桜の海
朝から蝉の合唱に追い立てられて家を出る。
四方から迫る鳴き声に朝から嫌なもんだとごちる妻。
気まぐれに蝉をかばったもんだから腹を立てた彼女に追い出されてしまったのだ。
はてさて、どこをぶらついて時間をつぶそうか。
気温とは逆に懐が寒ければ、朝っぱらから喫茶店にこもる贅沢はできまいて。
額に浮く汗をぬぐいながら、ふらりとあてのない散歩。
それは長くは続かなかった。
目の端にちらりと影が触れる。
ひんやりと冷たい夜の風が吹く。
「おや、ごきげんよう。物書き先生」
黒い衣をまとった男が薄く笑う。
なじんだはずのその顔がひどく異質に見えるのは、すべてのものが生命を謳歌する夏の昼日向だからだろう。
触れれば凍えてしまいそうな白い肌は陽を受け、さらに色を無くしていくかのようだ。
瞳の色ばかりが黒々としている。
それは内へ内へと渦を巻き、飲み込まれてしまいそう。
「珍しいね。仕事も入っていない私の前に君が現れるのは」
「そうですかい?」
すっとぼけつつ男は納得したようだ。
確かに私が部屋を借りるとき以外に顔を合わせた覚えはないのだろう。
「今日はちょっと厄介ごとがありましてね」
「厄介ごと?」
「そうでさぁ。ふむ。興味がおありなら一緒に来ますかい? 物書き先生」
「おいおい、興味と言ったって一体何があったっていうんだい。この暑い日に面倒に巻き込まれるのはごめんだよ」
人とはこういうものだ。
普段は感謝の念すら抱いている相手なのに不穏な空気を纏うと途端に遠ざける。
「そもそも、どこへ行こうっていうんだい」
興味がないわけではない。
いや、むしろ他人の家をのぞき見視るような後ろめたさと高揚感の混じったおかしなものが胸の中をめぐるのを感じたのだ。
「なぁに、物書き先生に迷惑がかかる様なことはありませんぜ。ただの部屋です」
「……部屋というと」
今度は正直に言おう。
興味は大いにある。
部屋とはあの部屋のことだ。
私の愛しい籠り部屋。
「部屋ですよ。お貸しするあの部屋。ただし物書き先生の部屋じゃぁありませんけどね」
男は私の好奇心などお見通しとばかりにくふりと嗤う。
「興味がおありなら、どうぞ」
男が鍵を懐から出せば、いつの間にか目の前には扉が現れる。
なぜかいつも鍵にばかり目を奪われて。扉が出現する様を直接みたことがないのだ。
「これは、ずいぶんと年季の入った扉だねぇ」
美しいつた草の彫金が施されたドアノブは錆びつき、扉の木材も飴色を通り越しに煮こごったような色をしていた。
「いいのかい? 私が入っても」
「ええ、借主は亡くなってしまいましたからねぇ。今回は回収しにきたのですよ」
「回収?」
「ええ、この部屋をね。物書き先生は仕事をする間だけという契約ですが、年単位で借りる方もいますから」
私は一瞬、考えた。
あの私の籠り部屋がずっとわたしのものだったら。
「だめですぜ。物書き先生。あんたは化石みたいに変化しなくて平気なんだから、外に出なけりゃ」
「どういうことだい」
「原稿用紙は一枚も埋まらないってことですよ」
ほんの少しの潤滑油。
過ぎれば、それが常となり飲み込まれる。
「死んでしまったら返してもらうのか」
「そりゃ、慈善事業で貸し出しているわけではないのだから、代価として得るものがなければ強制的に閉じさせていただきますよ」
男がドアノブに手をかけると、ざぁと薄紅の風が流れた。
一面の桜吹雪。
見渡すばかりの桜並木。
地面には幾重にも花びらが降り注ぎ、はるか頭上まで花で埋まっている。
枝の隙間からわずかに空の青が見える。
「えっ……ここは外じゃないのかい?」
「まぁ明確な区分はありませんぜ。物書き先生の部屋だって砂丘が良いと思えばそうなりますし、海にだって早変わりってわけ。どちらも仕事に向いているとは思えませんがねぇ」
「そりゃぁ、そうだろうね」
暑がりの上にカナヅチの私は砂丘も海も御免こうむりたいものだ。
ごろごろと転がれる畳が良い。
想像してみても部屋の様子は変化しない。
やはり私の部屋ではないからだろう。
「何を思って桜の部屋にしたんだろうねぇ」
いくら桜が好きでも、やりすぎだ。
美しいというよりも鬼気迫るものがある。
薄紅に埋もれて窒息してしまいそうだ。
「そいつは、これのためでさぁ」
男は花びらの層の中から何かを取り出した。
「……なっ! ほっほんものなのかい」
一体の骸骨が男の腕に抱かれている。
洞のような眼窩が私を見つめている。
「ええ、本物です」
こともなげに言われたが、私はとうに悲鳴をあげるタイミングを見失ってしまったのだ。
骸骨が私を笑ったような気がした。
「ここを借りたのは、まだ若い男でしてね」
男が骸骨の腕を取り、まるでワルツでも踊るように体を揺らす。
華麗に一回転すれば、胴体に引きずられるように手足の骨が一拍おきに回った。
「男は願ったんですよ。死体を隠せる場所。けっして見つからない場所。だけど、最後に女が可哀そうになったのか好きな桜の花で埋め尽くすようにね」
「それで桜ばかりなのか」
「ここは想像の部屋ですぜ。なんだってその脳裏に思い浮かぶことができたものは再現できる。そうでしょう? だけど、男には想像できなかった。死体をまるっきりなかったことにするなんてね」
「死体をまるっきり……」
「隠そう。そうだ。埋めてしまう。そこまではよかったんですがね、男の中ではこうだった。埋めたら隠せても骨は残っちまう」
「ああ」
「まぁ、いいものを残していただきました」
「いいものったって骨なんてどうするつもりなんだよ。代わりに供養でもしてやるのかい」
「……骨? 何を言っているんですかい。物書き先生」
「え?」
再び夜の風が吹いた。わずかに見えていた青空は夜へと変わる。
薄紅はわずかに青みを帯びて、なおも降り積もる。
「これはね、飴細工ですよ」
「飴!?」
灰と白を混ぜたような色は白さを増し、艶やかに変わっていく。
いつの間にか上った三日月の光をうけ光沢さえ持った。
「ほぅらね。おひとついかがですかい」
男はあばらの一本を差し出したが、冗談じゃないと丁重に断った。
もはや飴細工にしか見えないそれが、確かに人の骨であったことは疑いようがない。
「まさか、食べるんじゃないだろうね」
男はこてりと首をかしげて見せた。
「飴ですぜ。物書き先生。食べるに決まっているでしょう。俺は菓子が好物だと知っているでしょう」
「なんで、桜を飴に変えないんだい」
そちらの方がよほど美しくてうまそうだ。
「ただ甘いだけではつまらないでしょう」
男は笑う。
赤い唇で頭蓋骨に触れながら。
くらくらと眩暈がしそうな光景だ。
男が歯を立てれば、ばりんと割れた。
半分崩れた眼窩が恨めし気に見えた。
すっかり汗が冷え、鳥肌を立てた私を見越して男は口を開く。
「ごきげんよう。物書き先生」
気がつけば太陽がさんさんと降り注ぐ路地に阿呆のように立っていた。
止まっていた汗が一気に噴き出す。
じんじんじわじわ。
耳が痛くなるような蝉の声。
けれど、私の脳裏にはバリン、ボリンと飴をかみ砕く音が響いていた。




