何故日羽鳥はだんまりを決め込んでいるのだろう。その理由を探る僕の脳裏に、とある仮説が浮かんできた。

 ひょっとすると、真っ暗さんは今まで出会ったどの霊よりも強力で凶悪なのではないか。一言でも口を交わせば相手に取り込まれ、霊視能力者ですらたやすく呪い殺す悪霊。

 それって、考え得る中で最悪なパターンじゃないか。

「私の可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い赤ちゃんは?」

「……」

 真っ暗さんの口調は最初の質問と大して変わらない。そのことがなおさら狂気を倍増させていた。

 日羽鳥はなおも答えない。

 何度も何度も不毛なやりとりを繰り返して、真っ暗さんはとうとう僕の方へ向き直った。……いや、位置的には向き直ったというより見下したというべきか。

 下を向く真っ暗さんの顔は、心なしかいつもより深い闇を漂わせているように見えた。

 ボソボソと言葉にならない声が上から降ってきて、額に、頬に、ぶつかって融ける。

 頬を垂れる声は文字に表せないけれど、僕には確かに「赤ちゃん」という意味が込められていると理解できた。

 粘度の高い雨、という表現がしっくりくる。

 やがて真っ暗さんは真っ暗なままに輪郭を失っていき、声だけをその場に残したまま、闇へと消えた。

 残された声は一粒、二粒、三粒と僕の鼻の頭に落っこちて、それっきりだった。

「うあっ!」突如、蛍光灯の光が前触れもなく両目を襲う。

 まぶたを擦ろうと右手を動かそうとして、自分がロープに縛られている事実を思い出した。

「おい! もういいだろ、外してくれよ!」

 日羽鳥はすぐに答えず、一拍置いてベッドから顔を覗かせた。少しの疲労と、大きな困惑がそこにはあった。

「先輩……」

 日羽鳥は僕を見下ろして、申し訳なさそうに言った。

「あれはちょっと……どうしようもありません」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ